「魂とは思考のことである」スピリチュアリズムと哲学について語ろう。
今回は、副島隆彦氏が昨年出した『自分だけを信じて生きる』を読んだので、つらつら考えたことを書きたいと思います。
突然ですが、私は副島隆彦という著作家のファンです。
あまり大声で言うと、彼と同じくらいの「変人」かと疑われますが、ファンなのだから仕方ない。
「陰謀論者」「ハイパーインフレ詐欺師」「自称『碩学』」と一部の人々から(特にネットで)揶揄されている人物で、その名前をご存知の方も多いはず。
もちろん100冊以上ある著作を全て読んでいるわけではありませんが、個人的にゼロ年代からずっとウォッチしている作家の一人です。
馬鹿と天才は紙一重と感じる人物ではありますが、私は一貫してその魅力を肯定的に捉えています。
「日本がアメリカの属国である」こと、アメリカ国内に「ネオコン」と呼ばれる好戦的右翼が存在すること、金融ユダヤ人(またはディープステート)がワシントンを動かしていること、などは、今や常識になりつつあることですが、日本国内で真っ先に、そして真正面から俎上に乗せて議論をぶち上げたのは、私が知る限り副島隆彦のはずです。
(ついでに指摘しておくと、あの小泉純一郎ブームの最中に、「コイツはアメリカ金融界の手先である」と喝破したのも忘れてはいけませんね。おかげで当時、小泉ブームにも冷ややかな視線を持てました)
また、その鋭い知的感性でアメリカ大統領選挙の結果を次々と的中させ、果ては2017年トランプ大統領誕生を「予言」した数少ない論者でもあります。
また、米ドル覇権の終焉をいち早く警告し、資産としての金の高騰を予言し続けた功績も素晴らしい。まさにこの現在の状況を15年以上前から予見していたのは見事ですよね。
一方、副島氏は一貫して国家財政破綻とハイパーインフレの到来を警告し続ける頑固な財政規律論者ですが、MMT(現代貨幣理論)に説得されてしまった私とはその点で相容れないのも確かです。
それを割り引いても、世界情勢の本質を掴み取る直感力と、あの「副島節」の魅力は、日本の言論界で唯一無二の存在感。
大声でファンであると言えない「危ない感じの人」ではありますが、読んでいる人は読んでいるはずです。
『自分だけを信じて生きる』では、『自己信頼』で知られるスピリチュアリズムの元祖エマーソンを中心にして取り上げています。本書の題名そのものが、『自己信頼Self-Reliance』の副島流の訳。
読みどころは著者自らによる訳のついた『自己信頼』の抜粋といったところで、正直それ以上となると、情報はかなり薄い本ではありますので、ごろ寝して読むのにいい感じ。
ちなみに、エマーソンはニーチェが崇拝していた思想家でもあります。
彼の著書『愉しい知識』には、
『詩人と賢者にとっては、すべのものが親しく聖なるのもであり、すべての体験が有益で、すべての日々が神聖で、すべての人々が神的である。』
という、エマーソンからの素敵な引用があります。
話を戻して、この本のスタンスを副島節を真似て書きますと、
「極東の島国の日本人が西洋人の猿真似をして賢ぶって哲学的な細かい議論などするな(どうせ誰も読めないし本人も腹からわかってない)、要は賢人たちの言いたいことの中心だけをズバリと掴めばそれでいいのだ、本質に則ってモノを考えたり、議論を積み上げる習慣もない土人である日本人たちに、碩学である私がその本質を丁寧に教えてあげよう」
となります。
こういったノリに拒絶反応を示す人は副島本は絶対に読めません(笑)
本書も彼独特の大掴みで本質だけを抉り出す手法で書かれた「思想書」となりますが、思想畑の人間からすると「なーんだ、この程度か」となるかもしれません(特に後半の哲学史)。
しかし、そこは副島隆彦。本質だけは外さない鋭さは健在です。
スピリチュアリズムは、その性質から当然、神秘主義(ミスティシズムmysticism)である。そして、霊魂(soul,spirit)の存在を実体として認めるという思想である。スピリチュアリズムは霊と魂の世界を認める。
的確な定義だと思います。
肝は、「霊魂(soul,spirit)の存在を実体として認める」という部分。
私も以前、「魂と輪廻転生を語るために(哲学史的素描)」という記事をポストしたことがありますが、その記事でも書いたように、哲学は結局、「霊魂」をどう扱うかという問題(端的に実体と考えてよいかという問い)と切り離せません。
古代において、アリストテレスは魂が知的活動と生命活動を不可分な形で担っていると考えたようですが、かのデカルトはここから身体的含意を持つ生命活動を削ぎ落とします。
すなわち、身体的感覚知覚は明晰判明な認識を妨げるものと捉えられることで、魂から身体的な含意(力の思想)が追放され、たんなる「思考するもの(res cogitans)」という概念に転換したのである(魂から「心」mindへ)。
デカルトにおいて、魂は知能と思考(intellectまたはmind)へと研ぎ澄まされたのです(※mindは日本語ではたんに「心」と訳されますが、英語圏では特に「思考を司る何らかの器官」というニュアンスを持ちます)。
intellect(知能、思考)には、「重さ」がない。だから物質ではない。物質の反対側は霊魂がある。したがって、この世は、物質と霊魂(思考)の2つしかないのだ、という二元論の世界観の確立です。
ここから次の問題が生じます。
物質と霊魂は、どのような関係を切り結ぶのか、そして、そもそも認識主体としての「私」とは何なのか、という大問題です。これらの問題系は、人類にとってどうしたってスルーできない永遠の課題です。
この課題に対して、
スピリチュアリズムとは、二元論の足場を認めつつ、「エイヤッ」とばかりに魂を実体と認め、その実在と個別性を肯定する思想なのです。
確かにそこには知的な飛躍が存在します。
この飛躍に対して拘泥し続けるのが「哲学」であり、この終わらない拘泥こそ哲学の生命線、哲学という学問の延命の要だと思えます(例えばジャック・デリダもまた、哲学が主体と対象を分割して思考することで生まれたと考え、この分割思考への異議申し立てとして取られた哲学的戦略が、彼の中心概念である「差延」と考えてよいでしょう)
ところで、デカルトが切り開いた魂=思考vs延長=物質という世界観は、哲学史において、大きく言って、次の二つの流派に分裂すると、私は考えています。
一つはスピノザの内在性の哲学、もう一つは、カントの超越論哲学です。
周知のように、カントは認識主体である私の認識が可能となる条件を、思考する力を悟性と理性に切り分けて、主体の側から構築する哲学を作り上げました。
いっぽう、スピノザの哲学は方向性が真逆のように見えます。
彼によれば、主体の認識(あるいは意識そのもの)は原因ではなく結果でしかありません。したがって、認識の条件は世界=神から構築されることになるのです。スピノザ哲学を掘ると、主体vs対象という図式そのものを破壊するラディカルさを秘めています。
スピリチュアリズムと類縁性があるのは、明らかにスピノザです。
量子物理学者のデヴィッド・ボームが唱える内在秩序論(ボーム解釈)が主流派からスピリチュアリズムであると言われるのと似た文脈で、スピノザ哲学はスピリチュアリズムに近い。
(私は、哲学だろうがスピリチュアリズムだろうが、「どっちでもええやおまへんか」です。私自身のこの生において、その区別が問題になる必要性を感じませんので)。
ところで副島氏は本書のなかで、
「『霊魂』とは、実は、人間の「思考」とか、「知能」のことである。霊魂とは、『人間が考える』という意味だ」
と指摘しています。
これは大事な指摘です。
デカルトが発見したのは霊魂の実質だということです。
人間の霊魂は、「考える=思考」という活動に他ならないことをデカルトは指摘したのではないか。
しかし、ここで同時に、デカルトの限界も見えてきます。
思考は「私の」霊魂の存在、「ゆえに私が存在する」という終着点をもっているのです。デカルトは、「世界の存在」まで証明したのではありません。
(思考が「私=我」という終着点、あるいは始発点であることは、ヴィトゲンシュタインの次の言葉まであと一歩まできていると思われます。
「思考し表象する主体が 、世界の限界である 」『論理哲学論考』)
スピノザが飛び出したのは、この「私」という強力な磁場からでした。
「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟するものである。(第二部定理一)」
ここに見られらるデカルトとの距離感にこそ、哲学とスピリチュアルの分水嶺があると私は思っています。
さらに言うと、このスピノザの知的直観は、シュタイナーにも受け継がれています。
「真の思考は霊の世界で、現実的な実体として存在しています。」
周知のようにスピノザは神を実体としていますが、その属性である思考は実体を構成しているものです。
シュタイナーが言う、思考は実体として存在しているとは、思考それ自体が個体を超えた霊的世界を構成するものであるという意味ですから、極めてスピノザの発想に極めて近いと考えます。
これらを踏まえると、副島氏の「霊魂とは、『人間が考える』という意味だ」という指摘は、まだスピリチュアルの本質を捉え切ってはいないと思えます。
正確にはこう言うべきでしょう。
霊魂とは思考のことであり、霊魂=思考は神または宇宙そのものとして、実体として存在する。
では、ここからどんな倫理が出てくるのでしょうか?
エマーソンに戻りますと、副島氏はこの思想家から端的に以下のようなエッセンスを抜き出しています。
[スピリチュアリズムとは]「あなたは、今の自分のままでいいのです。自分だけを信じて強く生きていきなさい」という思想だ。だから、これが、まさしくスピリチュアリズムの生き方の根本だ(スピリチュアリズムの第1原理)。そしてこの場合、霊と魂の世界を認めて、自分と、自分の聖霊(ホウリー・スピリット)との対話だけを大切にしなさい(これが、スピリチュアリズムの第2原理)、という思想である。
自己肯定が霊的世界からの必然的要請であるとのスピリチュアリズムの本質がよく捉えられていますが、同時に、スピリチュアリズムの欠点、
「これでは独善を許すじゃないか」
との懸念も湧きますよね。
一般にスピリチュアリズムが「学問」と切れているのは、この独善性が解決できない(する気もない)ことにあると言っていいかと思います。
しかしながら、この点に関しても、哲学で解決できているかと言えば、かなり疑わしい。
特に、善悪をたんなる価値の体系と考えるスピノザやニーチェ哲学においては、その倫理思想はかなり独善に近いと言わざるを得ないのではないでしょうか。
しかしこの独善性は、利己的であることを必ずしも意味しないことに、注意すべきでしょう。
神=宇宙と繋がる内省によって、自ら責任をもって判断を下し、そんな自らを引き受けて決然と生きる。
このような明快な主意主義と繋がっていることこそが重要だと思えます。
そこに他人を出し抜いて利益を貪る生き方を肯定する思想を読み取る必然性はないはずです(むしろ、多くのスピリチュアリズムの書籍は利己的な生き方を神=宇宙に反すると指摘しているでしょう)。
あくまで重要なことは、神=宇宙宇宙との繋がり、そして自分への信頼。
情報過多のご時世。
他者からの承認とコスパ地獄の渦の中で苦しむ現代人に、スピリチュアリズムの思想は、ますます思いがけない広がりを獲得していくのではないか、と思う今日この頃です。
