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じんせいかきいろの観た映画感想文「劇場版モノノ怪 第三章 蛇神」(ネタばれあり〼)|わからなさごと、見届けた完結編


本予告

わからないのに、何かが残っている

劇場版『モノノ怪 第三章 蛇神』を観てきました。

最初に正直に書いておくと、私はこの作品を完全に理解できたわけではありません。『唐傘』も『火鼠』も、そして今回の『蛇神』も、観終わった瞬間にすべての意味が整然と並ぶ作品ではありませんでした。

けれど、だからこそ『モノノ怪』なのだと思います。

『モノノ怪』は、わかりやすい答えを観客に配る作品ではありません。極彩色の画面、重なり合う声、言葉にしきれない感情。そのすべてを浴びたあと、観客は「わからなさ」を抱えたまま劇場を出ることになります。

ただ、そのわからなさは空っぽではありません。

わからないのに、何かが残っている。説明しきれないのに、胸の奥に沈んでいる。今回の『蛇神』で私の中に残ったのは、世継ぎの誕生という祝福すら、ひとりの女性を救えなかったという痛みでした。

一 祝いは、最初から祝いに見えなかった

『蛇神』は、『火鼠』から一年後の物語として始まります。

大奥では、天子の世継ぎが生まれます。大奥にとって、世継ぎの誕生は最大の慶事です。血筋をつなぐこと。役目を果たすこと。大奥という場所の存在理由そのものに関わる出来事です。

けれど、その祝いは最初から祝いに見えませんでした。

華やかな場面のはずなのに、観ていて胸が少し冷えていく。喜ぶべき場面の輪郭だけが整っていて、その中身だけが抜け落ちているような感覚がありました。

世継ぎそのものにも不穏な気配があり、世継ぎを産んだはずの御台、幸子の姿にも幸福はありません。大奥の制度の中で言えば、幸子は勝ったはずです。御台であり、世継ぎを産んだ女性であり、誰よりも報われていい立場にいる。

それなのに、幸子は救われていない。

その理由は、天子の心が幸子ではなく、時田フキに向いていたからです。幸子は世継ぎを産んだ。けれど天子が望んだのは、フキが世継ぎを産む未来でした。

ここで、私はかなり息苦しくなりました。正しく役目を果たしたことが、正しく報われない。その理不尽の形が、あまりにもはっきりしていたからです。

幸子が悪いわけではない。役目を果たせなかったわけでもない。むしろ大奥が求めた役目を果たしたからこそ、愛されていない現実がはっきりしてしまう。この残酷さが、『蛇神』の中心にありました。

世継ぎの誕生という祝福すら、ひとりの女性を救えなかった。

幸子は役目を果たしたのに、愛されない。制度の上では勝者になったのに、ひとりの女性としては選ばれない。世継ぎの誕生は祝福であるはずなのに、その祝福は幸子を救わない。むしろ、世継ぎを産んでも愛されない現実を、幸子に突きつけるものになっていました。

二 救おうとする手が、縛る手になる

幸子のそばには、乳母であり育ての親でもある常盤井がいます。

常盤井は、単純な悪人ではありません。幸子を大切に思っている。幸子が報われてほしいと願っている。けれど、その願いは大奥という制度の中で歪んでいきます。

幸子を愛しているからこそ、幸子を勝たせたい。幸子を救いたいからこそ、幸子を御台という役目の中へ押し込めてしまう。常盤井は、幸子の痛みを「天子に愛されたい」という願いのまま受け止めるのではなく、大奥の中で勝つこと、御台として報われることへ翻訳してしまった人だったのだと思います。

その翻訳が、痛ましい。

常盤井の愛情は本物だった。けれど、本物の愛情が必ず人を救うとは限らない。大奥という場所では、愛情すら役目や勝敗に絡め取られてしまう。その歪みが、蛇神へつながる大きな力になっていました。

幸子を救いたいという願いが、幸子自身の願いから少しずつ離れていく。

このずれが、とても怖かったです。

三 美しい絵の中から、怪異は目覚める

そして、蛇神が動き出します。

蛇神は、暗い穴の底から現れる怪物ではありません。屏風に描かれた蛇が動き出すように、大奥の美しい装飾の中から目覚めます。外からやって来た怪物ではなく、大奥の中にずっとあったものが、ついに動き出したように見える。

あの場面は、目を離せませんでした。

怖いのに、美しい。美しいのに、気持ちが悪い。画面の華やかさがそのまま毒になって、こちらへ流れ込んでくるようでした。

華やかさと恐ろしさは、別々のものではありませんでした。

美しい絵の中に怪異があり、整えられた儀式の中に歪みがあり、祝福の中に救われない痛みがある。『蛇神』の映像から感じた怖さは、まさにそこにあります。

薬売りが見た「形」も印象的でした。

私にはそれが、一本の蛇というより、糸でつながれた無数の旗のように見えました。大奥にいる人々の願い、役目、嫉妬、祈り、犠牲。ばらばらのはずのものが繋ぎ合わされ、巨大な蛇の姿を取っている。

蛇神とは、誰かひとりの感情ではありません。大奥という場所に積み重なった想いの集合です。

怪異資料を読むと、蛇神は百五十年前の大奥誕生にまつわる三代目御台の深い情念から生まれ、幸子の出産時に起きた赤子の取り替えを契機に顕現した存在として説明されています。

つまり蛇神は、突然その場に現れた怪物ではありませんでした。

現在の幸子の痛みと、百五十年前の三代目御台の想い。大奥の始まりに沈んだ情念と、いま目の前で起きている世継ぎの問題。それらがつながった時、蛇神は姿を現したのです。

ここから結末に触れます。未見の方はご注意ください。

四 時代を隔てた、二人の映し鏡

今回の「理」として見えてくるのは、現在の幸子だけの痛みではありませんでした。

そこには、大奥を作ったことで天子との将来を望めなくなった、三代目御台の想いがありました。大奥は、はじめから誰かの諦めの上に作られていた場所だったのです。

幸子と三代目御台は、時代を隔てた映し鏡でした。

どちらも御台という、大奥の中心にいる女性です。けれど本当に欲しかったものは、権力でも勝利でもありません。ただ、天子と二人で幸せに生きる未来でした。

三代目御台は、大奥を作ったことでその未来を失った。幸子もまた、天子が天子として生きることを選んだために、二人で生きる未来を断たれた。

大奥とは、女たちを中心に据えながら、その願いだけは決して中心に置かなかった場所だったのです。

天子もまた、役割から降りられません。自分の血筋がけがれていたとしても、天子として生きることしかできない。だから幸子を選べない。

けれど、その選択によって幸子は見放されます。

この場面でつらかったのは、幸子の願いがあまりにも小さく、普通のものだったことです。権力を握りたいわけではない。誰かに勝ちたいだけでもない。ただ、好きな人と二人で幸せに暮らしたかった。

それだけの願いが、百五十年前の三代目御台と同じように、大奥という制度の中で折られていく。大きな悲劇なのに、願いそのものはとても小さい。その落差が、胸に刺さりました。

退魔の剣が発動した時、払われたのは蛇神だけではありませんでした。

唐傘、火鼠、そして蛇神。三部作で描かれてきた怪異が、最後には一体となっていました。名前を奪われる痛み、押し込められた怒り、世継ぎと血筋に絡め取られた願い。それらがひとつになり、大奥という場所そのものの怪異として立ち上がっていた。

薬売りが斬ったのは、一匹の蛇ではありません。

大奥に積み重なった女たちの想いそのものです。

五 過去の呪いの奥に、現在の声があった

けれど、『蛇神』はそこで終わりません。

水神様として崇められていた祭壇の奥から、天局のミイラが現れます。そして、妖である百目が姿を見せます。

ここで一度、終わったと思った気持ちを裏切られました。

蛇神が払われ、大奥に積み重なっていたものが斬られた。そのはずなのに、さらに奥から別のものが出てくる。大奥という場所の底には、まだ目がある。まだ声がある。そう突きつけられたようでした。

蛇神は、大奥に積み重なった過去の想いでした。三代目御台の断念、幸子の痛み、世継ぎという役目、血筋に絡め取られた願い。それらは、大奥という場所の歴史から立ち上がった怪異です。

一方で、百目はもっと普遍的な存在でした。

怪異資料では、百目は人々の感情と重なり、この世に普遍的に存在する“気持ちのモノノ怪”として描かれています。喜びも悲しみも内包し、負の感情が極限に達した時、圧倒的な力を伴って顕現する存在。

だからこそ、百目が代弁する心の声は、大奥だけの問題には見えませんでした。

百目は、その場にいる人々の心の声を代弁します。御台である幸子は、それを聞いてしまう。世継ぎを産んでも愛されなかった女性が、今度は周囲の本音まで聞かされる。

あの場面は、蛇神よりも生々しく感じました。

蛇神の怖さは、歴史や制度が形を持って迫ってくる怖さです。けれど百目の怖さは、今そこにいる人間の心が、声になってしまう怖さでした。表では祝福し、従い、役目を演じていても、心の奥には別の言葉がある。その声が一気に流れ込む。

幸子にとって、それはあまりにも残酷です。

過去の呪いを払っても、今を生きる人間たちの本音は残る。大奥という場所が恐ろしいだけではない。そこにいる人間たちの言えなかった声、隠していた本音、視線そのものもまた、人を傷つける怪異になる。

六 払われたあとに、残された生

そして、百目を前にして登場するもうひとつの剣。

私はあの瞬間、背筋が伸びました。劇場版三部作の物語を観ていたはずなのに、ふいにTVシリーズから続『モノノ怪』の深い井戸につながったような感覚がありました。

終盤で現れる、“二人の剣”のイメージ

二人による退魔の剣「一閃」によって百目が払われる。その一撃には、大奥三部作を閉じるだけではない響きがありました。

怪異資料を踏まえると、百目を斬ることは、百目そのものを完全に消し去ることではなく、積もりきった想いを一度断ち切ることに近いのだと思います。

だから、怪異が払われても、すべてが美しく救われるわけではありません。

事件のあと、幸子は天子との未来を諦めます。そして、捨て子である世継ぎと共に生きることを決めます。

天子に選ばれる自分ではなく、この子と生きる自分を選ぶ。

その選択を、私は単純な救いとは思えませんでした。けれど、敗北だけだとも思えませんでした。

幸子は望んでいた未来を手に入れたわけではありません。天子と二人で幸せに暮らす夢は、叶わないまま終わります。大奥という場所からも、完全に自由になったわけではありません。

それでも幸子は、残された現実の中で、誰と生きるのかを自分で選びました。

そこにあったのは、華やかな解放ではなく、生活を引き受ける決意でした。愛されなかった人が、愛されなかった痛みを抱えたまま、それでも誰かと生きていくことを選ぶ。その静かな重さが、私にはとても印象に残りました。

七 それでも、大奥の日々は続いていく

そして事件後も、大奥は大奥のままです。

怪異が払われても、制度そのものが消えるわけではない。

女たちを役目で縛り、声を押し込み、血筋と権力を守り続ける場所として、大奥の日々は続いていく。

この終わらなさが、『モノノ怪』らしい後味でした。

怪異を斬れば、すべてが救われるわけではない。けれど、見えなかったものが見えるようになる。語られなかった声が表に出る。押し込められていた痛みが、ようやく形を得る。

百目を払うことが、積もりきった想いを一度断ち切ることなのだとすれば、『蛇神』の結末は、完全な救済ではなく、一度空気を通すような救いだったのかもしれません。

閉じきった場所に、ほんの少しだけ風が入る。

けれど、その場所はまだ残っている。だから苦い。だからこそ、見届けたあとも胸に残る。

『唐傘』で呑み込まれた名前と感情。『火鼠』で燃え残った怒り。そして『蛇神』で露わになった、世継ぎ、血筋、天子への想い、大奥を作った御台の断念。

三つの怪異は別々の事件ではなく、大奥という場所が抱え込んできたものの異なる顔でした。最後にそれらが一体となって払われたことで、この三部作は「大奥で起きた怪異の物語」ではなく、「大奥そのものが何を飲み込んできたのかを暴く物語」だったのだと感じました。

私はこの三部作を、まだ完全には理解できていません。

けれど、今回こうして感想を書いてみて、少しだけ掴めたものがあります。

『蛇神』は、答えを出してくれる作品ではありませんでした。けれど、わからないままでも見つめること、言葉にしてみること、そして誰かの痛みがそこにあったと認めること。その行為自体に意味がある作品でした。

理解しきれないままでも、この怪異の終わりを劇場で見届けられてよかったです。

『モノノ怪』は、わからなさを残す作品です。

けれど、そのわからなさの中には、消えない感情があります。美しくて、怖くて、悲しくて、どこか救いきれない。それでも、見届けたあとに何かを書き残したくなる。

『劇場版モノノ怪 第三章 蛇神』は、私にとってそんな完結編でした。

後記

最後に、作品の外側のことも少しだけ書かせてください。

劇場版『モノノ怪』三部作は、クラウドファンディングを経て、ここまでたどり着いた作品でもあります。作品を届けてくれたスタッフの方々。そして、それを支えたファンの存在。その積み重ねがあったからこそ、この怪異の終わりを劇場で観ることができました。

理解しきれない作品を、理解しきれないまま見届けられる。

その贅沢な時間を味わえたことに、今は静かに感謝しています。

【追記】

『蛇神』を観た直後の感想をこうして書いたあと、あらためて劇場版三部作全体を振り返る考察記事も書きました。

この感想文では、幸子の痛み、百目が現れた瞬間の衝撃、そして理解しきれないまま見届けた余韻を中心に書いています。

一方で考察記事では、唐傘・火鼠・蛇神・百目という怪異そのものに焦点を当てました。
唐傘は「形」、火鼠は「真」、蛇神は「理」。そしてその三つが揃った先に、百目という“大奥に積もった気持ちのモノノ怪”が現れたのではないか。

観た直後の感情ではなく、少し時間を置いて見えてきた三部作の構造を、自分なりに紐解いています。

よろしければ、こちらもあわせて読んでいただけると嬉しいです。


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