モーリス・ラヴェルのインタビュー再発見、『ボレロ』創作への伏線
このnoteは、フランスの協会、モーリス・ラヴェル友の会 Les Amis de Maurice Ravel の創設会長でラヴェル研究家のマニュエル・コルネジョ氏 Manuel Cornejo が、フランスの音楽学術データベースサイト「デゼード」Dezède にて今回公開したラヴェルのインタビュー再発見に関する記事とその関連情報の日本語訳全文です。当時のインタビュー記事はラヴェルの作品『ロンサール、己が魂に』『ツィガーヌ』の初演時の内容が主ですが、後段では『ボレロ』が誕生するきっかけを知ることもできますので、注目して下さい。
※『ボレロ』創作への伏線と成す部分は太字にて表しました。

モーリス・ラヴェルのデータベースの紹介記事
Carnet Dezède(デゼード通信)
研究トピックス
未知のモーリス・ラヴェルのインタビュー、1924年4月ロンドン
マニュエル・コルネジョ
2026年8月6日
1924年4月26日、ロンドンのエオリアン・ホールで行われた自身の作品演奏会に合わせて、モーリス・ラヴェルは友人であるG・ジャン=オーブリーのインタビューを受けました。ジャン=オブリーはイギリスを拠点に活動するフランス人の音楽評論家であり文学者で、二人は1906年にパリで出会っていました。私たちの知る限り、このインタビューが発表されたのはイギリスのメディアではなく、アメリカ・ボストンの日刊紙『クリスチャン・サイエンス・モニター』の紙面(英語)においてのみでした。こうした経緯があるため、この文書が作曲家に関する主要な著作で言及されることは極めて稀であり、仏ガリマール出版社から2025年に刊行された最新の2冊を含む、ラヴェルの書簡・著作・インタビューをまとめたこれまでの各種集成(注:コルネジョ氏編纂)からも漏れてしまっていたのです。1924年の初出以来、一度も全文が改めて公開されることのなかったこのインタビュー本文について、私たちは今回『デゼード』上において、その完全な翻刻とフランス語訳を公開(注;フランス語訳のリンクは当noteの最後に置きます)いたします。
自作について語ることの少ないラヴェルが、自身の直近の2作品についていつもより言葉を弾ませて語っている点において、本資料はその内容に極めて大きな価値があります。彼はまず、1924年4月26日のコンサートで初演された2つの作品が生まれた背景と、その音楽に込めた思いを詳細に明かしています。その1つ目は、詩人ロンサールの生誕400年を記念してアンリ・プリュニエールが主宰する『ラ・ルヴュ・ミュジカル』誌から依頼された、声とピアノのための歌曲『ロンサール、己が魂に』です。もう1つは、ヴァイオリンとピアノのための演奏会用狂詩曲『ツィガーヌ』であり、こちらはラヴェルが1922年夏にロンドンで出会い、歌手ルイーズ・アルヴァールの自宅で彼女が奏でるジプシー音楽を聴いたイェリー・ダラーニに献呈されたものでした。歌手マルセル・ジェラールに献呈され、わずか数日という驚異的な短期間で書き上げられた『ロンサール、己が魂に』について、ラヴェルは自身の普段の筆の遅さをユーモアを交えて振り返っています。
続いて彼は、指揮者およびピアニストとして臨む近々のスペイン演奏旅行の予定について語っています。1924年5月5日にはマドリードのコメディア劇場でマドリード・フィルハーモニー管弦楽団を率いて自作を指揮し、同月18日にはバルセロナで室内楽の演奏会を行うというスケジュールでした。ラヴェルはこの後、グラナダへ足を延ばしてマヌエル・デ・ファリャを訪ねたいという希望を抱いていましたが、この旅は最終的に実現することはなりませんでした。
インタビューの締めくくりでは、作曲家自身の今後の創作予定が語られます。コレットの台本によるオペラ『子供と魔法』(1916-1925)の完成、そして『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』(1922-1927)の完成に続き、「主題を持たず、あらゆる興味がリズムに注がれるような交響詩の作曲」という新たな構想が明かされています。このアイデアは、のちの傑作『ボレロ』(1928年)の精神へと直結するものであり、また1923年9月にロシアの舞踊家ソニア・パヴロフから委嘱された、アンリ・マルエルブの原案によるスペイン風バレエの計画『王女の肖像画』を強く想起させます。結局のところ上演も完成もされなかった、この「ディアギレフ風のちょっとした仕事」のために、ラヴェルは自身がすでに書いていたスペイン風の管弦楽作品(『亡き王女のためのパヴァーヌ』『道化師の朝の歌』『スペイン狂詩曲』のハバネラ)を組み合わせ、それらの間をつなぐために「せいぜい10小節ほどの作曲」を加えるという手法を考えていました。そのつなぎの音楽の中に含まれていたのが、「ファンダンゴ(グロテスクな踊り)」というピアノ用の自筆原稿(4ページ)です。この原稿は1977年にパリで売却されて以来、現在は所在不明となっていますが、のちの『ボレロ』へと繋がる非常に重要な作品であり、もともと『ボレロ』の原題が『ファンダンゴ』であったという事実を鑑みても、両者のタイトルの類似性は決して偶然ではないと思われます。
1924年にロンドンで行われたラヴェルとジャン=オーブリーの対話は、1924年4月26日のコンサートの全貌を知るうえでも、『デゼード』の「モーリス・ラヴェル」特集のファイルにとっても、極めて重要な一次資料です。
モーリス・ラヴェル、新作について語る
G. ジャン=オーブリー
『ザ・クリスチャン・サイエンス・モニター』紙[ボストン]、第16巻第146号、1924年5月17日(土曜日)、11ページ(注1)

「モーリス・ラヴェル、新作について語る」
『ザ・クリスチャン・サイエンス・モニター』紙
1924年5月17日付
ロンドン、5月2日
パリから演奏会のためにやって来るアーティストたちを、私たちがヴィクトリア駅で一緒に迎えていたときのことだ。モーリス・ラヴェルは私に、自分が完成させたばかりであり、初演がロンドンで行われることになった2つの新しい作品について話し始めた(注2)。その2曲とは、ロンサールの詩による歌曲『ロンサール、己が魂に』と、ラヴェル自身が『ツィガーヌ』と名付けたピアノ伴奏付きヴァイオリン曲である。
「『ラ・ルヴュ・ミュジカル』誌が、詩人ロンサールの生誕400年を記念して何人かの音楽家に彼の詩を用いた作曲を依頼することを決め、私のもとにもその話が舞い込んだときのことです。当時、私はピアノとヴァイオリンのためのソナタの制作に追われていました。いや、むしろ何もかもうまくいっていなかったので、全く作業が進んでいませんでした」と、作曲家は私に語った。
「私はすっかり気が滅入っていて、思うように思考をまとめることができませんでした。このような気分のときがどんなものか、あなたにもお分かりでしょう。それに、しばらく歌曲の筆をとっていませんでしたし、その気にもなれずにいたのです。当時の私のエネルギーは別の方向へと注がれていましたからね。ロンサールの詩集に目を通してみても、そのソネットや大げさな作風のものの中には、私の音楽的な創作意欲を刺激するものは何一つ見当たりませんでした。
もう諦めかけていたときです、ロンサールが晩年に残した、何とも魅力的で物憂げな短い詩が目に飛び込んできたのは。わずか2日ほどでその歌曲を書き上げましたが、ご存知の通り、普段の私はそんなに仕事が早い方ではありません。もっとも、仕上がったのはごくシンプルな小品にすぎません。ロンサールが生きた時代の音楽やリュートの音楽をそのまま模倣しようとしたわけではないのです。それでも、この作品のたたずまいには(少なくとも私自身はそう信じていますが)どこか古風な薫りが漂っているはずです。ご覧のとおり非常に簡潔なもので、伴奏はほぼ一貫して右手だけで奏でられ、あらゆる興味が洗練された音響の妙へと集中するようにできているのです」。

声楽を伴う作品集「ロンサールを讃えて」
©︎日本モーリス・ラヴェル友の会アーカイブ

ピアノは右手だけ完全5度を奏でる簡素な書法
私はその曲を2度、正確には「聴いた」というよりも「目の当たりにした」と言ったほうがいいかもしれない。演奏会でのこの歌曲に対する喝采があまりにも熱狂的だったため、アンコールに応えてもう一度演奏されたからだ。これはラヴェルが声楽のために書いた作品の中で最も完成度の高いものの一つであり、おそらく最も純粋な誠実さが宿った傑作であろう。
「私のヴァイオリン曲についてですがね」と、ラヴェルは話を続けた。「私はこれを『ツィガーヌ』と名付けました。ポロネーズやアルマンド、シシリエンヌといった言葉が使われるのと、まさに同じ意味での『ツィガーヌ』です。私の狙いは、あくまで超絶技巧のためのヴァイオリン曲を書くことにありました。そして、こうした形式の楽曲は、やはりハンガリー風のものでなければしっくりこないだろうと思ったのです。
とはいえ、私がそこで呼び起こそうとしたのは、自分があまりよく知らないハンガリーそのものではありません。私の『ツィガーヌ』は、『ラ・ヴァルス』とウィーンの関係や、『スペイン狂詩曲』とスペインの関係のように深く土地柄に根ざしたものではなく、あくまで一曲の純粋なヴァイオリン曲にすぎないのです。
この曲は変奏曲風のロンド形式で書かれていますが、変奏の展開が型通りというわけではない点には少し注意が必要です。主題は何度か姿を現しますが、そのたびに最初のものよりも短く、より凝縮された形になっています。伝統的な手法を踏襲したヴィルトゥオーゾ向けの作品でありながら、新たな音響の追求が試みられているのです。
さらに、この作品にはおそらく他に類を見ない特徴があります。それは、ほぼ5分間、あるいは曲全体のほぼ半分もの長さにおよぶカデンツァから始まっているという点です……おっと、私たちの列車が来たようですね」と、モーリス・ラヴェルは締めくくった。

©︎日本モーリス・ラヴェル友の会アーカイブ

「ラッサン」は無伴奏で続けられる
演奏について
この会話の翌日、私は極めて異例な状況のもとでこの作品が演奏されるのを聴いた。ラヴェルは演奏会の6日前にロンドンに到着しており(注3)、『ツィガーヌ』を完成させたのは、彼のゲストかつ友人として滞在していたスウェーデン人歌手アルヴァール夫人の邸宅においてであった。この曲を演奏することになっていたのは、2年前にヴァイオリンとチェロのための二重奏曲の初演をすでに行っていたイェリー・ダラーニ嬢であった(注4)。技術的にも音響的観点からも数々の計り知れない困難があったにもかかわらず、この素晴らしいヴァイオリニストはわずか3日間でこの曲をマスターした。フランス人のピアニスト、ジル=マルシェックスの伴奏により、彼女は作曲家自身が「これ以上はあり得ない」と評する『ツィガーヌ』の演奏(注5)を披露した。演奏会において、この新しい創造物は真に熱狂的な歓迎を受けたが、それは単にモーリス・ラヴェルに対して一般に向けられる賞賛の反射的なものではなかった。

©︎ British Library
それは同作曲家の『弦楽四重奏曲』、『ピアノ三重奏曲』、『ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲』に劣らず、そのやり方において驚異的な作品である。第一級のラヴェルのすべての作品に見られるように、その巧妙な構成は明らかである。作曲家が人生で一度もヴァイオリンを弾いたことがないと知っていれば、楽器の持つ可能性に対する理解の深さは本当に驚くべきものである。それほど高度な技術的卓越性にもかかわらず、この作品は常に深く音楽的であり続けている;奇妙であったり、心地よかったり、風変わりであるだけでなく、終始音楽なのだ。長いカデンツァのどの瞬間も決して退屈させず、作品の動きとリズムは最も無関心な、あるいは用心深い聴衆さえも夢中にさせる。
特筆すべき作品
『ツィガーヌ』はヴァイオリン音楽の歴史に新たなページを刻む特筆すべき傑作であり、今後、多くのヴァイオリニストたちが競い合うように最高の演奏を求めてこの曲にとり組むようになるのは間違いない。イェリー・ダラーニは、その卓越したテクニックはもちろんのこと、(ハンガリーの血を引く者として)この音楽の雰囲気を本能的かつ即座に理解することができたのだ。
演奏会が終わったあと、作曲家は冗談めかしてこう語っている。
「もし君がここまで弾けるって知っていたら、もっと難しい曲にしていたのにね。自分ではすごく難しいものを書いたつもりだったが、君たちはそれが大したことないのを証明してくれたよ」

モーリス・ラヴェル・フェスティバルの演奏会プログラム
Dezède: https://dezede.org/evenements/id/71780
私はラヴェルに、今後の具体的な予定について尋ねた。彼は間もなくマドリードへ向かう予定であり、そこを訪れるのは彼にとって人生で初めてのことだという。「自分にとっては、ちょっと恩知らずなことかもしれませんね」と彼は言った。「というのも、父と母が初めて出会ったのがほかならぬあの街ですから。ある意味、ここは私の故郷のような場所です。私はそこで、自分の作品によるオーケストラ演奏会を指揮するために赴くのです(注6)。その後はバルセロナへ向かい、いくつか歌曲の伴奏を務める予定です(注7)……そして、グラナダへ行ってマヌエル・デ・ファリャに会うつもりです(注8)。そのあとは、コレット・ヴィリーの台本によるオペラ・コミックの創作に再び取り組む予定です(注9)。それから、主題を持たず、あらゆる興味がリズムへと注がれるような交響詩を作り始めるかもしれません(注10)。ただ、まだどうなるかは分かりませんがね。まずはソナタを仕上げてから(注11)、ゆっくり考えるとしましょう」。
その後、ラヴェルは私のもとを去っていった。私たちの20年間にわたる友情の証として、彼の次なる作品の一つを私に献呈するという約束を残して(注12)。『ツィガーヌ』に触れた今、私は確信している。次に生み出される作品がどのようなものであろうとも、それはラヴェルの最高傑作の一つに数えられるだろう。なぜなら彼は、初期の頃の独自性を失わないままでありながら、同時に常に並外れた新鮮さを保ち続けているからだ——これこそが、真に独創的な芸術家たちだけに許された特権である。
注記
1. Manuel Cornejoによる本英文記事の完全翻刻および注記。モーリス・ラヴェルに関するこの1924年のインタビューは、これまで完全な形で再掲されたことがなく、2018年および最新の2025年に編纂された『モーリス・ラヴェル:書簡・著作・インタビュー集』(Maurice Ravel, Correspondance, écrits et entretiens, édition établie, présentée et annotée par Manuel Cornejo, Paris, Gallimard, 2025)のいずれの版においても、作曲家に関するこれら書籍からは漏れていた。私たちはここでその出典を文書化し、テキストの全容を翻刻することで、この見落としを正している。
2. 演奏会とは、1924年4月24日(土)にロンドンのエオリアン・ホールで開催された「モーリス・ラヴェル・フェスティバル」のことである。出演はモーリス・ラヴェル(ピアノ)、アンリ・ジル=マルシェックス(ピアノ)、マルセル・ジェラール(声楽)、イエリー・ダラーニ(ヴァイオリン)、そしてG・ジャン=オーブリーが譜めくりを担当した。
3. モーリス・ラヴェルのロンドン滞在は、1924年4月21日(月)から同年4月27日(日)の夕方までであったことは、『書簡・著作・インタビュー集』に収録されているモーリス・ラヴェルの書簡によって確認されている(p. 1417-1419)。
4. 1922年6月28日(?)、イェリー・ダラーニ(ヴァイオリン)とハンス・キンドラー(チェロ)が、ラヴェルが滞在していたロンドンのルイーズ・アルヴァール邸で、モーリス・ラヴェルの『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』を演奏した。この日の夕べには、ラヴェルが自身の『ソナチネ』を演奏し、ルイーズ・アルヴァールが歌ういくつかの歌曲の伴奏を務めたほか、ロベール・カザドシュが『クープランの墓』から抜粋を演奏した。この際、ラヴェルはイェリー・ダラーニにジプシー音楽をいくつか弾いてほしいと頼んだ。1922年7月7日、ロンドンでのラヴェルの作品による別の演奏会(G・ジャン=オーブリーがロザミア卿の邸宅[サーカス・ロード58番地]で主催したイベント)において、イェリー・ダラーニとハンス・キンドラーが再び『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』を演奏した。ラヴェルは再び『ソナチネ』を演奏し、ルイーズ・アルヴァールが歌う歌曲の伴奏を務め、グウェンドレン・メイソン(ハープ)と共に自身の七重奏曲『序奏とアレグロ』を指揮した。いずれも『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』の初演ではない。初演は1922年4月6日、パリの独立音楽協会(SMI)第84回演奏会にて、エレーヌ・ジュルダン=モランジュ(ヴァイオリン)とモーリス・マレシャル(チェロ)によって行われた。
5. 原文の記事には「interperted」というタイポ(誤字)が含まれている。
6. モーリス・ラヴェルがピアニストおよび指揮者の両方として参加した自身の作品演奏会は、1924年5月5日にマドリードのコメディア劇場で開催された。ピアノでは『ソナチネ』を演奏し、指揮ではクロード・ドビュッシーの『サラバンド』『ダンス』の管弦楽編曲版および『ラ・ヴァルス』を指揮した。プログラムの残りの部分(マドリード・フィルハーモニー管弦楽団による演奏)は、その音楽監督であるバルトロメ・ペレス・カサスが指揮した:『道化師の朝の歌』、『クープランの墓』。また、『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』もプログラムに含まれており、演奏はラファエル・マルティネスとフランシスコ・ガッセントによって行われた。Manuel Cornejo, « “ Sans Madrid, probablement je n’existerais pas ”. Deux interviews espagnoles de Maurice Ravel inédites en France (1924) », Cahiers Maurice Ravel [Éditions Séguier], n°14, 2011, p. 125-146 参照。
7. 実際にバルセロナにおいて、モーリス・ラヴェルは1924年5月18日にカタルーニャ音楽堂で開催された自身の作品演奏会で、マルセル・ジェラールが歌ういくつかの歌曲(『シェヘラザード』、『ロンサール、己が魂に』、『草の上で』)のピアノ伴奏を務めた。
8. 不幸なことに、モーリス・ラヴェルは自身の希望通り、友人マヌエル・デ・ファリャを訪ねてグラナダへ赴くことはついに叶わなかった。
9. 『子供と魔法』。
10. この無題の音楽作品の描写は、ラヴェルが後に『ボレロ』について語る際に用いた言葉と酷似している。このプロジェクトは、アンリ・マルエルブの台本に基づき、1923年9月にパリを拠点とするロシア人ダンサーのソニア・パヴロフからラヴェルに委嘱されたスペインのバレエ音楽『王女の肖像画』に関連している可能性があり、1923年9月にプレスで言及されていた。このバレエの断片が『ファンダンゴ:グロテスクな踊り』であり、ラヴェルはそのピアノ音楽を作曲した。この作品は、1928年の『ボレロ』の前身となった可能性があり、ボレロの元のタイトルがまさに『ファンダンゴ』であったことは決して偶然とは思われない。『書簡・著作・インタビュー集』における、1923年9月8日付のジャック・デュラン宛および1928年9月2日付のジョルジェット・マルノル宛のラヴェルの手紙を参照(p. 1360, 1762-1763)。
11. 3年後に完成した『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』(1922〜1927年)。
12. ラヴェルとジャン=オーブリーは実際には、18年前の1906年1月6日、リカルド・ビニェスが『鏡』を初演した演奏会の日にパリで初めて出会っていた(『書簡・著作・インタビュー集』p. 2496-2498参照)。最終的に、モーリス・ラヴェルの作品でG・ジャン=オーブリーに献呈されたものはない。この作曲家の音楽家としてのキャリアは、1932年の夏に最初の兆候が現れた神経系の疾患によって短縮され、音楽プロジェクトを完結させることが困難となった;もしラヴェルが作曲を続けることができていれば、その中の一つがジャン=オーブリーに献呈されていた可能性は十分にある。
ラヴェルの書簡(注記10の『ボレロ』創作の伏線に関する)
モーリス・ラヴェルからジャック・デュランへ(注1)
サン=ジャン=ド=リュズ
[土曜日]1923年9月8日
[...] オペラ・コミックのソニア・パヴロフ(注2)から、アンリ・マルエルブ(注3)の脚本によるバレエを書いてほしいと頼まれました。もし時間がなければ(実際そうなのですが)、自分のスペイン風の作品のいくつかをこの台本にうまく適応させてみるようにとのことでした(主題は『亡き王女のためのパヴァーヌ』から着想を得たものです)。最高でも10小節ほどの作曲を加えるだけで、ディアギレフ流のやり方でこのちょっとした仕事をやれる方法を見つけたように思います。その中では、『パヴァーヌ』『道化師の朝の歌』『スペイン狂詩曲』がひとつにまとめられることになります。もちろん、この「オジャ・ポドリーダ(注4:ごった煮)」のような寄せ集めの楽譜が出版されることはありませんし、あなたも異論はないものと思います。したがって、このカスティーリャ風のモザイク細工(注5)を開始し(そしてすぐに終わらせる)ための許可を、あなたからいただけるのをお待ちしています。[...]
[モーリス・ラヴェル]
注記
1. 自筆書簡。デュラン出版社旧蔵文書。
2. ソニア・パヴロフ(1885–1938)は、オペラ・コミックのプルミエール・ダンセーズ・エトワール(最高位の女性舞踊手)であった。彼女は、アンリ・ラボーの『カイエの靴直しマルーフ』(1914年5月15日初演)、フローラン・シュミット《小さな眠りの精》作品73(1924年、1914年2月5日初演)、アレクサンドル・チェレプニンが音楽を手がけた『ディヴェルティスマン』(1926年にビアリッツのカジノで上演)など、数え切れないほどの作品で踊った。
3. アンリ・マルエルブ(1887–1958)は、小説家であり、『炎の拳』で1917年のゴンクール賞を受賞した人物である。『エクセルシオール』『ミュジカ』『ル・タン』各紙の音楽批評家であり、アンリ・ド・ジュヴネルとともに『レヴュー・デ・ヴィヴァン』誌の共同主宰者(1927–1935)、従軍作家協会の会長、オペラ・コミックの事務局長(1914年)を務め、のちにその支配人(1946–1948)となった。パリのアパートのバルコニーでラヴェルとマルエルブが並んでいる見事な写真が残っており(仏モーリス・ラヴェル友の会コレクション)、その別バージョンにはガブリエル・グロヴレーズも一緒に写っている。
4. このスペイン語の用語には、17世紀にフランス語の訳語「オユ(oille)」があり、肉や野菜を混ぜ合わせた一種の煮込み料理を意味する。
5. 出版を目的としない、ラヴェルのイベリア風モザイク作品『王女の肖像画』——「振付的喚想」——は、舞踊家ソニア・パヴロフと、台本を手がけた音楽批評家アンリ・マルエルブからの依頼であった。マルエルブはこの企画を『薔薇を手にした王女』というタイトルで記憶していた(ブリュール、1950年、220ページ)。1926年のプレス報道にもかかわらず、このバレエが実際に上演された形跡はない。本作の楽譜は現在所在が不明であり、1977年にパリのオートグラフ商のカタログにこの文書が掲載された際になされたジャン・トゥズレ氏のメモを通じてのみ、間接的にその内容を知ることができる。1670年頃のマドリードを舞台とし、ドニャ・マリアナと王の小人アントニオの2人の登場人物、および6つの情景が予定されていた。第1場:アントニオが降りてくる、『道化師の朝の歌』(印刷譜および7ページの自筆譜)、第2場:ドニャ・マリアナが動き出し、彼の歩み寄り、失敗する、第3場:誘惑のダンス、ざくろとオレンジのダンス、ギターのダンス、『スペイン狂詩曲』のハバネラ、ファンダンゴ・グロテクスな踊り(自筆譜4ページ)、『道化師の朝の歌』、第4場:ショールのダンス、扇のダンス、第5場、第6場:見事な肖像画の足元で小人が床にぐったりと横たわっている(ジャン・トゥズレ氏のメモ、PA、5ページ、セルジュ・トゥズレ・コレクション)。この「ファンダンゴ・グロテクスな踊り」の自筆譜は、1928年の7月末から10月15日にかけて作曲された『ボレロ』と明らかに結びついている
モーリス・ラヴェルからジョルジェット・マルノルへ(注1)
ル・ベルヴェデーレ、モンフォール=ラモリー(セーヌ=エ=オワーズ県)
[日曜日]1928年9月2日
親愛なる友人へ、
エドゥアールから聞いて、あなたが『肥満者の殉教』で見事に成功を収めたことはすでに聞いていました。秋のシーズンが始まったらすぐにでも、客席にあなたに拍手を送りに行くのを今からとても楽しみにしています。
その一方で、今の私は仕事にどっぷり浸かっています。あちらの世界へ旅立つ前(注2)に、自分がそんな約束をした覚えなど絶対にないのに、その言葉に縛られる奴隷となって散々苦労させられた後ですがね。もともと私はイダ・ルビンシュタインのために、何の面白みもない仕事(注3)を引き受けていました。しかし、サン=ジャン=ド=リュズ、パリ、モンフォール、バルセロナ、マドリード、そしてサン・セバスティアンの間で何度も書簡を交わした末に、その企画は白紙に戻さざるを得なくなりました。私にとってはこれ以上ない朗報でしたが、イダ・ルビンシュタインにとってはまさに絶望的な出来事でした。そこで私は彼女に、3年ほど前に思いついたものの、アイデアを盗まれる(あるいは台無しにされる)のを恐れて決して実行に移さなかった「ある仕掛け」をやってみないかと提案したのです(注4)。関係者全員が飛び上がって喜んでくれましたよ。
そうそう、先週の木曜日にエイヴォンへ行ってきました。デュラン夫人からの電報で、不運にもジャックが脳充血のためにわずか数時間で急逝したと知らされたからです。土曜日には埋葬に参列するため再び現地へ赴きましたが、それは教会堂を使わない非常に質素なものでした。参列者も身内と親しい友人だけで、本当にわずかな人数でした。もしパリで盛大な式典でもやっていたら、かえって味気ないものになっていたでしょうが、それとは比べ物にならないほど胸を打つ見送りでした。
さて、また仕事の道具を手に取るとします。10月中旬までにどうしても仕上げなければならないのです。やらざるを得ないのですよ。と言っても、音楽でもなければ本格的な作曲でもなく、ただ管弦楽の効果を狙った代物ですがね。それに、23日にはオックスフォードに行っていなければなりません。
近いうちにまた。あなたはいつ戻られるのですか?
愛情を込めて
モーリス・ラヴェル
注記
1. 自筆書簡、1通、1枚、レターヘッド付。フランス国立図書館(BnF)写稿部。
2. 1928年1月から4月にかけて行われた北米ツアーの前に。
3. アルベニスの『イベリア』の管弦楽化という当初の計画についての言及。マドリードやサン・セバスティアンへの郵便はアルボス宛て、バルセロナへの郵便はアルベニスの未亡人宛て、パリへの郵便はエシグ出版社宛てであった。
4. したがって、ラヴェルがのちの『ボレロ』の主題やオーケストラのクレッシェンドというアイデアを得たのは、1928年の夏という土壇場ではなく、1925年頃のことだったということになる。この本人の告白は極めて重要である。おそらく、1923年にソニア・パヴロフから依頼され、アンリ・マルエルブの台本によるものの、おそらく一度も上演されなかったと思われるバレエ『王女の肖像画』のための「ファンダンゴ」こそが、のちの『ボレロ』の出発点となったに違いない。

「モーリス・ラヴェル:書簡・著作・インタビュー集」
仏ガリマール出版社、2025年

(1882-1950)
G・ジャン=オーブリー(Georges Jean-Aubry, ジャン=フレデリック=エミール・オーブリー、1882-1950)は、フランスの卓越した音楽評論家、文芸評論家、翻訳家、そして詩人です。フランス音楽と英国文化の架け橋として多方面で活躍し、特に音楽家や文学者たちとの国境を越えた深い親交で知られています。
中でもモーリス・ラヴェルとは1906年の出会い以来数十年にわたる緊密な友情を築き、ラヴェルの音楽の熱烈な理解者・擁護者として行動しました。彼はロンドン滞在中にラヴェルのイギリス公演やイベントの実現に尽力し、晩年に至るまでその芸術的足跡を国内外へ広く紹介した、もっとも信頼厚い伴走者の一人でした。
また、ロンドンを拠点に活動した第一次世界大戦中から戦後にかけて、彼はロンドンの著名な楽譜出版社J・W・チェスター社が発行する音楽雑誌『ザ・チェスターリアン(The Chesterian)』の編集長を1919年から1940年まで務めました。同誌において、彼は最先端の現代音楽に関する深い洞察に満ちた論考やレビューを数多く発表し、国際的な音楽界の動向発信に大きな足跡を残しました。
音楽分野にとどまらず、文学の領域でも作家ジョゼフ・コンラッドの友人、翻訳者、そして公式伝記作者として重きをなしたほか、彼の書いた詩はラヴェルと親交のあったアルベール・ルーセルやマヌエル・デ・ファリャなど多くの高名な作曲家たちによって歌曲として曲付けされるなど、20世紀前半の芸術文化圏において独自の輝かしい存在感を放ち続けました。

Coll. Les Amis de Maurice Ravel
Dezède:1924年4月のラヴェルとジャン=オーブリーのインタビュー記事[オリジナルの英語とフランス語訳]

モーリス・ラヴェル研究者、IReMus客員研究員、
モーリス・ラヴェル友の会創設会長(1901年法に基づく協会)
©︎ Frangois Bouchon / Le Figaro
マニュエル・コルネジョ氏編纂、Dezède内モーリス・ラヴェルのデータベース資料
(了)
