見出し画像

偏差値七十二の沈黙


英語は、得意だった。少なくとも、十八歳の春まではそう思っていた。

予備校の模試では、英語の偏差値だけがいつも浮いていた。長文読解は最初の段落を読めばだいたい構造が見えた。仮定法も分詞構文も、問題用紙の上では裏切らなかった。だから英文学科を選んだ。好きだから、というより、できるからだった。

入学式の翌週、最初の必修授業で、その考えは静かに折れた。

「では英語で自己紹介を」と教授が言った。前の席の女子学生が立ち上がり、水が流れるように英語を話した。一度も天井を見なかった。教授が何か言うと間髪入れず返し、教室の何人かが笑った。私は笑えなかった。意味はわかった。七割くらいは。でもその七割を追いかけているあいだに、彼女はもう次の場所にいた。

カナダに五年。シンガポールに三年。帰国子女、帰国子女、帰国子女。

自分の番が来た。立ち上がると椅子の脚が床をこすって、思ったより大きな音がした。

My name is Takumi Sato.

そこまでは言えた。用意していたはずの文が、全部、紙の上の英語に戻ってしまった。口の中には、偏差値七十二の沈黙だけが残った。

転機は翻訳の授業だった。帰国子女の学生がさらっと読み飛ばした一文に、私だけが引っかかった。

「この単語、意味は簡単なんですけど、ここでは少し怖い使われ方をしていると思って」

教室が、少し静かになった。


帰り道、私はイヤホンで英会話を聞かなかった。鞄から薄いペーパーバックを取り出した。知らない単語はまだ多い。声に出せば、きっとぎこちない。でも一文目を読んだとき、少しだけ息がしやすくなった。

英語は、得意だった。

その言葉をもう一度使うには、まだ時間がかかる。でも今度は、偏差値の横に置くのではなく、自分の声の届く場所に置きたいと思った。

いいなと思ったら応援しよう!