「戀」
私を死へと葬った貴女の美貌をひとときも忘れたことはございません。貴女へと抱いていた戀心を、どう忘れようがありましょう。それは新たに生を受けた今も、まさに憶えていることなのです。
物心がついてから何か大切なものを失くしてしまったというような焦燥と空虚感が心をずっと占めておりました。私は度々その虚しさを感じては泣き、母親に宥められては落ち着くというのを繰り返していました。母が私を抱き背中を優しくさするぬくもりを以てしか得られぬ安心感に何時しか依存するようになりました。齢が十八歳を迎える頃にはもう母に甘えるという行為を恥じるようになってしまい、心の空洞を埋めるすべも分からず、途方に暮れるようになりました。そんな折です。目の前を通りがかる和装の女性を見た瞬間に、かつての生と死が濁流のように頭に流れ込んできました。私はその衝撃に耐えきれずその場で倒れてしまい、女性に介助をされました。手に触れる着物の感触。懐かしく、狂おしい、貴女との記憶を取り戻しました。はらはらと泣く私を見て心配した女性は、近くの交番からお巡りさんを呼んで寄越しました。私は補導という形で家へ送り届けられ、母から幼き頃のように抱きしめられ宥められました。久方ぶりに味わうその温もりで、また貴女を想い泣きました。暫く学業を休みたい旨を伝え、部屋に引きこもり貴女と再会するための算段を立て始めました。胸を熱く滾らせながら、私は貴女と過ごした日々を思い出しておりました。
およそ百年前に、貴女――胡蝶様と出逢いました。首都を襲った大地震で家族を失くし頭に大きな傷を負った十三歳の私を拾ってくださったのが貴女でした。胡蝶様は屋敷まで私を抱きかかえ連れ帰り、奥にある療養室でまだ傷の痛みに苦しむ私を寝かせ、毎晩看病をしてくださいました。夜半の頃にはじりじりと痛み、どうしようもなく熱を帯びた額に、貴女がそっとくちづけをするとたちまち楽になるのが不思議でした。「いい子」と撫でてもらいながら微睡みに落ちてゆく感覚は、まるで幸せのひとときでした。起き上がれるようになった頃には、貴女の腕に抱かれながら綺麗に剥いた林檎の一欠を食べさせてもらいました。亡き母を想い涙すると、貴女は優しく抱擁してくださるのです。やがて月日が経ち、私は屋敷の昼間の留守番と手入れを任されることになりました。夜の帳が落ちた頃に、貴女は奥の部屋から寝間着姿で出てきて眠たそうに食卓につき、私は準備しておいた紅茶を淹れ、庭でとった薔薇の花弁を浮かべます。貴女が紅茶を飲み新聞に目を通している間、御髪に櫛を通すのが私の役目でした。黒く艶のある長い髪は蝋燭の炎の照り返しを受けて煌めいて見えて、私の奥にあるもどかしいほどの欲求に火をつけるくらいに魅惑的でした。私の齢はもう十八歳になっていて、所謂劣情と云うべきものを貴女に抱いてしまっていたのです。尤も、貴女へそれを隠すようにしていましたから、不意に振り向き時事について私に尋ねる上目遣いの瞳を見ても冷静に居られるほどには己を律しておりました。「流行り病ですって、恐いわね」。鈴を鳴らすようなその声に恐れの色は無く、私も空返事をしたきりでその話題は終わりました。そして、その噂の病をもらい倒れてしまった床にて、やっと嗚呼あの事かと思い出したというわけです。息が苦しく、熱も出て睡眠もとれないという日が続きました。胡蝶様は私の代わりに同じくらいの歳の頃の男を屋敷に連れてきました。私はにわかに嫉妬心を燃やしました。彼もまた胡蝶様に対し私と同じように恋をしているように見えたからです。ですので、彼から何かを云われても冷たく接しました。幸いと云っていいのかわかりませんが、看病は胡蝶様が直々にしてくださいました。「伝染りますから、どうか」と頼んでも貴女様は首を横に振り、手を握って朝まで一緒に居てくださいました。そんな至福の時も、病が進行するにつれ闇に溶けて消え入りつつありました。
或る日、貴女の声で目が覚めました。
「生き地獄だろうに、可哀想ね」
ぼんやりとした視界の中で貴女を見つけました。窓辺から差し込む月光が貴女の白く透き通った肌を鮮やかに照らしていました。私は朦朧とした意識の中でもはっきりとその赫い双眸がゆらりと揺れ、まるで蛇の眼のように私を捉えているのを感じました。不思議と恐怖はありません。貴女は私に近づき、私の身体をそっと抱き起こして腕を取りました。そして私の手を貴女の頬に沿わせ、小首を傾げて幻惑的に微笑みます。
「そのまま苦しんで死を待つか、今ここで終焉を迎えるか、どちらが好い?」
私は息も絶え絶えに、貴女と一緒に居たいと答えました。貴女は頭を振り、違うと云います。そのまま私の親指を咥え、舌を這わせながら云うのです。お前をこれから喰う、と。私はこれまでに抱いていた違和感の正体をここで知ることとなりました。日が沈んだ後にしか姿を見せぬこと。まるで陽を浴びた事の無いような白い肌。真夜中に何処からか帰って来た時に口元についていた血のような赫色。そして――昨晩聞いたあの男の悲鳴、何かを啜るような音。胡蝶様は人間では無く、異形の者――恐らくは妖の類であり、人の生き血を喰らう本当の『捕食者』だと知るには充分過ぎる程に舞台は整っていたのです。私は泣きました。怖いからでは有りません。貴女に喰らわれ、貴女の糧になるという事実が嬉しいから泣いたのです。貴女はにんまりと微笑んで、咥えていた私の親指に牙を立てました。突き刺さったその先から鮮血が流れ溢れてゆきます。貴女の瞳の色がいよいよ赤く、紅く、朱くぎらりと光りました。傷口を抉るように噛みつく様は、獣のようで、ただただ美しいその様に痛みも忘れ見入りました。左腕の感覚が無くなり、視界が白い闇に包まれゆく頃、首筋を貴女の舌が這い上がりました。私は云いました。「貴女をお慕い申しておりました」。矢継ぎ早にこうも告げます。「また会いに来ます、必ず来ます」。貴女は私が意識を混濁させ譫言を謂っているのだと認識したのか、「さぁ、可哀想な子ね」と呆れたように云いました。そのまま脈の麓に牙を立て、ぐっと奥へと差し込み、跳ねる私の身体を貴女は抱きすくめます。私は、そのぬくもりにまた安堵を覚えました。喰らわれ、血を啜られ、狂喜にあえぐ貴女の声を聞きながら、私は死んだのです。
ひととおりの記憶を辿った後は疲労感のあまり寝込みました。そして、私はやっと屋敷の在り処を見つけました。かつて住んでいた場所は此処からは電車で一日、駅からは一時間程かかるようでした。それでも同じ日本に生まれ、そう遠くもない場所に生まれることが出来、貴女がおそらく人間よりも遥かに長く生きているだろう妖であることに希望の光が見えたのです。きっと、あの屋敷にまだ貴女はいる。そう確信し、家出の支度を進めました。生まれ直した後は母子家庭でした。優しい母を悲しませることには胸が痛みました。手紙をそっと残し置き、音を立てないように早朝に家を出ました。始発にて、かの駅へ向かいました。青く沈んでいた空を朝日が徐々に照らし朧げな橙色に染めてゆくのを、虚ろな頭で見ていました。電車は規則的な音を鳴らしながら、確実に貴女のいる場所へと私を運んでゆきました。
町並みは百年前とまるで変わっていて、迷いに迷い、ようやく屋敷に着いた頃には既に黄昏時を過ぎておりました。外壁には蔦が這い、緑で覆い尽くされ、今にも朽ち果てんとばかりに暗く大きく存在感を放つこの場所は、この街では既に廃屋だと思われていることでしょう。私はひとつ大きく息を吸って吐きました。貴女がこの奥にいる。きっと逢える。そう思い、鍵のかかっている筈のドアノブに手をかけた瞬間、扉が鈍い音を立てて開いたのです。
中へ入ると扉は私の後ろで閉ざされました。もう開くことはない、と言いたげに。埃と黴の匂いが鼻と喉をかすめ、咳込みながら廊下の奥を見据えました。左奥に私がかつて死を迎えた療養室が、真っ直ぐ奥には胡蝶様が昼の間休んでいた部屋があります。足を踏み出しました。ぎしりぎしりと軋む音に、心臓の音が煩くなりました。と、その刹那、奥の部屋から何かが這い出て来ました。薔薇の蔦のようなそれは、私の両足に絡みつき、私を奥へと引きずりこみました。――胡蝶様! 私は反射的にそう叫びました。その声に反応すること無く、私はされるがままに奥ヘ奥へと呑み込まれました。その間に壁に頭を強く打ち付け、意識を失ってしまいました。
あまりの息苦しさに目を開けると、そこには戸惑いの色に染まった表情の胡蝶様がいらっしゃいました。私はいばらのようなそれを身体と腕、首に巻きつけられ天井近くに吊るされていました。その蔦は胡蝶様の背中のあたりから伸びているようでした。頸動脈が締めつけられているせいか、血が頭に上り、胃液がこみ上げてきます。胡蝶様は、逡巡したかのように目を白黒させた後、私を床へとそっと下ろしました。「先刻、私の名を呼んだな。お前は誰だ」。私の首に手をかけそう問いました。嗚呼、私の姿形が変わったから分からないのだ。私はこんなにも貴女のことをよく理解るのに。私は前の名を告げました。貴女は、私から手を離し、ふらふらと後ろの壁まで下がってゆきました。「お前か。お前なのか」。貴女はまるで子どものように嗚咽し、翼のような蔦を広げ、頭を抱えて床に這いつくばりました。私は咄嗟に貴女の元へ行き、かつて貴女にされたように、貴女の背中をそっと撫でました。
「お前は、私を置いて行ったじゃないか」。そう云うと、私の名とはまた別の名を――この百年に貴女に仕えただろう男の名を――順番に呼びました。貴女は、胡蝶様は、もうとうに頭がおかしくなってしまっていたのです。身体もすっかり小さくなってしまったように思えました。私の腕の中で泣きじゃくる貴女は、もはや少女のようでした。そして大粒の涙を流しながら貴女は懇願するのです。「私を殺して」と。
貴女を抱きかかえ、夜の海辺にたどり着きました。貴女の姿はすっかり幼子になり、私の腕の中で安堵したように眠っていました。貴女の種の妖は、太陽の光で塵へと帰す。文献で読んだのが正しければ、朝になればこのまま朽ちることができる。夜半の月が地平線へと落ちてゆくのを見ながら赤子となった貴女をあやしました。やがて陽が昇りました。光が貴女を蝕み、抱きしめているはずの身体が脆く灰になり風に舞い空へと飛ばされてゆきます。まるで天へと還ってゆくようでした。私は手を伸ばし、貴女へと抱いていた戀をも昇天させるように祈りました。
戀とは心を奪われること、誰にも言えぬ秘密を抱えることだと私は認識しております。これを読んだ貴女へ、この想いを託します。真実の愛、そう呼んで下さいませ。
終
※こちらはCAL(Classic Anthology Library)ヴァンパイア企画に寄稿するため書き下ろしたものですが、編集長の鈴村智久氏からのハラスメントにより寄稿を取り下げた作品です。無断掲載は一切お断りしております。もしこの作品に似た内容のものが掲載された場合、然るべき対応を取らせていただきます。
