僕らの季節が始まるとするならば
【あらすじ】
1990年代。
卓越した頭脳を持ちながら、貧困ゆえに夜間大学を目指し、学費を稼ぐために派遣社員として働く十九歳の坂井健吾。
大阪大学に通う一見完璧な女性でありながら、念願の交換留学生となるために、自ら厳しい選択をする十九歳の今川京子。
健吾は、京子が昔から無意識に値踏みしている男性だ。
京子は厳しい現状に直面していた今、自分の精神的な「心の支え」として、救済への渇望のために、健吾の誠実さや容姿を測り、彼へと心を寄せていく。一方の健吾も、彼女の見え隠れする生身の脆さに惹かれていく。
しかし、やがて光の当たる場所へ戻るであろう彼女と、厳しい環境から這い上がる彼との間には、本来交わるはずのない境界線が存在していた。
閉塞した社会を背景に、無自覚な損得の打算から始まり、熱を帯びていく京子の想い。
将来の別れを予兆するものの、美しく痛切な青春恋愛ドラマ。
一章 一九九四年十月中旬
三階分が大胆に吹き抜けた、豪奢なアトリウム空間。一面のガラス窓の向こうで、低く傾いた秋の陽光が、梅田の真新しいビル群の隙間へと少しずつ沈んでいく。
見上げれば、巨大なシャンデリアが、夜の闇に溶けゆく空の輪郭を照らし出し、無数の明かりを灯し始めていた。
昨年、九三年に開業したばかりのこの外資系最高級ホテルのラウンジには、息が詰まるほどの格式が満ちている。はるか頭上の高い天井に反響するハープの生演奏が、フロアの空気を圧倒的に荘厳に、そして甘やかにしていた。
僕はこの最も低い場所である一階のフロアで、黒いベストを身にまとい、ただ静かに客のオーダーを待っている。
天井を見上げれば、どこまでも素晴らしい世界が広がっているように錯覚する。しかし、僕はその世界を享受する側ではない。一番低いこのロビーラウンジで、彼らにサービスを提供しているに過ぎない。
ここが、僕にとって生活のすべてだ。高校を出た今年の春、すぐに派遣社員としてこのラウンジに潜り込んだ。
誰の援助も受けられない環境から抜け出し、生きていかなくてはいけなかった。そして来春の夜間大学への進学資金を稼ぐための、細く、けれど決して切ることのできない命綱だった。
オーダーの処理を終え、フロアの死角となる薄暗いバックヤードへと足を踏み入れる。
わずかな埃がうっすらと舞うバックヤードには、洗剤や銀磨き液の匂いが混じっていた。フロアを行き交う客たちの、豪奢な香水の漂う空気とは決定的に違う、裏方のそれだった。
手元の黒いバインダーを開く。挟まれた薄い伝票の下に、ホテルのロゴが入った小さなメモ紙が隠されていた。
そこには、先ほどテーブルを担当した若い女性客の手によって、赤いペンで数字の羅列が書き残されている。おそらく、あの女性客の連絡先だろう。
「お疲れ様、坂井くん」
背後から声がして振り返ると、休憩に入る先輩の女性スタッフが立っていた。
先輩の声は、いつもより一段高くなっている。彼女は僕の手に、海外製の包み紙に入ったチョコレートを押し付けるように乗せ、意味ありげな視線を残して去っていった。
彼女がフロアに出ていくのを見送ると、僕は職場用の完璧な笑みを顔からゆっくりと剥がした。
身長が百八十センチを超え、父親譲りのそれなりに見栄えの良い顔立ちをしていることは、こういう場所で女性客や年上のスタッフから好意を得るのには役立つのかもしれない。
だが、その父親のせいで、今の僕に、そんな生活の余裕があるわけがない。そう思いながら、さきほどのメモ紙を抜き取り、見もせずにごみ箱へと落とす。
手の中に残ったチョコレートが、甘い香りを放つ。その香りは、生活のための資金稼ぎという乾いた現実のなかでは、場違いに感じられた。
バックヤードの隅で、重厚な銀器が柔らかい布に沈み込む、くぐもった音がしていた。
僕の視界の隅に、今川京子の姿が映る。
彼女は、こちらに背を向けたまま、黙々とカトラリーを磨く作業を続けていた。
センターで几帳面に分けられ、固く耳に掛けられた黒い髪。それを留めるのは、プラスチックの艶を消しただけの安価なヘアピンだった。きっちり左右対称に配されている。履き古された黒いパンプスは、丁寧に磨かれているものの、明らかに合皮とわかる。
彼女の背中からは、決して誰にも触れさせないという、強い意志がひしひしと伝わってくる。
「……今川さん」
声をかけると、布が擦れる音がふっと途切れた。
彼女はゆっくりと振り返り、その視線を僕に向ける。
先ほどの、先輩女性とのやり取りを見ていたのかもしれない。彼女の瞳の奥には、ほんのわずかな棘のようなものが混じっているように見えた。
「……坂井くん。フロアのほうは、落ち着いた?」
静かな、けれど硬い声だった。
「うん。ピークは過ぎたよ。今川さんも、少し手を止めて休んだらいい」
「平気よ。まだ、このトレイの分が残っているから」
ずっしりとした銀製カトラリーを握る彼女の指先は、ひどく白く透き通っている。銀から伝わるひんやりとした冷たさが、彼女の体温を少しずつ奪っていくような気がした。
なぜ彼女は、ここでアルバイトしているのだろう。
今川京子とは、中学生の3年間、同じクラスだった。それで、彼女のことをよく覚えている。
高校も同じで、学区内トップの公立高校に通っていた。僕はろくに勉強などしなかったのだが、普通に授業を聞いているだけで、あっさりとその高校に受かってしまった。
その後、彼女は阪大に合格したと、人づてに聞いたことがある。高校卒業後に、まさか彼女と同じ職場で働くことになるとは、思いもしなかった。
「いつも頑張るよね、みんな助かっていると思うよ」
「仕事だから、当たり前よ」
大金持ちというわけではないにせよ、彼女の家は裕福だったはずだ。たしか父親が京大を出て、鉄道会社に勤めているとか。
僕が高校生の時に働いていた飲食店や本屋に比べれば、ここの時給は良い。だから、勉強時間を確保しつつ、夜間大学の費用を貯めるために、僕は派遣社員としてこの職場を選んだ。
それでもアルバイトの時給は、千百円程度だ。僕にとっては生活のための大事な金だが、彼女にとってはそうは思えなかった。
高校生の時は、1度も同じクラスにならなかったが、彼女を目にする機会は何度かあった。それなりに身なりに気を遣う人だったように思う。
その彼女が、いまは切りそろえただけの髪で、化粧気もあまりない。彼女にも事情があるのだろうが、その理由を、僕は想像ができなかった。
留学資金を貯めるためと言っていた、と、さきほどの先輩女性が教えてくれたことがある。だが、その程度の費用なら、彼女の親が出してくれそうなものだ。
不意に彼女の手が止まり、その視線が僕を通り越して、バックヤードのガラス窓へと向けられた。窓の向こうには、すっかり夜の底に沈んだ梅田の空が広がっている。
その空の下には、高層ビル群の断片があった。
彼女は、その光の群れを見つめていた。その横顔には、焦燥の色が混じっているようだった。
僕にとっては、摩天楼の光は遠くの世界だが、彼女にとっては、おそらくそうではないのだろう。大学を卒業すれば、彼女は相応の企業に就職し、東京なのか、どこなのかはわからないが、きっと、見上げているような高層ビルの中で働くことになる。
冷気を帯びたバックヤードの空気が、音もなくすり抜けていく。
彼女が見つめる光と、僕の目に映る光は、おそらく決定的に違っている。その現実が、僕の胸の奥をいくらか痛ませた。
僕はそれ以上、彼女の横顔を見つめていることができず、手元のバインダーへと目を落とした。挟まれた伝票の数字を、指でなぞるようにして追っていく。
*
今川京子が、この最高級ホテルのロビーラウンジにアルバイトとして入ってきたのは、十月の頭のことだった。バックヤードで、新しい制服に身を包んだ彼女の姿を目にした際、僕は指先がこわばるのを感じた。まさか、こんな場所で再会するとは思ってもみなかった。
それは彼女にとっても同じだったようで、眉がほんの少しだけ驚きに跳ね上がるのが見えた。その瞳の奥で、小さな光が不規則に揺れていた。
僕は、懐かしさと戸惑いの混ざった感情のまま、接客用の笑みとは違う、少し不器用な微笑を浮かべて、軽く手を振った。しかし、彼女は僕の手の動きを一瞬だけ見つめると、すぐにそっけない視線を床へと落とした。
それから、二週間が経とうとしている。
僕と彼女は、特にプライベートなことを話す機会はなかった。彼女は、ある一線を引いているようだったし、僕も彼女に対しては、自分から近況を聞くようなこともなかった。
今川さんは必要以上のことを語らず、与えられた仕事を淡々と、完璧にこなしていた。周囲のスタッフとも、丁寧ではあるけれど、決して縮まらない一定の距離を保ち続けている。
*
「少し手伝うわ」
バインダー上の伝票の数字を確認していると、不意に、すぐ横から硬質な声が聞こえた。気づくと、彼女が僕の隣に立っていた。
「いや、こっちは大丈夫だよ。今川さんは少し座って休んで」
僕は伝票から目を離さずに、努めて平坦な声で答えた。
彼女に余計な気遣いをさせたくなかったし、この至近距離に漂う彼女の張り詰めた気配には、耐えがたいものがあった。
僕は、今川さんのこの雰囲気が苦手だ。
中学生のときも、そうだったことを思い出す。当時、彼女は友達とは無防備な笑顔で話していたが、僕に対しては、一定以上に踏み込ませない空気を作り出していた。
「平気。数字の照合くらいはできるから」
彼女の言葉は凛として固かった。僕に対して近寄り難い壁は作るものの、仕事となると話は別らしく、余裕があれば手伝おうとしてくれる。
差し出された手が、バインダーの端にそっと添えられる。彼女の強い視線が、僕の指がなぞる伝票の数字へとじっと注がれる。気のせいか、僕の横顔を探るような気配もあった。
「坂井くんは、ここでも完璧なのね」
彼女は、感情の起伏を削ぎ落とした声で呟いた。その響きの裏に、かすかな冷たさが潜んでいる気がして、僕は指を止めた。
「完璧なんかじゃないよ。ただ、間違えると後で面倒なことになるから、確かめているだけだ」
「そういうところが、昔から変わらないと言っているのよ」
彼女はバインダーから目を離し、バックヤードの狭い空間のどこか遠くを見つめた。
「中学生のとき、そうだったわ。坂井くんはいつも、何でもないような顔をして、一番高い場所にいた」
丁寧に整えられた黒い髪の隙間から、左右対称に留められた安価なヘアピンが、室内の蛍光灯の光を鈍く反射している。その艶のないプラスチックの質感が、なぜだかどうしようもなく切なく僕の瞳に映った。
「私は一生懸命やっているのに、普通にしている坂井くんのほうが、成績が良かった」
僕は彼女のその言葉を、ただ戸惑いとともに受け止めることしかできなかった。なぜなら、僕には、彼女と競い合おうという意志など、最初からひとかけらもなかったからだ。
「……要領が良かっただけだよ。真面目に努力していた今川さんとは違う」
嘘偽りのない、僕の本心だった。当時の僕は、生活の雑音から逃れるように、教科書を開いていただけだった。
誰の援助も期待できない自分の将来への、漠然とした不安。そこから目を背けるために、適当に、目の前の課題を処理していたに過ぎない。
「……そんなものかな?」
今川さんは、自嘲気味に口元をわずかに歪めた。
「いえ、要領だけでは、坂井くんみたいになれないわ」
彼女の薄い唇から零れ出た僕の名前は、バックヤードの空気の中に、静かに溶けて、消えていく。窓の外では、高層ビルの窓から漏れる無数の光が寒々とまたたいていた。
僕らの間に、気まずい沈黙が、長い余白となって横たわる。音が全て消え去った空間で、僕は次の言葉に窮した。
「今川さんは……」
僕がようやく問いかけようとしたとき、彼女は遮るように、再び僕の持つバインダーへと目線を戻した。
「次のページの数字、私が読み上げるわ。だから、坂井くんはチェックをして」
彼女の声は、先ほどまでの感情を失い、また元の、丁寧ではあったが、周囲を自分に踏み込ませないものに戻っていた。
「……分かった。お願いするよ」
僕は伝票のページをめくる。
「ねえ、坂井くん」
彼女の声のトーンが、わずかに低くなる。
「あなた、どうしてここで働いているの?」
唐突な問いだった。だが、彼女が聞きたかったことだろうとは予想していた。
「坂井くんなら、どこの大学でも行けたと思うわ。なぜ、ここで働いているの?」
感情を抑えた今川さんの声が、バックヤードの空気を微かに震わせた。
僕は彼女のほうを見た。一瞬目が合うと、彼女は慌てたように顔を背けた。
しばらくの間、僕はどう答えようか迷い、手元の伝票の数字へと視点を巡らせた。バインダーの合皮の感触が、手のひらに冷たく伝わってくる。
「……私は、自分の能力をきちんと発揮できる場所に行きたいと思うの」
しばらくためらった後、今川さんは言った。
彼女は、僕と視線が合わないように、バックヤードの小さなガラス窓の向こうにある、夜の闇を見つめていた。
「坂井くんは……その、余計なお世話なんだけど、とてももったいないわ」
蛍光灯の無機質な光が、彼女の耳元に落ち、左右のヘアピンで不規則に乱反射していた。
今川さんがそんなことを言うのは珍しい。
僕は小さく息を吸い、 オフィスウェアの黒いベストの一番上のボタンに指をかけた。指先の微かな震えを隠すようにして、僕はボタンをひとつ、ゆっくりと外した。
「……生活のためだよ」
僕は、絞り出すようにして答えた。
自分の能力をきちんと発揮できる場所、か。今川さんの言葉が、僕の胸を締め付ける。もし僕の人生に、そのチャンスが与えられていたなら、僕は今、どこにいただろうか。
「今川さんも知ってるだろ? 僕の家って、裕福とは言えなくてね」
一度言葉を切ってから、僕は続ける。
「しかも、高校のときにね、両親が離婚したんだ。その後は、ずっとバイトに追われてね」
「だから……高校のとき、あんなにバイトばかりしていたのね」
なんで今川さんがそのことを知っているのだろう。高校時代、彼女とは一度も同じクラスにならなかったし、言葉を交わした記憶もあまり残っていない。
「普通の大学は無理でも、僕は夜間大学に行きたかったから、バイトして金を貯めていたんだよ。でも、それでは足りなくて、ここで働くことになった」
僕は傍らに置かれていた大ぶりの銀製スプーンを手に取り、柔らかい布でその表面をなぞるようにして磨き始めた。
磨き上げられた銀器の鏡面が、室内の光を鋭く反射する。その歪んだ金属の表面に、僕たちの顔や、決して交わらない視線が映し出されていた。
「今は、このホテルの近くにある、寝るだけの古いアパートの部屋を借りている。高校を出て、すぐ親元から離れて世帯を分けたんだ。そうしないと、大学に行くどころか、自分が潰れてしまうからね」
今川さんは、じっと僕の話を聞いていた。
「……ごめんなさい」
今川さんは消え入りそうな声で言ったが、その言葉の中に、安堵の色が混じっている気がした。僕のことを気遣ってくれているのだろうか、とも思ったが、そんな安易な感情ではない気がした。
彼女は落ち着きを失ったように、俯きながら、左側のヘアピンを頼りなく触り始めた。彼女の黒い髪がひと筋だけ、固めたはずのヘアピンからこぼれ落ちて、白い頬に影を作った。彼女の動揺が、その指先の微かな動きに現れていた。
重い沈黙が訪れる。
バックヤードの向こう側は、三階分を吹き抜けたアトリウムの豪華な空間が広がっている。そこには荘厳なシャンデリアが煌めき、贅沢を享受する客たちが華やかな光の中にいる。
それに比べて、僕たちのいるこの足元は薄暗い暗がりだった。
僕は呼吸を整え、今度はこちらから問いかけた。
「今川さんは、なんでここでバイトしているの? 留学資金を貯めるためだって、先輩から聞いたけど」
「……そう。留学資金のためよ」
しかし、彼女はそこで言葉を切り、それ以上の領域を拒むように口をつぐんでしまった。見えないガラスの壁が、再び、僕との間に立ち塞がる。
これ以上は話してくれそうにない。そう思った僕は、努めて口角を上げ、言った。
「そうなんだね。なんかわかんないけど……今川さんがやろうとしていることなら、僕は応援するよ。きっと君のことだから、間違いない」
僕の言葉に、今川さんはかすかに唇を綻ばせたが、すぐにいつもの、あまり感情の読み取れない表情に戻った。
『自分の能力をきちんと発揮できる場所に行きたい』
それは、彼女だけの願いではないのだ。僕の心の奥底にも、とうの昔に諦め、仕舞い込んだはずの、その想いがあった。
今川さんの言葉によって、その消したはずの熱が、傷口のようにうずくのを、僕は確かに感じていた。
二章 一九九四年十月下旬
午前九時。日当たりの悪い、わずか六畳の部屋で、僕は目を覚ました。
窓ガラスにそっと指先を当ててみる。朝のひんやりとした空気の感触が、皮膚を通してじわりと伝わってきた。
アルミのサッシを引くと、擦れる鈍い音が静まり返った部屋に響いた。秋の陽光が、梅田の下町を眩しく照らしている。
簡単に食事をすませ、図書館に行く準備をして、僕はアパートの外階段に出る。
見上げた梅田の空は、ひどく高かった。雲ひとつない、輪郭の滲まない抜けるような青色が、どこまでも広がっている。街路樹の銀杏の葉が、溢れるような朝の陽光を反射して、きらきらと黄金色に輝いていた。
風が吹くたび、かすかに乾いた葉の匂いがした。
秋が美しく世界を包んでいる。僕が今抱えている生活や孤独な現実とは、ずいぶん違うなと自嘲する。
僕は小さく息を吐き出し、錆びの浮いた自転車に足を掛けた。図書館へと続く、緩やかな坂道を上っていく。ペダルを踏み込むたび、チェーンが規則正しく噛み合う金属音が静かに響く。
並木の枝が、強まる風に擦れ合い、寂しげな音を立てて揺れている。時々、タイヤが乾いた落ち葉を踏み砕き、それらの音が鼓膜を震わせた。
僕はふと、両親の顔を思い出していた。
もともと仲の良い両親ではなかった。いつの間にか、僕の知らないところで離婚が決まっていた。
父親が外に若い女性を作らなければ、あるいは今の僕の生活は、かなり違ったものだったかもしれない。だが、もう忘れなくては。今更、どうにかなるものでもない。
その父親は、いまどこでどうしているのか、わからない。母親は、昔から住んでいた府営団地の一室に、今も暮らしている。
親元から離れ、自立して生きることを選んだのは自分だ。その決断に後悔はないし、誰かを責めるつもりもない。
両親だって人間であり、どうしようもないことがある。心の中の記憶を探っても、出てくるのは埃を被った石ころのような思い出だけだ。すり減った自転車のペダルのように、両親への感情はとうに摩耗して、何の熱も持っていなかった。
目的地の図書館に足を踏み入れると、特有の空気の層が僕を包み込んだ。ここには、古い書籍からの独特の紙の匂いと、喧騒から隔絶された静寂がある。今の僕にとって、大切な場所の1つだった。
僕は、館内の隅にある窓際の席を選んで腰を下ろした。特別なことがない限り、ここに座り何時間か勉強をする。
一冊の参考書を取り出し、机の上に広げる。私大受験向けの参考書だ。
近大か大経大。働いて資金を貯めつつ、受験勉強もするならば、ここが無理なく入れる夜間大学だ。
ページをめくる指先から、紙の質感が伝わってくる。参考書の重みが、彼女の言葉を思い出させた。
『私は、自分の能力をきちんと発揮できる場所に行きたいと思うの』
一週間ほど前、ホテルの薄暗いバックヤードで、今川京子が静かに言った言葉が、僕の脳裏にありありと蘇る。
自分にも、機会が与えられていたなら、環境が与えられていたなら――。とうの昔に封じたはずの想いが、胸の奥で揺れる。
神戸大か大阪市大の赤本を買ってみようか。学費は、私立大学の約半分になる。だが、フルタイムで働きながら、十分な受験対策の時間が取れるだろうか。
入学した後も、生活費と学費を工面しつつ、大学の授業もこなさなければならない。
今考えている私立大学であれば、卒業までの単位は取得できる自信はあった。真面目に講義を聞いていれば、ある程度はどうにかなる。
但し、国立の夜間となると話は別だ。授業でも相応の努力が必要になるだろう。
午後二時を過ぎた頃、僕は図書館を後にする。
アパートの狭い部屋に戻り、ドアを開けると、陽が部屋に差し込み始めている。畳の床の上に、僕自身の影がぽつりと落とされている。
遅めの昼食を摂り、シャワーを浴びて、ホテルの制服に着替え始める。黒いベストにゆっくりと腕を通すと、直面する現実が戻ってくる。
ボタンを上から順番に、滑らせるようにして留めていく。ひとつ、またひとつとボタンを留めるたびに、自分の感覚が変わっていくのを感じる。
それは、「明日を夢見る受験生」から、「今日を生き延びるための労働者」へと、自らを切り替える瞬間だ。
僕のアパートは、窓からは下町しか見えないが、勤務地の梅田のホテルから徒歩で行ける距離にある。家賃も高くなく、十分に払える金額だ。
同じ梅田でも、ずいぶんな差だ。
家を出ると、僕は足早に、少し冷えた風の中へと歩き出す。
これから深夜の一時まで、生活費を稼がなくてはならない。四時からの勤務に備えて、きっちり十五分前に、ホテルの従業員用の出入口を通る。
先ほどまでが嘘のように、陽の光があまり届かない控室に入り、タイムカードを機械に通す。短い打刻音が鳴った。
それが、僕の意識を完全に切り替える合図だ。
「お疲れ様です」
声をかけると、ちょうど休憩に入ろうとしていた先輩の女性スタッフが、こちらを振り返った。
しかし、彼女の視線は僕の瞳をかすめ、すぐに手元の書類へと落とされる。その動きには、どこか不自然さがあった。
「ああ、坂井くん。お疲れ様。連絡事項は、そこに貼ってあるから」
先輩の女性社員の声は、いつもより少し事務的だ。視線が微妙に合わない。そんな微細な変化が、控室にひっそりと浮き彫りになっていた。
「分かりました。準備して、フロアに入ります」
「ええ、お願いね。備品が足りないから、取ってくるわ」
それだけ言うと、先輩は足早に倉庫へと向かっていく。
残された僕は、壁の小さな鏡に映る自分の顔を見つめた。口角を上げ、糊で貼り付けるように、表情を変えていく。こうして見ると、確かに僕の見た目は悪くない。
この笑みのおかげで、これまでどうにか職場でも、特に年上の社員とはうまくやっている。
これは親に感謝しないといけないところか。自嘲気味に思った。
精神が凪いでいくのを感じながら、僕はフロアへと向かった。
*
夕暮れから、夜へ。
ホテルのロビーラウンジは、時間の移ろいとともにその表情を変えていく。今日も変わらず、天井のシャンデリアが、明かりを灯し始めていた。ガラス窓の向こうで、都会の景色が光の海へと変わっていく。
ハープの生演奏が、フロアに反響し、その空間を満たしていく。贅沢な音色が、客たちを束の間の休息の空間に誘っていた。
一方で、カクテルタイムのピークを迎え、僕たちスタッフは慌ただしさを増していた。
僕は、空いたグラスや食器の片付け、灰皿の交換、テーブル清掃を機械のように淡々とこなしていく。手際よくトレイを扱い、客たちの間を静かにすり抜ける。
けれど、僕の目は、無意識のうちにひとりの人物の動きを追いかけていた。
今川京子もまた、慌ただしい中で、静かに立ち働いていた。バイトである彼女は、普段はバックヤードでの仕事に充てられる。ただ、この慌ただしい状況ではそうもいかない。
彼女もフロアに出て、トレイの運搬やテーブルの清掃、場合によっては客のオーダー対応をせざるを得なくなる。
僕は誰よりも早く、彼女の状況を察知する。彼女が対応に苦慮しそうなときは、さりげなくヘルプに入る。そうでないときは、下手に手は出さない。
遠慮がちな距離感を保ったまま、彼女から重いトレイを受け取る。その刹那、僕たちの指先が触れそうになる。
彼女の、僕に対する受け答えはあくまで礼儀正しいが、その響きは相変わらずガラス越しのように遠い。僕はあまり踏み込まないように注意し、彼女もまた、纏う空気を変えなかった。
ラウンジの営業時間が終わりに近づくと、客が一人また一人と退店していき、営業終了とともに華やかな雰囲気は完全に消え去っていく。
客のいないラウンジは、静寂が支配していたが、バックヤードでは大量に残された鈍い銀製のカトラリーが、蛍光灯の光に照らし出されていた。
実家暮らしの今川さんにとって、終電の時間が近づいている。彼女のシフトは、僕よりも早く終わる。着替えの時間を考えても、十一時十五分には終業させなくてはならない。
彼女の手元を見ると、焦燥を孕んだ手つきで、シルバーを磨く布を動かしている。その音が、彼女の焦りをそのまま代弁しているようだった。
「今川さん、ここは僕がやっておくよ。もう時間だろ」
僕は彼女の隣に立ち、静かに声をかけた。言いながら、手早く食器類を磨いていく。
今川さんは動きを止め、一瞬だけ、すまなそうに長い睫毛を伏せた。
「……ごめんなさい。終わらせられなかった」
彼女はすぐには手放そうとせず、磨き布を握る指先にぐっと力を込めていた。助けを求めなければならない今の状況が、ひどく受け入れがたいものであるかのように微かに唇を噛んでいる。しかし数秒の躊躇の後、現実に屈するように、その布を僕に明け渡した。
「いいんだよ。気をつけて帰って」
「うん。お疲れ様、坂井くん」
彼女は小さく一礼すると、私服に着替えるために更衣室へと向かった。しばらくして、私服に着替えた彼女が、ホテルの勝手口から出ていくのが見えた。
今も、阪急茨木市駅の近くに住んでいたはずだ。僕がかつて母親と住んでいた府営団地から、そう遠くない場所だ。
家族とはうまく行っているのだろうか? 人の家族の心配をしている場合なのだろうか、とは思うが、本来であれば、彼女は留学資金のためにアルバイトをする必要はないはずだ。
僕は、バックヤードの小さなガラス窓の向こうを見る。
完全な夜を迎えた梅田の空には、高層ビル群が悠然とそびえ立っている。闇を穿つようにして輝く、無数のオフィスやホテルの明かりが夜を彩っている。
あの眩しい光の中に、彼女の住む本来の世界があるのだろう。今は一時的な問題で、この光の届きにくいバックヤードにいるだけではないか。
ただ、僕にとっては、このバックヤードが本来の世界だ。
夜の静寂が、残された銀器の輝きを、さらに際立たせていた。
三章 一九九四年十二月初旬
十二月の比較的暖かい午後のことだった。
僕は、府営団地で暮らす母を訪ねた帰り道、阪急茨木市駅へと向かって歩いていた。先ほどまで過ごしていた、母の狭い部屋の残響が、まだ耳に残っていた。
久しぶりに会った母親の背中は、また一つ丸くなった気がした。お茶を淹れてくれたときは、どこか他人行儀でさえあった。
駅前に近づくと、ふと見覚えのある姿が目に留まった。買い物袋を下げて立ち止まっている、今川さんだった。
濃紺のダッフルコートに、緑と赤の細かなタータンチェック柄のウールプリーツスカート。その前合わせからは、シンプルな白いタートルネックのセーターが覗いていた。
僕は彼女に対して、小さく手を上げた。
彼女は一瞬驚いたような表情をしたが、ふっと微笑んで、手を上げ返してくれた。
彼女と同じ職場で働くようになって、もう二か月が経っていた。僕はできる限り、あまり目立たないように彼女のサポートを続けていた。
今川さんは面と向かっては言わないが、僕がひそかにフォローしていることに気づいていたと思う。日が経つにつれて、徐々に彼女の態度は軟化していき、今では僕にだいぶ慣れてくれたようだった。
「こんにちは。買い物の帰り?」
彼女の髪が、僕の目を引いた。
いつものバックヤードでは、二つの左右のヘアピンによって固められている髪が、今日はアンバランスな状態になっていた。
向かって左側の髪は几帳面に留められているものの、右側のヘアピンは外され、その毛先が自然に肩へと落ちている。左側のヘアピンも職場で使う黒ではなく、淡いピンク色をしており、少し大きめのサイズのものを使っていた。
「うん。梅田の丸善に寄ってきたの」
彼女はそう言って、手にした袋を軽く持ち上げてみせた。
「坂井くんは、どうして茨木に? 今はホテルの近くに住んでいるって言っていたけれど」
自分の近況を、手短に話した。
世帯を分けたとはいえ、制度上の都合であり、完全に縁が切れたわけではないこと。
一人で暮らす母親の様子を、一ヶ月か二ヶ月に一度は見に来ていること。
僕の話を聞くと、今川さんはしばらくの間、何かを深く考え込むように黙り込んだ。左側だけのヘアピンを、細い指先でそっと丁寧になぞる。
「ねえ、良かったら一緒に歩かない? 話を聞いて欲しいの」
不意に、彼女の薄い唇から言葉が発せられた。
「ああ、いいよ。もちろん」
あまりに突然のことだったが、僕はそう答えた。
僕らが足を踏み入れたのは、元茨木川緑地だった。かつては水が自由に流れていたはずの川が、今では埋め立てられ、緑豊かな遊歩道として整備されている。
乾いた十二月の風が、木々の枝を揺らしながら、僕たちの間を通り抜けていく。
「私ね、子供のころから、ここを歩くのが好きなの」
遊歩道の脇に広がる芝生に目を向けながら、彼女は呟いた。
「ここなら、僕もたまに来ていたよ。家が近かったからね」
「子供のころ、この街中をよくロードバイクで走っていた若い白人の二人組を覚えていない?」
「そういえば、たまに見かけた記憶がある。留学生だったのかな」
今川さんは小さく頷いた。
「この遊歩道でも、よくあの二人組を見かけたの。私ね、あるとき勇気を出して、声をかけて聞いてみたことがあるの。そしたら、阪大の留学生宿舎に住んでいる人たちだったのね」
ヘアピンのない右側の髪を、初冬の風に乱れさせるままにしていた。風をはらんで柔らかく踊る、切りそろえただけの髪が、彼女をどこか幼く見せる。
「それでね、彼らは休みの日に、京都の裏側まで行くんだって、白い歯を見せて笑っていたわ。自転車ひとつ、自分の身体ひとつで、そんな遠いところまで行けるんだって、当時の私はひどく衝撃を受けたの」
そして歩みを止め、雲のない空を見上げた。
「あんなふうに、自分の意志と力だけで、行けるところまで自由に行けたら、と思ったのよ」
僕は、かつてバックヤードで彼女から聞いた言葉を思い出す。
『私は、自分の能力をきちんと発揮できる場所に行きたいと思うの』
風に揺れる髪を抑えようともせず、ただ遠くを見つめる今川さんの姿は、半分だけ僕に心を開いてくれたようだった。
「あの時の留学生の姿が、ずっと記憶に残っているの。私もいつか、留学してみたいって。それが、小さな頃からの夢になったのよ」
一ヶ月以上も前、僕が彼女に問いかけようとして、聞くことができなかった答えだった。
「わかる気がする。そう思うことは、僕もある」
両親のことを思い返す。何かが一つ違えば、僕の人生も相当違ったはずだ。
僕と今川さんは、どこに行くわけでもなく、並んで歩を進めた。足元で、落ち葉が踏み砕かれるかすかな音が、午後の空気の中に吸い込まれていく。
冬にしては暖かい風が、頬を撫でて行った。
彼女は、急に立ち止まり、僕の顔をじっと見つめる。何かを探っているような気がした。僕は彼女のその行動に違和感を感じたが、何も言うことができなかった。
「ベンチに座らない?」
彼女の言葉に、僕はただ頷いた。
「坂井くんの顔を見てたら、もう少し聞いて欲しくなったの。なんだか、すごく落ち着くから」
ベンチに座る前に、今川さんは、近くの自動販売機から缶コーヒーを買ってきてくれた。彼女はそれを二つ、両手に包むようにして持ってくると、そのうちの一つを僕に差し出した。
「ありがとう」
彼女は僕の右側に腰を下ろした。ヘアピンで抑えられた、彼女の左側が僕のほうを向いている。淡いピンク色のヘアピンは、冬の穏やかな光を鈍く跳ね返していた。
「留学のことなんだけどね」
今川さんは、コーヒー缶に視線を落としたまま言った。
「父親が、どうしても認めてくれなくて。費用は一切出さないって言われたのよ」
彼女の声は、どこか張り詰めたピアノの弦のように固かった。
「だから、自分で稼ぐから問題ないって、突っぱねたの」
彼女は無理に明るく見せるように、小さく笑って缶を揺らした。
僕は、先ほど見てきたばかりの、団地の狭い一室にいた母親の姿を思い出していた。そして、ルックスの良さから外に若い女性を作り、家に寄り付かなくなっていった父親のことも。
彼女の父親は、心配して、意固地になっているだけかもしれない。僕からすると、まっとうな親心のように思えたが、そのことは口にしなかった。
「でもね、子供のころの夢だけだったら、ここまで必死にならない。それが親には伝わらなくて」
今川さんの口調は、いたって冷静だった。落ち着いた声音で、彼女は続ける。
「私、英語の勉強や、子供の頃の夢だけで留学したいわけじゃないのよ」
「どういうこと?」
「新聞やニュースで見てない? いま、大卒女子の就職って、信じられないくらい厳しいのよ。これが長い間、続くかもしれないって」
就職氷河期――。
部屋にテレビはなく、新聞も取っていない生活を送る僕ですら、その言葉は知っていた。
バブル崩壊の後、日本の企業が一斉に採用の門を閉ざしていた。彼女のような優秀な人間であっても、大卒女性の就職は厳しい状況にある。それは、僕でも十分すぎるほど理解できた。
「少しでも、将来のために、今できることをしておきたいの。留学そのものではなくて、交換留学生に選ばれることに意味があるのよ。優秀で上昇志向があるという証明だから」
彼女の横顔は、現実を冷徹に見つめているようだった。
だが、まだ大学にすら入っていない僕には、その焦燥の重さは完全には理解できていなかった。
「交換留学の一次試験で、手ごたえがあったのね。だからお金を貯めようと思って、最初は予備校の講師を考えたの」
「なるほどね。確かに、時給いいよね」
「でも、ダメだったわ。予備校はサービス業だから、きっと私では難しいと思われたのね」
彼女は嘆息し、自分の右側の髪にそっと手を触れた。
「家庭教師も少しやったんだけど、生徒さんがあまり続かないの。私、時々、厳しいことを言ってしまうから」
自分に厳しい彼女であれば、そのことはイメージできる。他人に対しても、努力への妥協を許せないのだろう。
「そうかな、バイトはすごく頑張ってくれてるし、みんな助かってる。僕もそうだ」
そう言うと、彼女の顔に安堵の色が見えた。
「普通の飲食店に比べると、時給は良いからね。だから、僕も学費を貯める仕事として選んだ」
「本当、お金って重要だよね……。私は交換留学に、坂井くんは大学に。……そこさえクリアすれば、私たち、変に苦労せずに済んだのにね」
彼女は少し寂しそうに目を伏せた。
「坂井くんはすごく優秀だったから、きっと、私より良い大学に行っていたと思うわ」
「……どうかな。それは分からないよ」
僕はそう言って、コーヒー缶を両手で握りしめた。
僕にとっての金がないということは、生活に直結する。彼女の困りごとは留学資金の出どころであり、今川さんの言う『お金』は、次元が異なるのではないかと思う。
「一次試験って言ったよね。まだ次の試験があるの?」
話題を変える。
「三月に、最終の合格が通知されるわ。それから九月に出発。一年あれば、けっこうなお金を貯められると思って」
「僕と同じ時期に合格発表だね」
今川さんはほんの少しだけ、目元を和らげて微笑んだ。十月に会って以降、彼女の一番柔らかい表情だった。
「今日は、付き合ってくれてありがとう。この後、また勉強しないといけないから」
「うん、どういたしまして。もし何か話したくなったら、いつでもどうぞ」
僕が言うと、彼女はまたじっと僕の顔を覗き込んだ。
雲間から漏れる初冬の穏やかな陽光が、ベンチに座る僕たちを包んでいた。僕らの影は、地面に淡く描き出されていた。
四章 一九九五年一月中旬
年が明けても、僕の生活は、基本的に変わらなかった。
午前十時から午後二時までは図書館で受験対策を、午後四時からは梅田にある外資系ホテルのラウンジで黒いベストを身にまとい、仕事を淡々とこなしていく。
今川さんもまた、変わらずにロビーラウンジのアルバイトを続けている。
優秀な彼女のことだから、もっと時給の良い予備校の講師でも見つけて、さっさと、本来の彼女の場所ではない、このバックヤードを去っていくのだろうと、僕はどこかで思っていた。
だから彼女の姿が、まだそこにあることは、僕にとって意外だった。
彼女は、この仕事を気に入ったのだろうか。
僕は、作り物の営業用の笑顔と、中身のないコミュニケーション能力で、割と器用に日々の業務をこなしていたと思う。
けれど、彼女は決してそんな風には見えなかった。いつだって、自分の輪郭を保ったままで、表面上の作り笑いや、意味のない会話が、あまり得意とは思えなかった。
一月の半ばを過ぎた頃、僕はふと思いついて、彼女を誘ってみることにした。
「今川さん、もしよかったら、今度の休みに大阪天満宮へ行かないか。合格祈願にね」
一人で行くつもりだったけれど、彼女も同じ春を目指しているのだから、声をかけても不自然ではないだろうと思ったのだ。今川さんは、一瞬、戸惑ったように細い眉を寄せた後、何かを測るようにしばらく考え込んだ。
やっぱり、余計なお世話だったかもしれない。
そう思った瞬間、彼女はふっと表情を緩めた。
「行きましょう。ぜひ」
柔らかい、だけど、どこか自分を納得させるような響きを持つ声だった。
*
待ち合わせは、土曜日の午前中だった。その日、僕は勤務日だったため、二人で出かけるにはちょうどいい時間だった。
僕は東梅田駅から八尾南行きの地下鉄に乗り、次の駅である南森町で降りた。今川さんは阪急茨木市駅から天下茶屋行きの準急に乗り、堺筋線経由で来ると言っていた。
地下の閉ざされた空間は、冬特有のひんやりとした空気に満ちている。改札機の電子音が規則正しく響く中、僕は、いくらか離れた場所から彼女の姿を見つけた。
今川さんは、ピーコートの襟を立てて、寒そうに小さく肩をすくめて待っていた。新調されたものではないけれど、毛羽立ちをハサミで丁寧に切り落としてあり、彼女の身なりへのこだわりが見て取れた。
「今川さん」
声をかけると、彼女は振り返った。
彼女の黒い髪は、やはり僕の目を引いた。左側は少し大きめのヘアピンで抑えているが、右側にはそれがない。切りそろえられた毛先が自然に肩へと落ちている。
その髪の隙間から覗く横顔は、どこか幼く、少女の面影を宿しているように見えた。
「おはよう、お待たせしちゃったかな?」
「いや、僕も今着いたところだよ」
僕たちは並んで歩き出し、地上へと続く階段へと向かった。一段ずつ、コンクリートの階段を上っていく。地下の少し仄暗い世界から、冬の鋭い陽光が矢束のように差し込む出口へと向かう。
地上に出ると、冷えたビル風が吹いている。彼女は寒さを凌ぐように、ピーコートのポケットに手を入れて歩いていた。
大阪天満宮の境内に一歩足を踏み入れた瞬間、空気の境界線を越えたように、線香の香りと古い木造建築の匂いが僕たちを包み込んだ。
この時期、休日の境内は、驚くほどの大勢の参拝者で溢れ返っている。主役は、やはり僕たちと同じ、切実な祈りを抱えた受験生たちだ。
無数の人々が放つ緊張感が、境内の空気を微かに震わせていた。奉納された何千枚もの絵馬が、風に煽られて、乾いた軽い音を立てて擦れ合っている。
二人で静かに手を合わせ、それぞれの未来への祈りを捧げる。
目を閉じると、隣に立つ彼女の気配と、微かな香水の匂いが、光の中に溶け込んでいくのを感じた。
参拝を終え、人混みから外れた場所まで歩いたとき、今川さんが足を止めた。
「ねえ、坂井くん」
彼女は僕の方を向き、どこか遠慮がちな瞳で僕を見つめた。
「お守りを、きっと送りあったほうがいいと思うの」
それは彼女からの提案だった。僕たちは社務所へと向かい、互いの合格を祈ったお守りを選んで、買い求めた。
雲間から漏れる冬の陽光が、境内を優しく照らし出している。
彼女の表情も、いつになく穏やかだった。十月に再会した時の彼女を思うと、嘘みたいに思えた。
「大切にするよ。ありがとう」
「ええ、私も」
彼女は、僕の渡したお守りを、胸の前でぎゅっと両手で握っていた。
彼女のその仕草を眺めながら、僕は、彼女から貰った手の中のお守りを、コートのポケットの奥へと仕舞い込んだ。
太陽の光が、石畳の上に僕たちの影を、わずかな距離を残したまま淡く描き出していた。
*
大阪天満宮の喧騒を離れ、天神橋筋商店街の賑やかさから一歩外れた路地へ入る。そこには、ひっそりと佇む純喫茶があった。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、琥珀色のランプの光が、セピア色の陰影を僕たちの足元に落とした。使い込まれたダークブラウンの木製家具と漆喰の壁。低い音量で流れるクラシック音楽の合間に、珈琲を淹れる器具の金属音が時折、店内に響いている。
案内されたテーブルの端は、長い年月を経て、わずかだが摩耗していた。
地元の年配の常連客が静かに新聞をめくっている。過度な喧騒のない空間だった。
今川さんは、席に着くと同時にピーコートを脱いだ。その下に着ていたのは、シンプルな白いセーターだった。ホテルの制服姿とは違い、どこか無防備で、彼女の細い輪郭がより強調されているように見える。
僕たちは、お昼も兼ねて、軽食のミックスサンドイッチと暖かいコーヒーを頼んだ。
「今日は楽しかった、ありがとう」
今川さんは、コーヒーカップをソーサーに置きながら言った。湯気の向こうにある彼女の瞳は、いつもより潤んでいるように見える。
「父親ともね、あまりうまくいってない状況で……ちょっと参っていたところだったの」
彼女の薄い唇から零れ出た言葉は、喫茶店の静寂の中に沈んでいく。
「この三か月くらい、大学でトップクラスの成績を維持して、留学資金を貯めつつ、英語の勉強もして……。交換留学生の最終面接の準備もして、本当に必死だったの。もう無理かも、って何度か思ったこともあったわ」
今川さんは、左側のヘアピンで抑えられた黒髪を、白く長い指先でそっとなぞった。
「底に沈みそうな時もあったけれど、坂井くんがいてくれたから、続けられたと思う」
彼女は視線を外したまま、ぽつりと言った。
「……それは良かった」
何と答えていいかわからず、僕はただ、努めて平穏な声を絞り出した。
「3月中旬に、交換留学生の最終発表があるんだっけ?」
「そう。でも、最終の面接試験自体は今月には終わるから」
それを聞いて、僕は心の中で安堵した。ここ最近の彼女には、隠しきれない疲労が滲んでいたからだ。
「うん。よく頑張った」
僕が言うと、今川さんの表情が、氷が解けるように柔らかく変化する。一瞬だけ、子供のようににっこりと微笑んだ。
しかし、彼女はすぐに視線を落とし、凛とした佇まいになる。
「坂井くんの状況はどうなの?」
「今年3月の半ばで、今のホテルの仕事を辞めようかと思っている。おそらく、別の仕事を探すことになると思う」
私立大学の夜間であれば確実に受かるという確信が、僕の中にはあった。すでに会社に対して、3月で退職する方向で話を始めていた。
今川さんの表情が、微かに固まったようだった。彼女の眉が、すっと中央に寄る。
水の入ったコップから、氷が崩れる音がした。
「すべり止めも受けているからね。さすがに今の仕事のまま、夜間大学に通うのは無理だから。ホテルのロビーラウンジは、夜が稼ぎ時だからね。勤務時間と、講義の時間がきれいに重なっているんだ」
「……ほぼ受かりそうなの?」
「大経大は確実に受かると思う。有難いことに、立地的にも市内で働きながら通える」
「そうなのね。……うん、よく頑張った」
彼女は、僕が先ほど彼女に告げたのと、全く同じ言葉を返してきた。
話すこともなくなり、しばらくの間、沈黙がテーブルの上に横たわった。もうそろそろ帰ろうか、と僕が切り出そうとした瞬間のことだった。
「変な風に取らないで聞いて欲しいのね」
今川さんは、どこか所在なさげに声を潜める。
「うん」
「これ、坂井くんだから言うんだけど……」
彼女の声が、ためらうように途切れた。
「私ね、他人を寄せ付けないように見えるかもしれないけれど、本当は恋もしたいと思っているの」
唐突な話に、僕はどう答えていいか分からなかった。今川さんは、こんな人だったのか? 急にどうしたのだろう、という戸惑いが生まれる。
「でも、今はこんな感じで、時間に余裕もないし、身なりにお金もかけられないから」
今川さんは、ヘアピンをしていない右側の、切りそろえられただけの黒髪を指先でそっと持ち上げた。その毛先を見つめる彼女の横顔には、どこかあどけない一面が覗いている。
だが、そう見えた一方で、彼女の瞳は、僕の反応を伺うようでもあった。
「そうかな? ……僕は、今川さんはとても輝いていると思うよ」
嘘偽りのない、僕の本心だった。
僕の言葉を受け、今川さんは、再び無邪気に口元を綻ばせた。
曖昧だけれど、彼女の心と少しだけ重なり合う時間を、僕は感じることができた気がした。
五章 一九九五年三月
冬が終わりに近づき、柔らかな風が梅田の街路樹を揺らし始めた三月の初旬。
僕の手元には二つの夜間大学からの合格通知が届いていた。
ひとつは想定していた私立大学の大阪経済大学。
そしてもうひとつは、神戸大学の経営学部の夜間コースだった。幸運なことに、国立であれば学費を大きく抑えられる。
『坂井くんは、とてももったいないわ』
『私は、自分の能力をきちんと発揮できる場所に行きたいと思うの』
半年近く前、彼女が放った言葉。あの彼女の言葉がなければ、もう少し自分を信じて、挑戦してみようとは思わなかった。
僕は予定通り三月中旬でこのラウンジを去ることを、休憩中の今川さんに伝えた。
「本当に!? 本当にそうなのね」
彼女の目が、大きく見開かれた。いつもは感情の起伏が小さい彼女の顔が、ぱっと輝いた。見つめる瞳の奥には、涙が浮かんでいる。
「本当に良かった……」
彼女はまるで自分のことのように喜んでくれた。まるで、何かに救われたかのようだった。僕の合格で、彼女の何かが変わるわけでもないのに。
その感情の弾け方を前にして、僕は戸惑いを感じた。本来の今川さんは、こんなにも表情の動く人だったんだな、と。
「坂井くん、すごいわ。フルタイムで働きながら……神大の経営の夜間コース。夜間大学としては、関西で最難関でしょう」
なぜ彼女がそんなことを知っているのか、不思議だった。きっと彼女のことだから、夜間コースについて、密かに調べてくれていたのだろう。
「本当におめでとう。やっぱり、坂井くんて、普通にしているようで、凄いことをサラッとやってしまう人なのよ」
「……ありがとう」
たいした努力もせず、中学時代に彼女より良い成績を取っていた。下手な謙遜は嫌味になるかもしれない。僕はただ短く応じることしかできなかった。
「そうだ、お祝いをしましょう」
不意に、彼女の口から思いがけない提案がこぼれ落ちた。
「いや、それは……」
僕は言葉を濁した。互いの状況が分かっていたからだ。僕には新生活の費用が、彼女には交換留学に向けた費用が必要だった。
僕のためらいを察したのか、彼女はわずかに口元を綻ばせた。
「言いたいことはわかるわ。そうね……私が五百円のケーキを二つ買っていくから、坂井くんの部屋でお祝いしましょう。嫌でなければ」
「ああ、そのくらいなら確かに。じゃあ、ちょっと良い飲み物を用意しておくよ」
そう答えたものの、僕には、彼女が何を考えているのか、よくわからなくなっていた。彼女は、付き合ってもいない男性の部屋に上がり込むような女性には見えなかったからだ。バイト中に、何度か客や同僚から声をかけられていたようだが、冷徹なまでに一線を引いていた。
彼女が僕のアパートを訪れたのは、互いのシフトの休みが重なった、その週の日曜日だった。
僕の部屋は、ほぼ寝るためだけに借りた場所だ。
人を招くことなど、これまで一度もなかった。部屋にあるのは、小型冷蔵庫とその上の電子レンジ、五着の服を収めたプラスチックの収納ケース、食事のための小さな丸テーブル、そしてコンパクトなCDラジカセとマクセルの数本のカセットテープ。
それ以外で場所を取っているのは、少しだけ無理をして買った立派なベッドだけだ。
僕は朝早くから起き出し、埃を払い、床を磨き上げた。
昼過ぎには掃除を終え、近くのコインランドリーへ向かった。ベッドのシーツやカーテンを大きな洗濯槽に放り込む。近いうちに引っ越すのだから、この機会に洗っておいた。
その後、梅田の百貨店まで足を伸ばし、フォションのアップルティーの茶葉を買い求めた。
午後三時。約束の時間ちょうどに、階段を上るかすかな足音が聞こえ、小さいノック音が響いた。
扉を開けると、梅田の地下街にあるケーキ屋の袋を提げた彼女が立っていた。
「いらっしゃい。散らかってはないけど、何もない部屋だよ」
「お邪魔します」
部屋に入った今川さんは、ピーコートを脱いだ。
僕は受け取ったコートを壁のハンガーにかける。
彼女は、黒のリブ編みタートルネックに、地味なロングスカートの組み合わせを着ていた。
リブ編みは、彼女の体のラインを浮き立たせている。僕は彼女に華奢なイメージを持っていたが、そうではないことを、今日の彼女の服は主張する。
「ごめんね、狭いから、こんな丸テーブルしかないんだ」
「ううん。古いと聞いてたから、もっと傷んだところを想像してたけれど、けっこう綺麗な部屋なのね」
「築十五年だからね。それを除けば、悪くはないよ」
彼女は小さく頷き、窮屈な丸テーブルの前にちょこんと座った。
僕は小さなコンロでお湯を沸かし、ティーポットに茶葉を入れる。甘く華やかな林檎の香りが、アパートの空気と混ざり合っていく。
「ほとんど物がないのね。でも、ベッドは立派だわ」
「寝るためだけの部屋だからね。ベッドだけは良いものにしておいたんだ」
安価なカップに紅茶を注ぎ、テーブルへと運ぶ。
「フォションね。わざわざ良いものを買ってくれたのね。気を遣わせちゃったかな」
彼女は、キッチンに置いてある紅茶の缶を見ながら言った。
「いや、また誰か来ることもあるだろうから、来客用にね」
彼女は何も言わず、持ってきた箱を開けた。中には、イチゴのショートケーキと、チョコレートケーキが並んでいる。
「好きなほうを選んで。坂井くんのお祝いだから」
僕はチョコレートケーキを選び、彼女はショートケーキを小さな皿に移した。ぽつりぽつりと、他愛のない会話を交わしながら、ゆっくりとケーキを食べていく。
「もう、神戸のほうの部屋は見つかったの?」
「三月末までは、ここの契約が残っているからね。それまでに探すつもりだよ」
「……ねえ」
彼女は紅茶のカップを見つめたまま、声音を一段低くした。
「もしもね、交換留学生に合格してたら、次は、私のお祝いして欲しい」
「もちろん」
僕が即答すると、彼女は安心したように微笑んだ。
ケーキを食べ終えると、今川さんは急に口数を減らし、丸テーブルに視線を落とした。彼女の左側の髪だけが、いつも通り安価なピンクのヘアピンで抑えられている。
「ずっと座ってたら、ちょっと足が痛くなっちゃった」
不意に、彼女は立ち上がった。そして、数歩だけ歩みを進め、ベッドの縁に静かに腰を下ろした。少しだけ上半身を後ろに倒し、両手をシーツにつく。
その動作によって、リブ編みの胸元が強調された。
「坂井くん、このベッド、ちょっとふわふわしてて気持ちいい」
彼女は笑いかけてきたが、その表情には微かに固いものがあった。
僕は言葉を返しあぐね、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。コインランドリーで洗いたての、清潔な柔軟剤の匂いがした。
彼女は、ヘアピンで留められていない右側の髪で表情を半分隠すようにして、深く俯いた。そして、そのままの姿勢で、そっと僕の方へと身体を傾けてきた。
すっぽりと腕の中に顔が収まる。
空いたほうの手で、その切りそろえられた髪を不器用に撫でた。そのまま指先を滑らせ、冷たい頬に触れる。
彼女の身体が、微かに震えているのが分かった。伝わってくる体温とは裏腹に、彼女は緊張し、少しこわばっている。
「あのね……」
かすれそうな声が、僕の鼓膜を打つ。
「父親がうるさくて、泊まれないんだけど……終電までは一緒にいられるから」
*
結局、彼女は本当に終電の時間が近づくまで、僕の部屋に留まった。
彼女が帰ってしまい、元の静けさを取り戻した部屋で、僕は冷え切った窓ガラスに額を押し当てていた。窓の外には、深夜の梅田の下町が、乾いた光の粒となって広がっている。
シーツには、微かに彼女の体温と、石鹸の匂いが残されていた。
ベッドの中でも、彼女は深い緊張を解こうとはしなかった。
僕が、彼女の左側を固く戒めているあのヘアピンに手を伸ばした時、彼女は何も言わず、指先で僕の手首をそっと掴み、その動きを制止した。
父親から譲り受けたルックスのおかげか、僕は何度かの経験があった。
だけど、十九歳でしかない僕は、心を完全に開いていない十九歳の女の子を、どう扱えばいいのかがわからなかった。
*
梅田のホテルラウンジでの勤務も、残すところ、あと僅かとなった。
四月からの新しい生活に向けた準備と、神戸での昼の職探しに追われながら、僕は午後四時から始まる遅番のシフトをこなした。
あの日以降、今川さんとは、よく電話するようになった。
父親の目が光る彼女の実家へこちらから連絡を入れることはできず、もっぱら、彼女から僕のアパートの固定電話に連絡が来るのを待つ関係だ。
ある日、出勤の準備を始めようとしていた矢先、彼女から思い詰めたような声で電話があった。
大学から交換留学生の合否を知らせる封筒が届いたという。
「怖くて一人で開けられない。一緒に開けてほしい」
受話器越しに、彼女の声が震えているのが伝わってくる。
明日は、僕のシフトの最終日であり、彼女も出勤の日だった。
「じゃあ、茨木で会おうか。ちょっと茨木に用事があってね」
しばらく顔を出していなかった府営団地へ寄り、母親に夜間大学の合格と神戸での暮らしを報告しておこうと考えた。母親には、まだ何も話していなかったからだ。
僕たちは早めの時間に茨木で落ち合い、そのまま二人で職場へ向かうことを約束した。もし時間が余れば、僕の部屋で、また紅茶でも飲んで時間を潰せばいい。
翌日、淀んだ空気が漂う団地の一室で母親への短い報告を済ませた後、僕は元茨木川緑地の遊歩道へと歩みを進めた。
午後一時の、暖かさを帯び始めた春の空気が通り抜けていく。
そこは昨年の十二月、彼女がロードバイクの留学生に魅せられた原体験と、現実的な未来への考えを語ってくれた場所だった。
あの日、偶然に駅近くで彼女を見かけていなければ、僕に対する彼女の透明で強固な膜は、今も存在し続けていたかもしれない。
初春とはいえ、まだいくらか肌寒い。葉を落としたままの街路樹が、遊歩道の両側に続いていた。
待ち合わせ場所に佇む彼女は、見慣れた姿だった。
濃紺のダッフルコートに、少ない化粧気。淡い色のヘアピンで左側の髪だけが抑えられている。
「とりあえず、近くのベンチに座ろうか」
僕らは、遊歩道を並んで歩いた。靴底が地面を擦る音が、静寂の中に吸い込まれて消える。
ベンチに腰を下ろすと、彼女は鞄の底から一通の茶封筒を取り出した。表には『大阪大学』という朱色の印字が記載されている。
「……怖くて、開けられなかった」
差し出されたそれを受け取った瞬間、僕は重みと厚さを感じた。不合格であれば、薄い紙がただ一枚入っているだけのはずだ。
「坂井くんが、開けて欲しい」
僕は、前日に準備しておいた簡易カッターを鞄の中から取り出した。
中身を傷つけないよう、糊付けされた縁にカッターを滑らせる。数枚の束を引き出す際に、かすかな摩擦音が立った。
『交換留学生内定通知書』
僕がその文字を静かな声で読み上げた、次の瞬間だった。
彼女の顔が歪み、瞳から大粒の水滴がこぼれ落ちた。ここが遊歩道脇のベンチであることを忘れたのか、彼女は僕の胸に顔を押し当てた。
何ヶ月もの間、限界まで張り詰めていた糸がぷつりと切れたのだろう。彼女は子供のように泣き崩れた。
彼女は、僕のシャツをきつく握りしめ、額を強く僕の胸に押し付ける。その拍子に、彼女の左側を抑えていたヘアピンが滑り落ち、乾いた土の上に転がった。
堰を切ったような嗚咽が、僕の胸元に響き続ける。
僕はただ、震える彼女の背中を静かに撫でることしかできなかった。
しばらくして、呼吸を整えた彼女は鞄をまさぐり、涙を拭うためのハンカチを取り出した。
フェイラーのハンカチだった――。
いまの彼女が自分で買えるはずもなく、実家で母親から持たされたものだろう。それで目元を覆い、しゃくりあげるようにして水分を吸い取らせる。
「ありがとう……坂井くんがいてくれたから、私、なんとか持ち堪えられた」
「今川さんが頑張ったからだよ。そのことは僕が知ってる」
彼女の涙腺は、再び緩み始めた。
「今度は、僕がお祝いしないとね」
僕は言ったが、同時に現実に引き戻される感覚を覚えた。
ドイツ製の高級なハンカチ――。それが、彼女に相応しい本来の持ち物なのだ。
半年後の九月、彼女は海を渡る。
そして三年後には、彼女にふさわしい企業に就職し、いま僕が働くような、華やかなホテルのロビーラウンジで、ソファに客として座るようになる。
そのとき、僕はどこで何をしているのだろう。夜間大学の無機質な蛍光灯の下で、古くなったノートを開いているのかもしれない。
胸の奥底に、ざらりとした異物が湧き上がる。
それでも僕は、腕の中で泣きじゃくる細い肩を、今はただ抱きしめた。
三十分近い時間が流れただろうか。ようやく落ち着きを取り戻した彼女は、抱きついた状態のまま、わずかに顔を上げた。
「ごめんなさい。おかげで、少し落ち着いたみたい」
ヘアピンを失い、完全に解き放たれた彼女の髪が、両肩に柔らかく落ちている。その無防備な輪郭は、ひどく幼い少女のように見えた。
時折、遊歩道を行き交う人々の視線がこちらを掠めていく。
それでも彼女は離れようとせず、僕の服を掴んだままだった。濡れた睫毛を瞬かせ、彼女は鼻を小さく鳴らして笑う。
「受かっちゃった。しかも、坂井くんに褒めてもらえる」
彼女の擦れた声には、甘えるような響きが混ざっていた。
こんなにも感情の振れ幅が大きく、脆い部分を持つ人だったのだ。それを心の奥底に隠し、崩れ落ちそうになる自分を支えながら、今日まで踏ん張り続けてきたのだろう。
今は、未来のことなどどうでもよかった。
いつか互いの軌道が遠く離れていくのだとしても、いまこの腕の中に存在する確かな彼女の温もりがあれば――。
「いま、何考えたか当てようか?」
涙の痕が残る瞳が、僕の目をまっすぐに見つめてくる。
言葉を探して躊躇う僕に、彼女は穏やかな微笑みを向けた。
「きっと、私と同じことよ」
背伸びをするようにして、彼女の細い腕が、僕の首筋に回される。
春の気配を含んだ陽光が、僕らの影をアスファルトに長く伸ばしていた。今この瞬間だけは、その影は、一つに重なり合っている。
僕は、そっと彼女に口づけをした。
再び額を僕の胸に当てた彼女から、くぐもった声が漏れる。
「ねえ、坂井くん、知ってた?」
彼女の唐突な問いに、僕は小さく首を傾げる。
「私、中学一年生のときから、ずっとあなたのこと見ていたのよ」
「……それは、思いもしなかったよ」
過去の記憶をどれだけ遡っても、彼女が僕に特別な感情を抱くような出来事は見当たらなかったからだ。それに、中学時代、今川さんは僕を遠ざけるようにしていた。
「何か、きっかけがあったんだっけ?」
「……顔。それと身長」
淀みない彼女の言葉に、僕は何も言えなくなった。それは、いまはどこにいるかもわからない、父親から受け継いだものだ。
「……でも、今は全部好き」
欺瞞の優しさを含んだ彼女の声が、僕の鼓膜を打つ。
僕は気づいた。
彼女は、自分の記憶をすり替えたのだ。中学時代、家庭環境の良くない僕と接点を作ることは、徹底して避けていた。自分の過去を改竄することで、十月の再会以降の自身の気持ちの変化を、『純粋な恋物語』に仕立てているのではないか。
それに、今川さんは「でも、今は全部好き」と言った。これは僕の父親に対する、今は枯渇してしまった葛藤も含むのだろうか。恨んでないと言えば嘘になるが、確かに父に対しては、もう大きな負の感情を持っていない。
「顔と身長」、「今は全部好き」。
この二つのフレーズで、彼女は僕を精一杯褒めたつもりなのだろう。
だがその二つは、僕の深い部分を知ろうとしてくれる人ならば、無意識にでも避けるはずのものだ。なぜ、賢明で知性の高い彼女は、平然と、それを褒め言葉と考えたのか。
彼女は、僕の表面的なところしか見ていない――。
容姿、両親との疎遠な関係、都合の良さ、そして逆境を乗り越えようとするタフさ。神大の経営に受かったことで、将来性もある程度考慮したのかもしれない。おそらく彼女は、無意識のうちに、自分と釣り合う相手かを見定めようとしている。
それが、彼女の見ている僕の姿だ。しかし、今川さんが本来の世界に戻ったら、僕なんか比較対象にもならない人間が周囲に溢れるはずだ。
四月から始まる、生活のずれ――。
そして、その先に待つ不安――。
ふと、空を見上げる。どこまでも透き通った青色が広がっていた。
その完全な青さの中に、ただ一筋の白い航跡が真っ直ぐに伸びている。
いずれは風に流され、消えてなくなることが定められている儚い白さ。
だけど、今日というこの日の風景は、僕の瞳の奥に、フィルムのように焼き付いた。
あの美しい航跡のような、僕らの季節が始まるとするならば、きっとこれからなのだろう。
【完】
