貴方に一生、ついていくからね……
「今日もキレイだよ、恭子」
「ありがとう。明日はミシュランのところだからね、絶対よ」
彼女はこちらにウインクしながら、美脚を見せつけるように颯爽とタクシーに乗り込んだ。
拓也は左手を軽く上げ、タクシーが見えなくなったところで、再び元来たネオン街へと消えていった。
矢神拓也、40歳。
誰もが彼を羨み、憧れを抱いていたであろう。
10年前に立ち上げたコンサルタント会社は順調で、これまでに紆余曲折はあったものの、巧みな話術で顧客の心を掴み確かな分析力で幾多の会社を見事再生させてきた仕事ぶりは高く評価されている。
「いつもお世話になってます、この間はどうも~。え?今度は広告を考えてる?任せてくださいよ~ちゃんとイイ仕事する所紹介しますからぁ~」
こうして電話をしている間にも、矢神の仕事用スマホやタブレットには常にメッセージやライン通知が表示され一呼吸置くヒマもないほど、仕事の依頼は途切れることはなく、いつしか拓也は「若手の会社再生師」と呼ばれるようになった。
今はコンサル業の傍ら、情報番組のコメンテーターとしてTV番組に呼ばれることが増え、拓也は時代の寵児と成り上がった。
完璧に順調な人生を謳歌している拓也だが、恋愛に関してはかなりズレた感覚を持っている。
特に結婚願望がある訳でもない拓也にとって、恋愛をすることは時間をドブに捨てるのと同等だ。
だが女性にチヤホヤされ、あわよくばお持ち帰りしたいという欲求は絶え間なくあった。
だから仕事が終われば、夜な夜なクラブや飲食店で手軽に遊べそうな女性を物色し、自分の欲求が満たされると関係をプツリと切る。
拓也自身、それでなんの問題もないと思っていたし、自分は死ぬまでそんな事を繰り返す生活を送るのだろうと思っていた。
恭子に出会うまでは。
恭子を一目見たとき、拓也はこれまで感じたことのない衝撃が体中に走ったのを今でも覚えている。
彼女をモノにしたい。
拓也の彼女を想う気持ちは、ひたすら真っ直ぐである。
だが彼女は抜群のプロポーションで人気女性誌の表紙を幾つも飾り、SNSのフォロワー数は数十万人、バラエティー番組にも引っ張りだこの有名人である。
国内最大のファッションイベントではランウェーを歩けば、たちまち大歓声が沸き起こり、彼女が手掛けるブランドやプロデュースしたコスメ商品は飛ぶように売れていく。
「私と付き合いたいなんて、随分と自信があるのね」
そうして恭子はソファに座り、ワンピースのスリットから太股を覗かせた。
彼女は、自らの人気や認知度があることを鼻に掛けているのか、人一倍プライドが高い。
これまでも拓也のように自信満々に近づいた男たちを散々弄び、見事玉砕した姿を鼻で笑ってきたのだが、それさえも拓也の心に火をつけた。
「俺はちょっとやそっとじゃ諦める男じゃないよ」
「どうかしら」
恭子は面白がる口ぶりながらも、明らかに拓也を舐めてかかっている。
(彼女を振り向かせるには、こっちの本気を見せないとな)
拓也は仕事以外の時間の全てを、恭子に捧げた。
あくまでも紳士的に振る舞い、会うたびに小さな変化を見つけては褒めちぎり、事あるごとに高級ブランド品のプレゼントを重ねていった。
そんな拓也のアプローチが徐々に恭子の心を開いていき、彼女は拓也に心許すようになっていった。
「ねぇ拓也。アタシのこと幸せにするって約束してくれる?」
拓也の肩に寄りかかり、まるで小動物のような上目遣いを見せてきた。
「当たり前だろ。俺には君しかいない。絶対だ」
そうして人目もはばからず口づけを交わしたのだが、その瞬間を見事文冬社に撮られてしまった。
当然、自分の会社への影響や恭子の関係者の怒り顔が頭によぎったが、拓也はそれをチャンスに変えることにした。
「恭子、俺と結婚してほしい。約束通り君を幸せにする」
タレントでもない一般人同然の男が有名モデルにサプライズプロポーズを決行した前代未聞な出来事は、すぐさまネットニュースに流れSNSでも話題になった。
案の定、恭子の事務所からは総スカンを食らったものの、目立ちたがりな恭子にとってはかなり心をくすぐられたようで、番組終わりの拓也のスマホには某高級ブランドの指輪画像が大量に送られてきた。
「恭子はおねだりが上手いなぁ」
そう思いつつ画面をスクロールしていると、
「お?愛する彼女の写真でも見てるのか?このヤロー!」
プロデューサーが嬉しそうに、拓也の右肩を小突いてきた。
「いやぁ~矢神ちゃんもやるね。恭子様と付き合えるだけでもスゴいのに、プロポーズだろ。俺思わず腰抜かしそうになったよ」
「すいません、勝手なことしちゃって。でもああでもしないと……」
「分かってる分かってる」
そう言って彼は拓也の肩を抱き、小声で言う。
「あの時はさ、上から小言の一つでも飛んでくるんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだけど、蓋を開ければおおビックリ、まさかの歴代最高の視聴率出しちゃうとはね。矢神チャンは幸運の女神、いや大神様だよ~」
「お役に立てて何よりです……ハハハ」
拓也は密着してくる距離感に閉口しつつも、内心は今までにない達成感を覚えていた。
今思えば、そこで大人しくしておけば良かったのだが……。
恭子と出会うまでは、手軽な女の子を物色する為に夜な夜な怪しげなクラブや飲食店に出入りし、お酒が抜けないまま朝を迎えることが当たり前となっていたが、恭子に付き合うようになってからはすっかり縁遠くなっていた。
だが結婚という二文字が現実味を増してくるにつれ、自分の両足が途端に手枷をはめられたように思え、息苦しさを感じ始めていた。
(どうせ結婚したら、そんなヒマもなくなるし、今ぐらい良いだろう)
そうして今日も拓也は、これで最後と言い聞かせながらすっかり常連となった夜のクラブの入り口をくぐった。
「最近のって、揃いも揃って同じ顔してるよな。俺なんか見たら能面みたいで怖いんだけど」
VIP御用達ルームのソファに片膝を曲げて座る拓也は、シャンパンを注いでいる黒服男にそうこぼした。
「今、女子の誰もがNewJeansやBLACKPINKになりたい時代ですから。髪型や化粧が同じに見えるのはそういう理由でしょう」
「な、何それ?ブラック……?」
「拓也さん、あれだけバリバリの人なのに流行には鈍感なんですね。人は見かけによらないわ」
若い割に随分バッサリ言い捨てる黒服男に、拓也は怒りよりも笑いがこみ上げてきた。
「俺はさ、日本人形がタイプなんだよね。韓国って何だか無表情みたいに見えるじゃん」
拓也はシャンパンを一気飲みする。
すかさず黒服男はシャンパンをグラスに注ぎ、シュワシュワと細かい泡が立つ。
「でも恭子さんはバービーがそのまま人間になったみたいじゃないですか?」
「見た目はそうでも心は大和撫子なの。俺が言うんだから間違いない!」
「ふ~ん」
「ここだとお前からしたら、よりどりみどりだろ?下着みたいな格好もいるしさ」
「う~ん、自分はかなり特殊な人間ですから、ここではナイ、ですね」
黒服男はそう言いながら、アシンメトリーの長い髪を左耳にかけ、拓也を意味ありげに見つめた。
制服に覆われた二の腕は今にも布地がはじけ飛びそうなぐらい隆々と筋肉が盛りあがっており、両耳のピアスが照明に反射して光っている。
「ふ~ん、なるほどね」
黒服男が一礼してルームを後にし、残りのシャンパンを全て飲み干した拓也は、ガラス窓から見える男女の踊り狂う姿を高揚しながら見つめていた。
「クスリでキマった奴らって、傍から見るとサル同等だな」
そうポツリと呟いたその時、ふと背後に気配を感じる。
気のせいだろうか。
拓也はおそるおそる後ろを振り向いた。
するとそこには全身から陰気だけを発している女性がこちらをじっと見ながら立っている。
目が合った瞬間女の口角がゆっくりと上がり、拓也は思わず悲鳴を出しそうになる。
長い黒髪はまるであの○子を彷彿とさせ、まさか本物じゃないかと思ったものの何故か目を逸らすことが出来ず、恐る恐る声を掛けてみる。
「お、お前、誰?ていうかここは特別な人間しか入れないはずじゃ……」
「知ってる。アタシもそっち側の人間だから」
そう言って女は拓也の隣に座り、顎でシャンパングラスを指してきた。
「ねぇ、入れてくれる?」
ぞんざいな物言いに、思わず拓也は舌打ちをする。
「アタシを丁重に扱ってくれたら何かイイことが起こるかもよ」
「分かったよ」
ヨリコは満足したようで、足を組みはじめた。
「名前は何て言うの?」
シャンパンを注ぎながら、拓也は何百回もしてきた質問を出す。
「アタシはヨリコ。年齢は23歳、乙女座。ここに通って半年ぐらいかな」
「ヨリコはどんなツテでここに入れたんだ?どこかの財閥のお嬢さん?それにしても服装は落ち着いてる感じだけど」
「そんなの、何だっていいじゃない。アタシはアタシ。拓也はどこの誰とかそういうのを結構気にする人なのね。まぁ嫌いじゃないけど」
何故彼女が自分の名前を知っているのかと拓也は不思議に思いつつ、ヨリコの日本人形のような顔から目を離せずにいた。
漆黒の長髪をかきあげ、真っ赤な唇の中にシャンパンが注ぎ込まれていく様は、まるで自分が丸ごと飲み込まれていくように思えた。
決して美人とは言えない顔立ちだが、不可思議な妖艶を放つこの女をもっと知りたいという欲望は加速していく。
拓也はヨリコの顔に自分の顔を近づけた。
「なぁウチに来ないか?ここからすぐのタワーマンション最上階。東京のとびきりの夜景を見せてやるよ」
若い女なら必ず靡いてくれるだろうという期待を込め、拓也はヨリコの太股に手を置いた。
「良いわよ、行ってあげても」
予想外の冷静な言い方に拓也は拍子抜けしそうになったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
それどころかヨリコの長い前髪から覗く三日月の目を見ていると、不思議な世界に引きずり込まれそうになり、それもまた拓也の心を掴んで離さなかった。
ヨリコとの一夜は想像以上だった。
こちらが要求することにはよく応えてくれ、相性も悪くなかった。
「拓也って、こんな豪邸に住んでるのね」
ベッドから抜けだし、ヨリコは部屋中をくまなく見渡している。
するとヨリコはこちらを振り向き、スマホをいじっている拓也に向かって
「ねぇ、お腹すかない?」
「まぁ小腹ぐらいはすいてるかなぁ。今からUberでもするか?」
「ううん。そういうのはあまり好きじゃないの。台所、借りていい?」
そう言ってヨリコは、下着の上からエプロンを身につけた。
「お前って意外と家庭的なんだな。エプロン持ち歩いてるって変わりすぎだろ」
そう言って拓也は鼻で笑う。
「アタシ、一通りのことはデキるから。冷蔵庫開けるわよ」
ヨリコはそう言いながら、冷蔵庫を開けている。
そうして目のついた食材を次々と出し、こちらの許可を得ることなく、手際よく包丁で刻み始めた。
(これじゃあ新婚さんじゃねぇか)
恭子の顔が思い浮かび、苦々しい思いにかられたものの、リズミカルな音を聞いているうちに、拓也はいつしか夢の中に引きずり込まれていった。
それからというものヨリコは、週一回は必ず家に現れては料理や掃除などをしていくようになった。
ヨリコとは一度きりの関係で終わらせようと思っていた手前、最初は断ったものの、
「アタシ、拓也とどうこうなりたいとは思ってないの。ただ貴方のお望み通りのことをしてあげたいだけだから」
あの魅惑的な目でそう言われてしまうと、何故か断りづらい。
恭子にバレやしないかとビクビクしていたが、ヨリコは自分の痕跡を全く残すことはなかった。
しかも彼女と過ごしていると余計な気を遣わずに済むし、何より気が利く。
拓也は徐々に、この生活を手放すことが惜しくなっていた。
(あの女、意外と使えるな)
拓也は、拭き掃除をするヨリコの後ろ姿を見ながら、無償の家政婦を雇ったと思うことにした。
今まで連れ込んできた女の大半は、タワーマンションに住む男性に弱い。
ヨリコも紛れなくそっち側の女のように思えたし、それを利用しない手はなかった。
「なんか最近、喉の調子が悪いんだよなぁ……」
「テレビで声を張りすぎてるからじゃない。最近、忙しそうだし」
やたらと咳き込む拓也を見て、恭子は心配するどころか面白がっているような口ぶりだ。
「もう少し、労ってくれてもいいんだけどな」
「あら、こう見えても心配してるわよ。それよりも聞いてよ」
恭子は最近変えたばかりだというネイルサロンについて、ペラペラと話し始めた。
中々止むことの無い話に拓也は相づちを打ちつつも、内心はうんざりしていた。
(性格がヨリコだったら、楽なのにな……)
「拓也、話聞いてる?」
恭子は拓也を見ながら、不満げに口を尖らせている。
「ごめんごめん、恭子があまりにもキレイだから見とれてたんだよ」
「またぁ、調子いいこと言って」
拓也は恭子の肩を抱きながら、仕事が落ち着いたら耳鼻科に行こうと脳内にスケジュールを手繰り寄せた。
だが、拓也の日常は少しずつ不気味なものに浸食されようとしていた。
いつものように目覚めた拓也はトイレに入ろうと一歩目を大きく踏み出した拍子に足の小指を柱にぶつけ、ヒビが入ってしまった。
見た目は若いとチヤホヤされるが、寄る年波には勝てない。
昔から風邪一つ引かず、健康優良児と呼ばれた拓也にとってはショックの何ものでもなかった。
そのせいで泣く泣く海外の仕事をキャンセルすることになったのだが、出演中の情報番組の速報で飛行機の墜落事故の一報を聞き、一気に血の気が引いた。
なんと、拓也が搭乗予定の飛行機だったからだ。
(命拾いしたってことなんだよな……)
動揺を悟られまいと強く握った拳は、手汗でビッショリになっていた。
似たようなことは二度三度続くもので今度は、仕事で訪れたビルの出入り口扉をただ通り抜けるだけなのに、ちょっとした段差につまずき、盛大に転んでしまった。
大衆に注目される中、拓也は赤っ恥をかいたと思われたが、立ち上がり一歩踏み出した直後、後ろから激しい衝撃音が聞こえてきた。
ゆっくり振り返ると、そこには直径20センチはあろう植木鉢が割れており、粉々に飛び散っている。
「あ、あぶねぇ。誰だよ、落としたヤツは」
拓也は首を目一杯伸ばして頭上を見てみたが、それらしき人影は見つからない。
仕事柄恨みを買われることは百も承知していたが、命を狙われる程恨まれている心当たりが全くなく、拓也は怖さの余り小刻みに震えていた……。
「おかえりなさい。疲れたでしょ」
「あ、あぁ……ただいま」
しばらく姿を見せなかったヨリコが台所に立っていたのを見た時、拓也は驚きの余りしばらく声が出なかった。
「拓也、顔色が悪いわよ」
ヨリコは鍋をかき混ぜながら、拓也を一心に見つめている。
拓也は目を逸らしたいのに、気づくとあの三日月の目に吸い寄せられる。
「最近、なんだか不調が続いちゃってさ。でも大丈夫、来週には挽回するつもりだ」
拓也は自分に言い聞かせるように、語尾を強めた。
そう来週には、会社の命運を握る一大プロジェクトが目前に控えているのだ。
ここで挫ける訳にはいかない……。
「どうも、矢神コンサルの矢神ですが」
小指のケガがようやく治癒し、おろしたばかりのブラックスーツを纏った拓也は数人の部下と共に、YY社を訪れた。
YY社は経済界で大注目のベンチャー企業で、拓也はどうにか一緒に仕事ができないものかとチャンスをうかがっていた。
それがようやく叶うことができ、拓也は今までにない張り切りぶりでここまで事を進めてきたのだ。
「矢神社長!今日はわざわざありがとうございます」
YY社の部長だという若い男性が、ずり落ちた眼鏡を直しながら笑う。
彼とは長い時間をかけ、喧々諤々のやり取りを繰り返す中ですっかり戦友のような間柄になっていた。
「ようやくここまで来ることができて、ウチも万々歳だよ」
拓也は感慨深げにそう言って、右手を差し出す。
「矢神社長、契約はこれからです。もう先走りしすぎですよ~」
彼は調子よく、そう茶化す。
「そうだったな、これは早とちりをしてしまった。失礼」
おどけるだけの余裕が持てるのも、目の前に会社の歴史を塗り替える事になるだろう絶対的な確信があったからだ。
だがその確信は、いとも簡単に裏切られることになる。
「おい!どうなってるんだ」
「昨日まではちゃんとここに保存してあったんです」
部下が半泣きになりながら、YY社との契約内容を保存しているハードディスクを何度も開いているが、全く動かない。
よりにもよって今日、ハードディスクや管理媒体のソフトが全てダメになるとは夢にも思わなかった。
拓也は腕時計を見る。約束の時間までに復旧させるのは到底無理である。
拓也は怒りを込めてデスクを思いきり叩いた。
「申し訳ありませんでした」
床に額をこすりつけ、拓也は何度も土下座を繰り返した。
「貴社とはご縁がなかったということ。仕方ありませんね」
部長は明らかにイラついた顔を見せ、そう言い捨てた。
拓也は唇を強く噛む。
泣きっ面に蜂とはこういうことをいうのか……。
今までもちょっとしたタイミングの違いで、会社の売上を左右されるような出来事はあったが、今回は会社にとってかなりの大損だ。
拓也の思い描く会社の未来が、手に届く一歩手前であっという間に離れてしまった。
こういう時こそ、恭子が傍にいたらどんなにいいだろうか。
海外に滞在中の恭子のことを思いながら帰宅すると、リビングが明るく灯っている。
もしかしたらスケジュールが大幅に変わり、帰ってきてくれたのかもしれない。
そんな期待に、はやる気持ちを抑えきれないままリビングに続くドアを思いきり開けると、
「拓也おかえり、今日はお粥にしてみたの。最近会食続きでしょ」
ヨリコが白いエプロン姿で出てきた。その姿はまるで甲斐甲斐しくお世話をする新妻のようである。
「あぁ、ヨリコ。来てたのか」
期待を裏切られた哀しさで、思わず声がイラついてしまう。
「何だか疲れてるわね」
「あぁこのところ色々あったからな」
拓也はヨリコの顔を見ることなく、ネクタイを緩めながらいつもの習慣でテレビを付ける。
ニュースの内容は取り立ててかわり映えはなく、拓也は次々とチャンネルを変えていく。
すると速報テロップ音と共に、とある会社の詐欺事件を伝えている場面が拓也の目に飛び込み、思わず目を丸くさせた。
「え?嘘だろ……」
アナウンサーが興奮気味に、YY社の社名を連呼していた。
どうやらYY社の社員が架空の契約話を持ち込み、多額の金銭をだまし取ったとして刑事告発されたのだという。
テレビ画面の向こう側には、あの人の良さそうな部長が憮然とした表情で捜査車両に乗り込む場面が映し出されている。
「俺は、騙されていたのか……」
その事実に愕然とするものの、次の瞬間笑いがこみ上げてきた。
危機一髪、すんでのところで損害を免れたのだ。
「ヨリコ!シャンパンを開けてくれ」
「どうしたの?さっきはあんなに元気なかったのに」
拓也は、洗い物をするヨリコを後ろから抱きしめた。
「俺はつくづく運がいい。思った通り俺には相当幸運な女神様、いや大神様が味方についてくれているみたいだ」
「……それは結構なことで」
ヨリコのうなじから微かに、線香のような香りがする。
「ヨリコが来てくれてからだよ。愛してる」
「フフフ、恭子って人がいるのに?」
「それとは別だって」
「拓也の顔を見るのも半月ぶりね」
拓也の太股に座った恭子は、両腕を拓也の両肩に絡ませてきた。
「あぁ、今夜は最高の夜になりそうだな……」
拓也は、恭子の体から放たれるムスクの香りに思わずむせそうになりながらも、ようやく二人の時間が取れたことにホッとしていた。
いつもは自宅で過ごすことが多いのだが、今夜は恭子たっての希望で最高級ホテルのスウィートを取った。
拓也自身、自宅では嫌でもヨリコの顔がチラつき、恭子への後ろめたさも手伝って尚更都合が良い。
「ねぇ拓也。アタシおにぎり食べたい。コンビニ行ってきてよ」
「え?今から?」
シャワーで汗を流し、さぁこれから配信映画でも見るかと思っていた所に、恭子のワガママぶりが顔を出す。
「拓也はアタシのこと、愛してるんでしょ?」
恭子は上目遣いで、艶めかしく身体をくねらす。
拓也は気づかれないようにため息をつき、笑顔を作る。
「勿論、当たり前だろ」
「じゃあ、よろしく~。アタシ、梅ね。あと、おかかも」
そう言って恭子はベッドに潜り込み、スマホを弄り始めた。
拓也は素早く着替えパーカーのフードを被ると、急ぎ気味にコンビニへと走った。
まさか、この日を境に人生が一変するとは思いもよらず……。
「梅、これで良かったよなぁ」
拓也はブツブツと独り言を呟きながら、レジ袋の中身を確認する。
コンビニを出て左右を慎重に確認し、元来た道を戻ろうとしたその時だった。
パシャッ!!
拓也の前に突然、激しいフラッシュが飛び込んできた。
「な、なんだよいきなり!誰だ?」
あまりの眩しさに手の平を顔の前にした拓也は、思わず叫んだ。
「矢神さん、週刊文冬です。この写真について伺いたいんですけど」
指の隙間から目を細めて見てみると、カメラを構えた若い男が拓也に向けて写真を差し出してきた。
「は!?何だよこれ」
見せられた写真の日付は一週間前のもので、男女が仲睦まじく寄り添い手を握って歩いている姿が写し出されている。
男の顔は間違いなく拓也だが、問題は女の方だ。
拓也は胸の辺りから酸っぱい胃液がせり上がってくるのを感じる。
「これが何か?」
何てことない素振りを見せたものの、拓也の背中はじっとりと汗をかいていた。
「見ての通り、矢神さんと女性のツーショットです」
思わず周囲をキョロキョロと見渡すと、丁度目線の先にカップルらしき男女がおり、こちら見ながら何か会話をしているのが見てとれる。
拓也はカップルたちを意識し、わざと大きい声を出す。
「こ、これがどうかしたんですか?」
「こちらの男性は矢神さんですよね?しかも、相手は明らかに恭子さんではない別の女性と見た。どうです?」
「えぇ、確かに俺ですよ。俺ですけど、心当たりないんですよ、だ、だ、だって、俺近々結婚するんですよ。恭子以外の女と手を繋いで歩くなんてそんなこと……」
記者はジリジリと詰め寄ってくる。
拓也は何か反論しようにも、悪意で固められた見えない何かに追い詰められているように感じ、上手く言葉にすることが出来ない。
だが記者は拓也に更なる追い打ちを掛けてくる。
「どうなんですか?矢神さん」
「こ、こ、これは……その」
拓也の全身に得体の知れない恐怖が駆け巡り、鳥肌が立っていた。
女の顔はどこからどう見ても、ヨリコにしか見えない。
しかも、口元は明らかに耳元まで裂けていた……。
「納得のいく説明をお願いしますね」
記者の怒りに近い声が、暗闇に響き渡っていく。
「ハァ、ハァ……」
記者を振り切ってホテルに戻ってきたものの、どんな顔で部屋に戻れば良いのか分からない。
気がつくと最上階のバーカウンターで、拓也はテーブルに突っ伏していた。
フワフワとした頭で、拓也はヨリコが来てからこれまでのことを何度も思い返す。
ヨリコと出会ったその日にホテルには行ったものの、それ以来一緒に出歩いたことは一度もない。
当然手を繋いで歩くなんて、あり得るはずがないのだ。
それなのに、どうしてあんなツーショット写真が存在するのだろうか。
拓也は気味が悪くて仕方なかった。
目を瞑ると、先ほど見た満面の笑顔のヨリコがこちらに向かって迫ってくる。
拓也はそれを振り払いたくて、必死に頭を掻きむしった。
「一体、どうなってんだよ……」
「ちょっと、どういうことよ、これ」
恭子が怒り心頭で、文冬から手に入れたという数枚の写真をフローリングの床に投げつける。
そのどれもが一目を憚らずいちゃつく拓也とヨリコのツーショットで、拓也は全く身に覚えがない。
「俺だって知りたいよ。マジで心当たりがないんだ……」
「でもこれは明らかに拓也よね」
「そ、それはそうだけど、この女は……その……」
突撃を受けてから数日後、拓也の不倫スキャンダルが世に出回ることとなった。
恭子からしてみれば、突然地獄に落とされたような衝撃が走ったことだろう。
更に追い打ちを掛けるように、文冬が第二弾第三弾と、大砲を撃ってきた。
何と拓也がかつて一夜限りの遊びだと切り捨てていた女性数人が文冬の取材を受け、拓也がいかに軽薄で自己中心的な男であることをこれでもかと暴露してきたのだ。
まさか、彼女たちからあれだけ恨まれていたとは夢にも思わず、拓也は一瞬にして、世の女性を敵に回すことになってしまった。
「いつからなの。ていうか、なんでこんな地味女なわけ?」
「恭子、俺はやましいことは一つもない」
「気安く呼ばないで!この裏切り者!」
声を張り上げた恭子は自分の両腕を回し、むき出しの二の腕を強く抱く。「本性を見抜けなかったなんて……、私のこと騙してたのね」
いつもはギラギラのラメに彩られる目元は厚ぼったく腫れ、クマが出来ている。
「アタシのこともいずれ、飽きたら切り捨てるつもりだったんじゃない?文冬に出た女たちみたいに」
「違う!恭子だけは本気だ。それだけは信じてくれ」
拓也は恭子の傍にしゃがみ、必死で弁明を続ける。
「恭子、信じてくれ。俺本当に心当たりがないんだよ。どうしてこんな写真が存在するのか、俺だって知りたい位なんだ」
「この女とは知り合いじゃないってこと?」
「……家政婦さんだよ」
「何よそれ。聞いていないわよ、そんなこと!」
「いずれ言おうと思ってた。本当にゴメン。でも彼女はとても仕事は丁寧だし有能な人だけど一度たりとも間違いを犯してはいない。勿論こうして一緒に外を歩いたことさえないんだ。お願いだから信じてほしい、恭子」
拓也は必死に懇願するも恭子の表情は全く変わらないどころか、その目には拓也への不信感が募っている。
「コソコソと内緒で若い家政婦を雇ってた方がショックよ。アタシね、料理教室に通ってたの。花嫁修業ってヤツ。貴方には海外での仕事って嘘ついてたけど、短期集中コースに通って、これでも味噌汁ぐらいは作れるようになったのよ」
「恭子……」
「私ね、拓也となら温かい家庭を築けるんじゃないかって思ってたの。貴方とならそれが出来るって信じてた。いずれ高飛車なイメージが崩れてもいいって思えるぐらい、拓也の安らげる場所を作りたいって、アタシは頑張ってた。けど……」
「恭子、本当にゴメン。そんな風に思っていてくれたなんて考えもしなかった。俺が悪かった。今度こそやり直した。もう一度チャンスをくれ」
「もう、私たちは終わりよ……。拓也」
そう言った恭子の表情に先ほどの怒りは一ミリもなく、冷静な目で拓也を見据えている。
「もう、これ以上アンタの顔なんて見たくない。婚約は解消させてもらうわ」
「恭子……」
拓也の胸に、鋭利な刃物で抉られたような痛みが広がっていく。
恭子はハンドバックを掴み部屋を出て行こうとするが、最後にもう一度振り返りこう言い放つ。
「結婚式のキャンセル料、その他諸々を慰謝料と共に請求させてもらいますから!ただじゃすまないからね、覚悟しなさい!」
閉まる玄関扉の音が大きく響き、地獄の始まりだと拓也は悟った。
「週刊誌のあの件、本当ですか?」
通話ボタンを押すと開口一番、大手企業であるKX社の経営管理部長の声が今までと違って聞こえたのは、気のせいではなかった。
KX社は、拓也が会社を立ち上げてまだ月日の浅い時からの付き合いであり、特に彼からは拓也がまだ青二才だった頃からお世話になっている恩人である。
そんな人を明らかに怒らせてしまったと気づいた時にはもう、手遅れだった。
拓也はひたすら弁明を述べることに終始した。
「あれは事情があるんです。撮られた相手はただの家政婦なんですよ。しかも全く見覚えのない……」
「だが写真を見れば、明らかに一線を越えている。写真は雄弁といいますからね。申し訳ないがそんな不誠実な方に、これ以上ウチの会社を任すことはできませんね」
今までとは違う反応に、拓の額に汗が浮かんできた。
「そ、そんな……」
拓也は悪あがきとばかりに、必死にたたみかける。
「あ、あの、もしよろしければ今から伺います。もう一度話だけでも……」
「もう君と話すことはないよ。まさか恩を仇で返されるとはつくづく君という人間を見損なったよ。それじゃ」
拓也が何か言おうとする前に、電話は虚しく切れた。
「終わった……」
拓也は怒りをぶつけるように、スマホをソファに叩きつける。
すると表示されたロック画面には、拓也とヨリコが顔を寄せ合うツーショットが写し出されている。
思わず背筋がゾクリとした。
「えっ?何だよこれ……」
拓也は再度、スマホを両手で持ち上げ、画面を凝視する。
すると画面の中のヨリコの口角が少しずつ裂けていき、顔の表情はグニャリと歪んでいる。
まるで拓也の現状を嘲笑っているように見えた。
「うわぁっ!!」
不意に拓也の首元に冷たい何かを感じ、手からスマホが滑り落ちる。
「どういうことだよ!」
うまく呼吸が出来ず、目の前が少しずつ霞んでいく。
リビングは凍えるほど寒いのに、拓也の額からは汗が滴り落ち、そこだけ水たまりのようになっていた……。
「矢神ちゃん、ちょっといいかな?」
レギュラー出演の情報番組の収録で、いつものように控え室に入ると、いつも軽快に冗談を飛ばす情報番組のプロデューサーが、真剣な顔つきで待ち構えていた。
拓也の心臓の音が、頭からつま先まで響いているのが分かる。
控え室のドアをゆっくり閉め、まるで死刑宣告を受けるような緊迫した空気が拓也の周囲を覆った。
「今日、上層部と話をしてね、矢神ちゃんはウチの番組から降りてもらうことになったから」
「もしかして、あの文冬ですか?」
ニコリともしない表情が正解を物語っている。プロデューサーはいつものような饒舌な口調で言う。
「今までさ、番組でも散々見てきたよね?不倫で何もかもダメになってさ、再起不能になるってやつ。まさか矢神ちゃんも餌食になるとはね」
「あの、これは違うんです。むしろ俺、心当たりなくて……」
そうして拓也はヨリコとの出会いから不思議な出来事まで熟々と説明をする。
彼は一応、面白い話でも聞くように相づちは打ってくれるものの、目の奥は全く笑っていなかった。
「まぁでもさ、あの写真と記事見たら誰だってクロだと思うよ。矢神ちゃんとは長い付き合いだしさ、もしかしたら遊びのつもりだったのかもしれないけど今と昔じゃ違うからね。俺も擁護出来ないし」
彼はそう言って腕を組み、呆れと失望の入り混じった目で拓也を見た。
「お願いしますよ、俺本業の方も切られちゃってピンチなんです。とにかく何でもやりますから」
そう言って顔の前で手を合わせたが、プロデューサーは鼻で笑うだけだ。
「ま、自業自得ってやつだよね。とにかくさ決定事項だから。あ、スタッフと演者への挨拶はしなくていいよ、皆には既に伝えてま~す。じゃあ今までお疲れ」
乱暴にドアが閉められ、彼が放つ香水の匂いだけが残された。
「おかえりなさい。遅かったわね」
数え切れない程の酒杯を重ねて帰宅すると、ヨリコは何事もなかったかのように台所に立ち、鍋からはポコポコと音を立てている。
バターの香りが拓也の鼻腔を通り抜け、思わず腹が鳴る。
「お腹、すいたでしょ?さぁ座って」
「……ったく、ふざけやがって」
「えっ?」
拓也は空腹を堪えながら、ヨリコに迫る。
「どういうことだ!あの写真は何なんだ?あと、俺のスマホにも……」
「あら、どういうことかしら?」
ヨリコは口先では否定するものの、表情は明らかにうろたえる拓也を面白がっているように見える。
「俺を恨んでいるのか?」
「恨み?何のことかしら?」
ヨリコの態度は全く変わらない。
「全く覚えのないお前とのツーショットがすっぱ抜かれたんだ。おかげで婚約解消、慰謝料だって払わなければならないのに仕事も全部キャンセルになって何もかもお終いだ。全部、お前のせいだからな!」
「そうなの。それはご愁傷さま」
ヨリコは何の感情も漂わせることなく、グツグツの熱い鍋をダイニングテーブルに持ってきた。
「とりあえず、ご飯食べましょ」
ヨリコはそう言って笑うと、長い前髪から覗く細い目が更に細くなる。
それは、拓也の喉元までせり上がってきている恨み辛みをそのまま飲み込んでしまうぐらい、強烈な力を持ち合わせているようだった。
間接照明が照らされたベッドの中で、ヨリコは拓也の肩に頭を付けるように寄り添い、その顔は今までよりも穏やかに見える。
「ねぇ拓也。アタシはね、どんな拓也でも変わらないわよ。こうやってずっと傍にいてあげる」
「……あぁ」
拓也は心ここにあらずといった状態で、ヨリコの呟きは半分も耳に入ってこない。
まるで拓也の中にある全ての感情が一つ残らず出し尽くされたようだった。
だがヨリコの語りかける口は止まらなかった。
「周りが何と言おうと、アタシは貴方の味方よ」
そう言って、人差し指で拓也の鎖骨辺りをゆっくりとなで回し、黒いネイルを施した爪を皮膚に食い込ませる。
「んんっ……」
痛みで歪む拓也の横顔を見て、ヨリコは今まで見たことのない光悦の表情を浮かべていた。
それからしばらくして、拓也は社長を解任されることとなり、全ての権利や社員諸々をKX社に無償で譲る運びとなった。
拓也は、全てを失ってしまった。
それから一ヶ月が経ち、すっかり自暴自棄になってしまった拓也の風貌は別人のように、様変わりしてしまった。
生きることの全てを放棄した者の周囲を蠅が元気に飛び交い、髪は無残に伸びきり顔中を覆った髭は、時間だけが止まった建物の周辺を這うツタのようである。
生きることの一切を止めてしまったかのように、拓也は何をするでもなくソファの真ん中に座り微動だにしない様は、まるで彫刻で出来た人間のオブジェのようだ。
「拓也、あなたの好きなカレーが出来たわよ」
「……」
「洗濯物、ここに置いておくから」
「……」
「お風呂掃除、終わりましたから」
「……」
拓也がたとえ朽ち果てていこうとも、ヨリコは相変わらず拓也に寄り添い続け、家族同然のように尽くし続けていくのだった。
「恭子……?」
ある晩のこと、拓也は部屋の隅に立つ女性を見て、久しぶりに声を出した。
だが恭子はこちらを見ながら、転落していく様を面白がるように嘲笑っている。
「やめろ、やめるんだ」
拓也はそう言って、彼女に近づこうとする。だがその瞬間、彼女の顔は歪み始め、口が徐々に裂けていった。
「恭子?どうしたんだ、恭子!」
恭子が、恭子ではなくなっていき、その顔は最早人間ではなくなっていた。
「恭子ー!!」
いつまでも続く嘲り笑う声は完全に得体の知れない生き物で、そこには恭子の片鱗は全く感じられなかった。
すると突然、聞き覚えのある声が耳元に囁く。
「憑いていくから」
「わぁーーーーーーーー!!」
思わず目を開けると、顔が歪み、悪魔のように目をつり上げて笑っているヨリコが眼前に迫っている。
以前見た、スマホのロック画面に表示されていたあの恐ろしい表情が蘇ってくる。
「やめろ、やめてくれ。離れてくれ……」
だがヨリコの呟きは止まらない。
「一生、貴方から離れない……私は貴方の味方……いつまでも、貴方についていくから………」
「貴方に一生、ついていくからね」
気がつくと全身が汗でびっしょりしている。
「お願いだ、許してくれ」
拓也は思わず後ずさったものの、壁がある以上逃げることができない。
「どうしたの、拓也。何故謝るの?」
ヨリコは半笑いのまま、じりじりと拓也に迫ってくる。
「あ、あ……」
何か言おうにも、声が全く出てくれない。
「あーーーーーーーー!!!」
ヨリコから必死に逃れたい一心で、拓也はスマホを思い切り投げつけた。
だがスマホはヨリコの口元をかすめたものの、バキッという音と共に床に落ちただけだ。
だがヨリコは怒ることはせず、むしろそんな拓也の行為を心から嬉しがっているように見える。
拓也の、ヨリコに対する怒りは完全に恐怖心に変わっていた。
「お前は一体、誰なんだ?人間じゃないんだろう」
するとヨリコは表情を変えないまま、思いがけない正体を告げる。
「アタシは……疫病神よ」
「えっ?や、疫病神?」
拓也は再び、冷気が足元から這い上がってくるような感覚にとらわれていた。
「に、人間じゃなかったってことか……」
ヨリコは頷きながら、話を続ける。
「誰かに憑かなければ存在を抹消させられてしまう疫病神」
「ど、どうして俺に憑いたんだ?誰かに頼まれたのか?」
「貴方についたのは偶々。でも疫病神にも感情はあるの」
そう言ってヨリコは目を伏せ、頬にほんのりと赤みが差している。
「俺がアンタの心を弄んだことを、恨んだのか?」
だが、ヨリコは首を横に振る。
「疫病神は病気にさせて終わり。だけど言ったでしょ、感情があるって。好きな人を病気にさせたくない。アタシね、料理が得意なの。アタシの料理、美味しかった?」
「ヨリコ……」
「初めてだった。愛してるって言ってくれて、疫病神だけどこの人といつまでも一緒にいたい。だから……」
悪魔のような表情はすっかり鳴りを潜め、拓也の目の前にいたのは自分を好きだと言ってくれている女性である。
ヨリコは拓也の眼前に、ひび割れたスマホの画面を向けてきた。
そこに映っているのは、寄り添いながら微笑む拓也とヨリコである。
「疫病神はね、何でも思い通りに出来てしまうの。あの写真だってそう、全部、貴方と一緒にいるためよ」
そう言ってヨリコは女神のような優しい笑みを浮かべる。
拓也は藁をも掴む思いで、ヨリコに縋る。
「ヨリコ、俺はもう一度人生をやり直したい。チャンスをくれないか」
するとヨリコはゆっくりと顔を近づけ、こう告げる。
「残念。もうゲームオーバーよ」
そうして、左手の人差し指と親指でつまみ上げた宣材写真を、ゆっくり二つに裂き始めた。
「て、手遅れって、どういうことなんだ」
ヨリコは裂く手を止めることなく、話を続ける。
「貴方はこれまで幾つもの罪を重ねてきた。数え切れない程の人間の恨みを買い、幾人もの女性を傷つけ、挙げ句の果てにあんな素晴らしい女性の信頼を裏切った」
「そ、それはアンタがあんな写真を……」
「写真があってもなくても、いずれ貴方は全てを失う。正に自業自得」
「俺を愛してるんだろ?その言葉は嘘だったのか?」
「嘘をつかれた人の気持ちが分かったみたいね」
無表情でそう言い放ったヨリコは、すっかり粉々になった宣材写真を紙吹雪のように上に向けて放つ。
「安心して。貴方に一生、ついていくから」
そうして再び、悪魔のような笑顔を拓也に向ける。
「ヨリコ、頼む助けてくれ」
ヨリコに縋り付こうとした瞬間、暗転のように目の前が暗くなり、立ちこめていた冷たい空気はどこかに消え、一気に生ぬるい空気へと変わっていった。
「ヨリコ?何をしたんだ、ヨリコ。そこにいるんだろ?返事をしてくれ!」
目を閉じた拓也の耳元で小バエが忙しなく飛んでいる。
「ヨリコ……?」
拓也はゆっくりと目を開ける。
そこにヨリコの姿は一切なく、拓也の見える視界一体は凄惨な光景と化していた。
部屋の天井や隅には大量の蜘蛛の巣が張られ、カップ麺のゴミや空き缶等が堆く積もっており、ゴミの障壁が今にも崩れてきそうである。
「な、なんだよ、これ。ヨリコー!ヨリコォー」
だが返事はなく、ガサツく声だけが虚しくリビングに響き、羽虫が元気に飛び交う音が聞こえてくるだけだ。
拓也は目の前にあるテレビ画面を見た。
「誰だ…………コイツ」
それは人間とは呼べず、酷く醜い怪物である。
「これは、俺なのか……?」
そうして立ち上がろうとするも、まるで体中に鎖を付けられているようにビクリともしない。
「く、苦しい……」
思わず首元に手をやると、ブヨブヨとした肉塊がまとまりついており、離れてくれないどころかその肉塊は徐々にのめり込んでいくように喉元を締め付けていく。
「んだよ!誰かぁ~」
拓也はあらんばかりに声を振り絞るが、顔が肉塊に埋もれていき、その声はいつの間にかピタリと止んでしまった……。
「いやぁ~、ちょっとあの現場は悲惨でしたね」
「過去一のグロさだったわ。俺今思い出しても吐きそうだわ」
清掃を終えた作業員たちがそう話をしながら、リビングを出て行く。
拓也がいなくなった部屋は何事もなかったかのように元通りとなり、どの部屋もシンと静まりかえっている。
すると突然、リビングの隅から振動が聞こえる。
見るとそこには、業者が回収し忘れた拓也のスマホが転がっており、ひび割れた画面の中で拓也とヨリコが仲睦まじく寄り添っている。
すると突然、ヨリコの口元だけが動き、拓也の耳元でこう呟く。
「貴方に一生、憑いていくからね」
(終)
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