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鴨川デルタの暗号|第一章 五月の鴨川デルタ

五月の鴨川は、人を油断させる。

川沿いの風は柔らかく、芝生には学生たちが座り込み、コンビニ袋を広げて笑っている。飛び石の上では、観光客が順番待ちをしながら写真を撮っていた。

京都の町は、昔から「水」でできている。

そう話していた父の声を、雨宮澪はときどき思い出す。

川を見るたびに。


澪は文庫本から顔を上げた。

対岸で、小さな歓声が起きている。

「なんやあれ」

「誰か描いたんちゃう?」

「映えやん」

女子高生らしい声だった。

澪は栞を挟み、ベンチから立ち上がった。

飛び石の中央付近に、人だかりができている。

近づくと、石の表面に白い線が描かれていた。

落書きにしては妙だった。

幾何学的。直線と曲線が混ざっている。しかも、妙に均整が取れていた。

スマホを向けている男がいる。

「TikTok用に撮っとこ」

その横で、外国人観光客の女性が不思議そうに首を傾げていた。

澪は石を見つめた。

白線は三つ。

半円。

斜線。

点。

ただ、それだけ。

なのに妙な違和感がある。

「知ってる?」

後ろから声がした。

振り返ると、榊悠真が立っていた。

ペットボトルの炭酸水を片手に持っている。

「また考え込んでる顔してる」

「別に」

「いや、してる。完全に」

悠真は飛び石へ降りた。

「なんやこれ。アート?」

澪は答えなかった。

石の縁にしゃがみ込む。

指先で線をなぞる。

チョークではない。

塗料に近い。

しかも、水に濡れても完全には消えていない。

「……測量記号に似てる」

「そくりょう?」

「昔の河川工事とかで使う印」

悠真の眉が少し動いた。

彼は工学部土木工学科だ。

そういう単語には反応する。

「でも、ちょっと変だな」

「何が?」

「位置」

澪は立ち上がり、周囲を見渡した。

鴨川デルタ。

賀茂川と高野川が合流する場所。

昔から水害を繰り返してきた土地だ。

だから京都の人間は、水位に敏感だった。

「この石、普段はもう少し水の下」

悠真が川を見た。

「ああ、昨日まで雨少なかったしな」

「でも今日しか見えない位置に描く意味ある?」

悠真は返事をしなかった。

代わりにスマホを取り出し、写真を撮る。

「SNS行きやな」

「やめなよ」

「もう遅い」

画面を見せられる。

すでに投稿されていた。

#鴨川デルタの暗号

再生数は、数十分で五千を超えている。

澪は小さく息を吐いた。

京都は閉じた町に見える。

だが本当は逆だ。

観光客。

留学生。

動画。

SNS。

外から流れ込んでくる情報で、常に形を変えている。

川と同じだ。


「雨宮さん?」

突然、横から英語で声をかけられた。

振り向くと、金髪の青年が立っていた。

大学で見たことがある顔だった。

「……ルイ?」

「やっぱり。考古学の授業、一緒ですよね」

フランス人留学生だった。

日本語はかなり流暢だ。

ルイは飛び石を指差した。

「これ、面白いですね」

「そう?」

「ええ。特に、この形」

彼はスマホ画面を拡大した。

「フランスで似た記号を見たことがあります」

澪の視線が止まる。

「どこで?」

「古い運河施設の図面です」

悠真が口を挟んだ。

「運河?」

「はい。十九世紀の」

澪は飛び石をもう一度見た。

風が吹く。

川面が揺れる。

白線が、水の反射でわずかに歪んで見えた。

その瞬間だった。

澪の脳裏で、何かが繋がる。

運河。

測量記号。

水位。

京都。


「……まさか」

「え?」

「これ、遊びじゃないかもしれない」

悠真が笑った。

「始まった。名探偵モード」

澪は無視した。

石の位置を確認する。

飛び石は完全な直線ではない。

微妙にずれて配置されている。

昔、不思議に思ったことがある。

なぜ均等に並べないのか。

だが今、別の可能性が頭をよぎった。

もしこれが。

単なる飛び石ではなく。

“何かを示す座標”だとしたら。


その夜。

澪は大学近くのアパートへ戻っていた。

六畳一間。

古い木造。

窓を開けると、遠くで救急車の音が聞こえる。

机にはノートPCと、積み上がった文献。

壁には京都古地図のコピーが貼られていた。

澪は昼間の写真を拡大する。

記号をトレース。

回転。

反転。

だが意味は見えない。

スマホが震えた。

悠真からだった。

【もう十万再生いってる】

続けてURL。

動画配信者が現地検証を始めていた。

コメント欄には、

「宝の地図?」

「地下通路ある説」

「京都怖すぎ」

と並んでいる。

澪は画面を閉じた。

そして、ふと机の端に視線を向ける。

古い大学ノートが置かれていた。

父のものだ。

失踪後、研究室から返却された遺品。

何度も読み返した。

意味不明な記述ばかりだった。

だが最近になって、少しだけ分かる。

父は“京都の地下水路”を調べていた。

澪はノートを開いた。

ページをめくる。

水位観測。

疏水。

地下空洞。

その中に、一つだけ赤線で囲まれた単語がある。

——デルタ。

澪の指が止まった。

その瞬間。

スマホが再び震えた。

今度は非通知。

数秒迷い、通話を取る。

無音。

ノイズだけが聞こえる。

ザーッという、水音に似た音。

「……もしもし?」

返事はない。

だが微かに、男の呼吸音が混じった。

そして。

低い声。

「……見るな」

通信は切れた。

部屋が静かになる。

窓の外で、風が揺れていた。

澪はしばらく動かなかった。

やがて机の写真へ目を戻す。

鴨川デルタの飛び石。

白い記号。

そして父のノート。

偶然にしては、出来すぎている。

澪はノートPCを開いた。

京都市河川図。

明治期鴨川改修図。

琵琶湖疏水経路図。

次々に画面へ並べていく。

外では、五月の鴨川が静かに流れていた。

まるで何も知らないふりをするように。


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