最後の留守番電話
固定電話を解約しようと思った。
スマートフォンしか使わなくなって十年以上。毎月の基本料金だけが、律儀に口座から引き落とされている。
受話器を持ち上げることも、もう何年もなかった。
念のため留守番電話を確認する。
「メッセージは二十七件です」
そんなにあるのか、と苦笑する。
ほとんどは営業電話だった。
外壁塗装。
保険。
健康食品。
削除ボタンを押していく。
残り一件になった。
再生ボタンを押す。
「……」
無音だった。
また営業かと思って消そうとした、その時。
「もしもし」
女性の声だった。
聞き覚えがある。
「聞いてる?」
胸の奥がざわつく。
その声は、十五年前に亡くなった母にそっくりだった。
もちろん、そんなはずはない。
録音の日付を確認しようとして気づく。
表示がない。
「ちゃんと食べてる?」
母は昔から同じことしか言わなかった。
帰省するたびに。
電話をかけるたびに。
「大丈夫」と答えるたびに、「本当に?」と笑った。
録音は続く。
「仕事ばっかりしないでね」
息をする音まで懐かしかった。
気づけば受話器を握る手が震えていた。
「お母さん……」
返事があるわけもない。
録音なのだから。
やがて母は少し笑って言った。
「こういうの、残しておけば、いつか聞く日が来ると思って」
その言葉で思い出した。
亡くなる少し前。
実家の電話が鳴った。
仕事中だった私は「あとでかけ直す」と切ってしまった。
結局、その日のうちに電話はしなかった。
翌朝、母は救急搬送された。
それが最後だった。
父から荷物を整理したと聞いた時、留守番電話のことなど誰も気に留めなかった。
母は私が聞くことを信じて、吹き込んでいたのだ。
録音は終わりに近づく。
「それからね」
少し間が空く。
「ありがとう」
たった五文字だった。
私は何に対する「ありがとう」なのか分からないまま、涙が止まらなくなった。
母は理由を説明しない人だった。
ご飯を作っても。
服を縫ってくれても。
心配してくれても。
最後まで、理由は言わない。
「ありがとう」だけで終わる。
録音が切れた。
機械音が静かに鳴る。
「メッセージは以上です」
私は削除ボタンを押せなかった。
翌日、電話会社へ解約の連絡を入れるのをやめた。
固定電話は相変わらず鳴らない。
毎月、少しだけ料金が引き落とされる。
それでも構わないと思った。
もう誰からも電話は来ない。
けれど、私には帰る場所が一つ残っている。
受話器を上げて、最後の留守番電話を聞くたびに。
「ちゃんと食べてる?」
あの日の母は、今も変わらない声で、私の帰りを待っている。
