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鴨川デルタの暗号|第九章 暗号の完成

南禅寺へ戻る地下鉄の中で、澪は一言も話さなかった。

悠真も黙っていた。

スマホの画面には、嵐山で撮った写真が残っている。

午後三時十三分。

渡月橋の影。

水面に現れた文字。

《水止めの南》

偶然ではない。

誰かが、時間と水位と光を組み合わせて、そこにだけ現れる地図を作った。

紙の地図は燃える。

データは消される。

だが、川と影と時間は消せない。

それが、この暗号の本質だった。

 

蹴上駅を出ると、夕方の空気が冷えていた。

観光客はまだ多い。

南禅寺へ向かう道には、カメラを持った人々が歩いている。

彼らは赤煉瓦の水路閣を見に来たのだ。

美しいから。

京都らしいから。

けれど澪には、あの煉瓦が別のものに見えた。

過去を隠す蓋。

そして、未来へ続く扉。

 

「教授、もう来てると思うか」

悠真が言った。

「たぶん」

「鍵持ってたしな」

「うん」

澪は歩調を速めた。

悠真が追いつく。

「無茶はするなよ」

「分かってる」

「絶対分かってへんやつや、それ」

澪は少しだけ笑った。

その軽口に救われた。

怖さは消えない。

だが、横に誰かがいるだけで、足は止まりにくくなる。

 

水路閣の下へ着くと、人影は少なかった。

昼間の観光地の顔は薄れ、赤煉瓦のアーチに夕闇が入り込んでいた。

水の音がする。

上を流れる疏水の音。

静かで、重い。

澪は昨日ルイが倒れていた場所を見た。

血の跡は消えている。

何事もなかったように。

京都は、そういう町だ。

人の小さな事件など、千年の時間がすぐに飲み込んでしまう。

 

「ここや」

悠真が水路閣の南側へ回った。

嵐山の暗号が示した方向。

《水止めの南》

水路閣の南端には、観光客がほとんど来ない石段があった。

苔むした石。

古い柵。

その奥に、小さな管理用の通路らしき場所がある。

澪は足元を見た。

土が少し崩れている。

新しい靴跡。

「教授だ」

「急ごう」

二人は通路へ入った。

狭い。

木の根が張り出し、湿った匂いが濃くなる。

奥へ進むと、古い石積みの壁が現れた。

そこに鉄扉がある。

大学の資料室で見た扉と似ていた。

だが、こちらの方が古い。

そして鍵穴の周囲だけが、磨かれている。

最近、何度も使われた跡だった。

 

「開いてる」

悠真が言った。

扉はわずかに隙間を作っていた。

澪は手を伸ばした。

冷たい。

重い。

音を立てないように押す。

ぎい、と低い音がした。

中は暗かった。

水の匂い。

石の匂い。

古い空気。

悠真がスマホのライトをつける。

通路が続いている。

低い天井。

足元には細い水路。

その横に、人が一人通れる幅の石畳。

「ほんまにあったな」

悠真の声は小さかった。

澪は頷いた。

胸の奥で、何かが震えている。

恐怖ではない。

確信に近い。

父はここを歩いた。

十五年前、この暗い水路を。

 

通路の壁には、白い印があった。

三角形の中央に一本線。

閉鎖水路の印。

その横に、薄く数字。

三一三。

「三時十三分」

悠真が言った。

「やっぱり、あの数字は時間だった」

澪は壁に触れた。

指に白い粉がつく。

古い石灰。

最近描かれたものではない。

「これは新しい記号じゃない」

「昔からある?」

「うん」

鴨川の飛び石に描かれた記号は、この古い印を再現したものだった。

つまり、誰かはこの水路の存在を知っていた。

そして、現代の人間にも読める形で、暗号を“再起動”させた。

 

奥から声が聞こえた。

低い男の声。

教授だった。

「……ここまで来たか」

澪と悠真は足を止めた。

水路の曲がり角の向こうに、光が漏れている。

「先生」

澪が呼んだ。

返事はない。

二人はゆっくり進んだ。

曲がり角を抜けると、少し広い空間に出た。

石造りの小部屋。

中央に古い水門がある。

木と鉄でできた小さな扉。

その前に教授が立っていた。

手には、例の古い鍵。

「帰りなさい」

教授は言った。

「ここから先は、本当に危険だ」

「ルイを襲ったのは先生ですか」

澪が聞いた。

教授の眉が動いた。

「違う」

「では誰ですか」

「私にも分からない」

「信じろと?」

「信じなくていい。だが、入るな」

悠真が前に出た。

「先生、ここに何があるんですか」

教授は水門を見た。

「保管庫だ」

「文化財の?」

「そうだ」

澪は息を吸った。

「父は、ここを見つけたんですね」

教授の顔が歪んだ。

「君の父は、見つけすぎた」

「どういう意味ですか」

「文化財だけではない」

その言葉で、空気が変わった。

水の音が、急に大きく聞こえた。

 

「お父さんは、保管庫の記録が改ざんされていることに気づいた」

教授は言った。

「戦後、一部の文化財が戻されていなかった。消えた品があった」

「誰が?」

「分からない。だが、関係者は複数いた」

「先生も?」

教授は目を閉じた。

「私は、止められなかった」

否定ではなかった。

それだけで十分だった。

 

その時、水路の奥で金属音がした。

三人が振り返る。

暗闇の中に、人影。

帽子を深く被った人物。

第1章から澪を見ていた人物だった。

左手にライト。

手首には赤い紐。

中国結び。

「あなたは……」

人物は答えなかった。

代わりに、壁を照らした。

そこに、古い文字が刻まれている。

《蔵は水が眠る時に開く》

悠真が呟いた。

「水が眠る……水が止まるってことか」

澪は水門を見た。

水は細く流れている。

だが一定の間隔で、音が弱くなる。

止まりかける瞬間がある。

「水位差で開く仕組み」

澪が言った。

「嵐山の観測点は、その時間を知るため」

教授が驚いた顔で澪を見る。

「そこまで読んだのか」

「鴨川デルタは水位計。嵐山は観測点。三時十三分は基準時刻。でも今日の雨で、水位はずれている」

悠真がすぐにスマホを開く。

「今の疏水の流量データは……公開されてへん」

「でも音で分かる」

澪は目を閉じた。

水音。

細い流れ。

石に当たる響き。

父が教えてくれた。

水は嘘をつかない。

人間より、ずっと正直だ。

 

音が弱くなる。

一拍。

二拍。

沈黙に近い瞬間。

「今」

澪が言った。

帽子の人物が動いた。

教授より早く、水門の横の金具を押す。

がこん、と鈍い音。

水門がわずかに開いた。

冷たい空気が流れ出す。

奥に、暗い空間が見えた。

保管庫。

 

教授が叫んだ。

「やめろ!」

帽子の人物は振り返った。

その顔が、ライトに照らされる。

若い女性だった。

澪と同じくらいの年齢。

だが目だけが、大人びていた。

「もう隠せない」

女性は初めて声を出した。

「隠したから、失われたんです」

澪はその声を聞いた。

非通知の男の声とは違う。

つまり、脅迫電話の人物は別にいる。

謎は一つ解けたが、別の謎が残った。

 

女性は水門の奥へ入ろうとした。

その瞬間、天井から砂が落ちた。

古い煉瓦がきしむ。

悠真が叫ぶ。

「危ない!」

水路全体が小さく揺れた。

教授が顔色を変える。

「だから言ったんだ。ここは持たない」

澪は奥を見た。

保管庫の入口。

その壁に、父の筆跡があった。

小さく刻まれた文字。

《A.A. 2009》

雨宮秋人。

父のイニシャル。

澪の足が一歩前に出る。

悠真が腕を掴んだ。

「澪、だめや」

「でも」

「今はだめや」

その声は、いつもの軽い声ではなかった。

澪は振り返る。

悠真の顔は真剣だった。

怖がっている。

でも、自分のためではない。

澪のために。

その事実が、胸の奥に重く落ちた。

 

奥で、何かが光った。

木箱。

古い布。

金属の飾り。

本当に文化財がある。

だが、取りに行けば崩れる。

真実は目の前にあるのに、触れられない。

それは、失踪した父と同じだった。

 

帽子の女性が、澪を見た。

「あなたなら読めると思った」

「あなたが暗号を?」

女性は頷いた。

「鴨川に描いた。SNSに流した。隠され続けるより、多くの人に見られた方が安全だから」

「なぜ私を巻き込んだの」

女性は教授を見た。

「あなたのお父さんが、最後に信じた人の娘だから」

教授の顔が青ざめる。

澪は教授を見た。

「最後に信じた人?」

教授は答えない。

その沈黙で、澪は理解した。

父は教授を信じた。

そして消えた。

 

水門の奥から、さらに低い音がした。

崩落の前兆。

悠真が叫ぶ。

「出るぞ!」

教授も頷いた。

帽子の女性は悔しそうに奥を見る。

澪は最後に一度だけ、父のイニシャルを見た。

今は行けない。

でも、必ず戻る。

そう心の中で告げた。

 

外へ出ると、夜の空気が肺に入った。

南禅寺の木々が風に揺れている。

観光客の声はもう遠い。

水路閣の上では、何事もなかったように水が流れていた。

帽子の女性は姿を消していた。

教授は石段に座り込み、顔を両手で覆っている。

澪はスマホを取り出した。

写真が一枚届いていた。

差出人不明。

写っていたのは、保管庫内部の木箱。

その蓋に貼られた古い紙。

そこには、こう書かれていた。

《返還済》

だが写真の隅には、空の棚が映っていた。

澪は画面を見つめた。

文化財は守られていたのではない。

一部は、すでに消えていた。

暗号は完成した。

だが、本当の事件は、ここから始まる。


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