大谷選手の息子
「大谷の子供、男の子だって」
朝、妻が新聞を読みながら言う。大谷翔平選手の第二子は男児だったことを僕に教えてくれる。僕も後で新聞読むからいらない情報なのだけど。
「大谷がお父さんだったら嫌だろうな」と僕が言う。
「そうだね」と妻が新聞から目を上げずに言う。
大谷が自分のお父さんだったらどんなだろう。
「野球はやるのかな?」
「やめたほうがいいんじゃない。一茂の例もあるしね」
「バスケットとかやって欲しいな」
「アメフトとかもいいんじゃないか」
「運動はできるだろうねぇ」
「運動できなかったらつらいだろうね」
「でも、子どもってどう育つかわからないしね」
「たしかに」
じつに勝手で余計で失礼極まりない話だ。
大谷選手のファンと長嶋一茂さんファンからの苦情が来るのは避けられないな。
昔、クラスにとても元気のいい女子生徒がいた。いつも笑顔で、おしゃべりな小猿みたいな生徒。勉強が大嫌いで、クラスのお笑い担当。悩みなき脳天気娘だ。
3年生の夏、今頃のことだ。
「先生、話があるんです。聞いてくれますか?」
いつものニコニコでやって来た。
悩みとは無縁の生徒だと思っていた。
「お父さんが先週、血を吐いて入院したんです」
笑顔から急に真顔になって話し出す。
父親の容態は悪く、死んでしまうかもしれないということだった。
「マジか、ショックだなぁ、それは。つらいな…」
言葉を失う僕。
「悲しくないんです」
涙を浮かべた目で彼女は僕を見る。
「お父さんが血を吐いて死にそうなのに、私は少しも悲しくないんです。ぜんぜん悲しくないんです。
その時、死んでしまえばいいのにって思っちゃったんです。嫌いなんです、お父さんのことが。いなくなっちゃえばいいって思ったんです。でも、そんな自分が嫌…」
お父さんへの不満を話し泣き始め、いっぱい悪口を言って自分を責めて、泣き続けた。
喋るだけ喋って、泣くだけ泣いて、生徒はいつもの笑顔を少しだけ取り戻して教室に戻った。
僕はその時、何を言えばいいのか分からなかった。ありきたりなことは言ったけど、彼女の心に届いたとは到底思えない。
何を言えばいいのか、何をしてあげれば良かったのか、今も正解がわからない。
親子関係は僕たち教師にはどうすることもできない壁だ。踏み込めないし、踏み込んじゃいけない壁。
歯がゆい壁だ。
大谷翔平の子供が、僕のところに悩みを相談に来ても、僕は何も言えない。
でも話を聞くことはできる。
悩みがあったらいつでもおいで、大谷君。

