シン・冷笑系
冷笑系の中身が、ひややかに変わってきた。
以前までの「冷笑系」といえば、「本気になる人を鼻で笑う」ものだったと思う。
社会を変えようとする人。泥臭く努力する人。夢や正義や希望を真顔で語っている人。
そういう人に対して、「まあ、がんばってください(笑)」と距離を取る。
自分だけは高みの見物で、すべて見透かしているような顔をする。
そこにあったのは、努力への不信だった。
努力しても報われない。どうせ無駄。搾取されるだけ。本気になったら負け。そういう諦めと自己防衛が、かつての「冷笑系」の根幹にあった。
けれど最近見る冷笑は、少し違う。
それは「努力なんて無駄だ」と笑うのではない。むしろ逆だ。「努力していない人」を笑うのである。
これを私は、「シン・冷笑系」と呼びたい。
かつての冷笑系は、なぜ生まれたのか
かつての冷笑系を考えるとき、どうしても就職氷河期世代の空気を抜きには語れない。
バブル崩壊後、企業の採用は急激に冷え込んだ。
新卒一括採用が強固だった時代だったため、新卒での就活でコケてしまった人たちは、その後も長く不安定な雇用に置かれやすかった。
政府の資料でも、就職氷河期世代は「雇用環境が厳しい時期に就職活動を行った世代」とされる。
これは2019年時点で30代半ばから40代半ばとされた世代であり、2026年現在ではおおむね40代前半から50代前半にあたる。
しかもこれが社会全体の課題として認識され、本格的に政府が支援に乗り出したのは、かなり後になってからだった。
2019年の「就職氷河期世代支援プログラム」では、支援対象が100万人程度と見込まれ、そのうち不本意に非正規雇用で働く人が少なくとも50万人いるとされた。
2024年の行動計画では、就職氷河期世代の問題について「個々人やその家族だけの問題ではなく、社会全体で受け止めるべきもの」と明記されている。
つまり、これは本人の努力だけでは説明できない構造的な問題だった。
しかし長いあいだ、世間の風当たりは強かった。
「選ばなければ仕事はある」「努力が足りない」「自己責任」と、あらゆる困難が個人に押しつけられてきた。
この空気の中で、「努力してもどうせ無駄」という諦念が育っていった。
希望を持つと傷つく。だから先に「そんなものに価値はない」と、バカにしたように笑っておく。
かつての冷笑系には、そういう痛々しさがあった。
シン・冷笑系とは何か
ところが、ここ数年で見かける冷笑は少し違う。
最初に違和感を覚えたのは、とあるZ世代のインフルエンサーのSNS投稿だった。
物事を始められない・手を付けられない人に対して「なんでやらないの?わら」と、小馬鹿にしたような趣旨の発言であった。
その人は非常に真面目で、勉強熱心で、努力家に見える。怠惰な人間が上から目線で他人を馬鹿にしている、という感じではない。
だからその人が他者に対して「努力不足」と冷笑の態度を見せたとき、冷笑の質の変化を感じた。
以前の冷笑系は、努力する人を笑っていた。
シン・冷笑系は、努力できない人を笑う。
真逆である。
前者は「どうせ努力しても無駄だ」という冷笑であり、社会に押しつけられた「自己責任」に対するアンチテーゼであった。
後者は「努力しないほうが悪い」という冷笑であり、「自己責任」を全うできない人間に対する批判的態度である。
シン・冷笑系のひろがり
新しい形の冷笑を、「Z世代はそうだ」と雑に言い切るのは乱暴だ。どの世代にもいろいろな人がいる。
ただ、Z世代以降のSNS空間では、自己責任がかなり若い段階から内面化されているように見える。
学校選びも、キャリアも、容姿も、健康も、メンタルも、人間関係も、発信力も、すべてが「個人で努力すべきもの」として等しく並べられている。
うまくいかないなら、情報収集が足りない。習慣化が足りない。マーケティングが足りない。
そんなふうに自己責任を前提とした発信が、わりと自然に受け入れられている。
かくいう私も、「勉強すればいいのに」「調べれば出てくるのに」「やればできるのに」「変わらないのは、変わる気がないからでしょ」
そんな言葉におもわず頷きたくなってしまう。
昔の自己責任論が外から押しつけられるものだったのに対して、現代の自己責任論は多くの人が深く内在化してしまっているのではないか。
そこが、良くも悪くも現代らしい空気感のポイントだと感じる。
努力できること自体が、すでに資本である
ここで一点おさえておきたいのが、冷笑されている対象者は本当に「努力不足」なのか、ということだ。
仮に本当に努力不足だったとして、それは冷笑されて当然の「自己責任」の範疇のできごとなのだろうか。
努力するには、時間も体力も心の余裕もいる。安全な生活環境がいる。情報や、その情報を読み解く力もいる。金銭的な余裕もいる。相談できる人や、ロールモデルや、「この方向に進めばいいらしい」と思える社会的な手がかりもいる。
これらの条件がある程度そろって初めて、人間は努力することができるのである。
つまり、努力できること自体が、すでにひとつの資本なのである。
もちろん、努力している人を否定したいわけではない。
どんなに環境が整っていたって、努力は普通に大変だ。やっている人はすごい。
ただ、その努力が可能だった背景には、本人が自分自身でどうにかできること以外の要因も多く含まれていたのではないだろうか。
シン・冷笑系の危うさは、この背景を無視して他人を(ときには自分をも)冷笑してしまうことだ。
「調べればわかる」のは、調べてわかる人だけ
特に現代では、「情報へのアクセス」が努力の前提として扱われやすい。
わからないなら検索すればいい。無料教材はいくらでもある。SNSには有益情報が流れている。YouTubeにも解説がある。AIに聞けばいい。
昔よりはるかに学びやすい時代になったのは本当だ。
しかし、「情報があること」と「情報にたどり着けること」は違う。
さらに、「情報にたどり着けること」と「自分が必要な形にカスタムできること」も違う。
検索キーワードを思いつく力。怪しい情報を見分ける力。大量の情報に優先順位をつける力。自分の現状を把握する力。コツコツと地味なトライ&エラーを繰り返す力。などなど。
これらは実はかなり高度な能力である。そしてその能力は、環境や本人の生まれ持った資質によって大きく左右される。
「調べればわかるのに」「やればできるのに」という言葉は、全人類にあまねく適用できる言葉ではないのだ。
無自覚な冷笑
シン・冷笑系は、冷笑している自覚がなさそう・もしくは冷笑して当然と思っているように見えるが、なぜなのか。
もしかすると「自己肯定感」というものも関係しているのかもしれない。
自己肯定感が低いと、自分が持っているものに価値がないと思ってしまう。
だから「恵まれている」と言われると、その無理解さに腹が立つ。
自分だって苦しかった。いじめられていた。毒親だった。お金がなかった。孤独だった。傷ついた。誰も助けてくれなかった。
そして、ここで冷笑系に転ずることがある。
「私はこんなに不幸だった。それでも努力した。だから、私より幸福そうに見えるあなたができないのは、努力不足に決まっている」
冷静に見ると乱暴な理屈であるが、感情の動きとしては理解できる。
自己肯定感の低い人間が血の滲むような努力をした結果、「自分は努力ができる」という自信を手に入れたかわりに、他人にも同水準の努力を求めるようになり、シン・冷笑系に転じてしまうのではなかろうか。
シン・幸福論
これはものすごく偏見が入っていることを承知の上での放言であるが、
まともな神経をしている社会人なら、心の底から「自分は100%完璧に幸福である」と言い切れる人なんていないだろう。
狂うか悟りを開くとできるのかもしれないが、私はまだその境地には至れていないのでわからない。
人は、自分の不幸にはやたら詳しい。
どこで聞きかじったか忘れてしまったが、ネガティブなできごとは強く記憶に残りやすいのだそうだ。(危機回避をしなければならないからね!)
それに対して幸福は、往々にして相対的な尺度の中でしか見えない。
誰かと比べて◯◯を持っているから・◯◯ができるから幸福だ、などと、客観的な証拠がないと、自分が幸福であることが信用できない。
だから、他人から見える自分の姿というのは、自分が思うよりもよほど幸福な環境にいる(ように見える)のだ。
恵まれている(ように見える)ことに自覚的になる、というのは、現代社会における重要な処世術になるのかもしれない。
ああ、幸せってなんだっけ?
あれ、なんの話だったっけ?
参考:
内閣官房「就職氷河期世代等支援」
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/shushoku_hyogaki_shien/index.html
内閣官房「就職氷河期世代支援プログラム(3年間の集中支援プログラム)の概要」
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/shushoku_hyogaki_shien/pdf/20190621gaiyo.pdf
内閣官房「就職氷河期世代支援に関する行動計画2024」
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/shushoku_hyogaki_shien/keikaku2024/pdf/20231227_honbun.pdf
