【短編】鉄の鳥 ― 数十年前の事故と、二度繰り返された殺意の記録。
自分を守るために、誰かの叫びを塗りつぶしてしまったこと、ありませんか…?
ある明け方、夢をみました。
ひどく悲しい夢でした。
その悲しみは、自分自身のものではありませんでした。
でも、それがなおのこと深い悲しみとなり、物語になりました。
「また鳥が来たぞ」
街の誰かが、吐き捨てるようにそう言った。
「これで、3日も連続だぞ」
見上げる夜空には、月に照らされて鈍色の光を放つ巨大な影。
自由を象徴する、羽ばたきなどそこにはない。
ただ、冷たく重い鉄の塊が、空気を切り裂く。
軋んだ音を響かせながら、ゆっくりと円を描いている。
それはまるで、
この世界のどこかで虐げられ、声を無くした者たちの
悲しみが集まって、形を成した姿だった。
街の人々は、最初は震え上がり、神に祈り、あるいは武器を構えた。
けれど、鳥がただ旋回し、何もせずに去っていくことが分かると、
恐怖はいつしか退屈な日常へと変わっていった。
「またか」
「いつまで続くんだ」
そんな無関心な声が、石畳の道に転がっている。
けれど、群衆の中に一人だけ、その旋回の意味を知る青年がいた。
彼は知っていた。あの鳥がどれほど切実な重みを背負っているか。
あれはただ飛んでいるのではない。
行き場のない暗闇を抱えて、かろうじて宙に浮いているのだ。
そして、その日は近づいていた…。
街の住人たちの多くは、かつて海の底深く、暗闇の中で石炭を掘り続けていた元炭鉱夫たちだった。
彼らの節くれ立った手や、深く刻まれた眉間の皺には、
かつての過酷な労働の記憶が染み付いている。
しかし、陽の光の下で手に入れた平穏は、彼らから過去の痛みを忘れさせた。
「また鳥が来たぞ」
酒場で、あるいは軒先で、
彼らは空を見上げることさえせずにそう呟く。
鉄の鳥が、
世界のどの果てから飛び立ち、
どの奈落へ帰っていくのか。
それを知る者は誰もいないし、知ろうとする者もいなかった。
ただ、あの青年だけが、鳥の旋回に、自分たちの
「置き去りにしてきた叫び」
を確かに聞いていた。
鳥はいつしか、悲痛な声で鳴くようになった。
それはとても耐えられないような、悲痛な鳴き声だった。
ギィィ……と、錆びついた時間が悲鳴を上げているようなその音は、
もはや金属の摩擦音などではなかった。
鳥はただ、溜まりすぎた悲しみを吐き出しているだけなのに、
その声は街の石壁に共鳴し、人々の鼓膜を震わせ、
閉ざしたはずの記憶の蓋を無理やりこじ開けていく。
「うるさい! 静かにさせろ!」
「縁起が悪い、あんな声を聞いていたら気が狂ってしまう!」
人々は毛布を頭から被り、必死に耳を塞いだ。
鳥が自分たちを傷つけないことは知っている。
けれど、その「声」に込められた痛みだけは、どんな盾を使っても防ぐことができなかった。
鳴き声に耐えかねた街の人々は、まずその声をかき消そうと躍起になった。
広場で大音量の音楽を鳴らし、 酒を煽り、狂ったように踊り明かして、耳に届く悲鳴を塗りつぶした。
それでもなお、石壁を震わせて染み込んでくる悲痛な音に、
人々の焦燥はついに殺意へと変わった。
「あの化け物を黙らせろ!」
怒号と共に、旧式の大砲が火を噴いた。
放たれた砲弾は、旋回していた鉄の鳥の翼を無残に砕き、鈍い金属音を夜空に響かせた。
鳥は、バランスを崩して大きくよろめき、
その鳴き声はさらに凄惨な絶叫へと変わった。
その狂乱の渦中で、青年だけが武器も持たず、降り注ぐ絶叫を全身で受け止めていた。
「もう、限界なんだ……」
青年の呟きは、銃声と怒号にかき消され、誰にも届くことはなかった。
剥がれ落ちる錆の欠片は、まるで鉄の血が流れているようだった。
攻撃を浴び、ボロボロになった鳥を見て、
青年は激しい怒りと絶望に震え、群衆に向かって叫んだ。
「お前らのせいだ! お前たちは、取り返しのつかない過ちを犯したんだ!」
その声は、祝杯をあげようとしていた街の人たちの動きを凍りつかせた。
青年が指さす先、空飛ぶ悲しみの塊は、
自らの重みと受けた傷に耐えきれず、ゆっくりと、
けれど確実に、死へと向かって崩壊を始めていた。
鳥が街を離れ、小高い丘へと向かう。
そこは、かつて炭鉱から運び出された不要な石が積み上げられた、いわば世界の「残り滓」が眠る場所だ。
ドスン、という重苦しい響きとともに、鉄の鳥が降り立つ。
その日から、鳥は二度と空へは戻らなかった。
鳥は、ゆっくりと、恐ろしいほど長い時間をかけて朽ちていった。
海から吹く塩気を含んだ風が、鉄の表皮を容赦なく蝕んでいく。
かつて銀色に鈍く光っていた翼は、瞬く間に赤茶けた錆に覆われ、剥がれ落ち、土に混じっていった。
丘の下では、元炭鉱夫の住人たちが、朝な夕なに空を見上げる習慣を失いつつあった。
「もう来ないな」
「ようやく静かになった」
その時だった。
「お前らのせいだ!…」
青年の叫びが、夕闇を切り裂いた。
「何を殺したか、わかってるのか…!」
彼は丘の上に立ち、街の灯りに向かって、喉が焼けるほどに怒り狂った。
「お前らだって知っていたはずだ!
あの鳥が、俺たちが切り捨ててきた悲しみの塊だってことを!」
青年の拳は震え、瞳からは抑えきれない涙が溢れていた。
激しい呼吸に合わせて、
その胸元で小さなシルバーのネックレスが、鈍く光りながら揺れている。
そのあまりの激しさに、
家々の窓から顔を出した住人たちは、一瞬だけ言葉を失い、
気まずそうに視線を落とした。
自分たちの節くれ立った手を見つめ、
かつての暗い穴の中を思い出し、
ほんのわずかな間だけ、胸の奥をチリリと焼くような
反省の念に駆られた。
けれど。
夜が明け、太陽が昇れば、すべてはまた元の場所へ戻っていく。
「あいつ、少し頭がおかしくなったんじゃないか」
「まあ、鳥がいなくなったんだ。めでたいことじゃないか」
街の人々は、昨日の反省など朝食のパンと一緒に飲み込んでしまった。
丘の上では、鉄の鳥は最後には形を失い、ただの茶色い土へと還っていった。
そこに何かがあったことさえ、
もう、誰も覚えていない。
数十年後
【地方局のインタビュー】
「……ああ、あの事故のことですか。
もう、覚えている人間も私くらいでしょう」
老人は、かつて自分が叫び声を上げた丘から、
今は平坦な住宅地が広がる元炭鉱の跡地を見下ろしていた。
テレビカメラのライトが、彼の深い皺を無情に照らし出す。
その老いた胸元には、
全体の佇まいにはおよそ不釣り合いな、
小さなシルバーのネックレスが静かに収まっていた。
「三号坑道でした。爆発が起きて、奥で火災が続いた。
まだ生存者の信号は届いていたんですよ。
壁を叩く音が、地上まで響いていた。
……でも、会社も、
そして何よりここに住んでいた私たちも、
火を止めるために坑道を封鎖することを選んだ。
空気を遮断して、丸ごと埋めたんです。
自分たちの明日を守るために、仲間を見殺しにしたんだ」
キャスターが言葉を失い、マイクを持つ手がわずかに震える。
「それからですよ。風が吹くたびに、
地面の底からすすり泣くような音が聞こえ始めたのは。
……みんな、狂いそうだった。
だから、その音を打ち消すために、空を飛ぶ『何か』のせいにした。
あれは鳥だ、化け物だ、だから撃ち落としてしまえ、
ってね。
そうやって、自分たちは、
仲間を、二度殺したんだ」
老人はふっと視線を逸らし、空を見上げた。
そこにはもう、錆びた鉄の影も、悲痛な鳴き声もない。
「取り返しのつかない過ちを犯したんだ。…私たちは。
……でもね、
一番恐ろしいのは、
そのあとのパンが、驚くほど美味かったことですよ。
邪魔な音が消えた後の飯は、本当に美味かった。
……あんたたちも、いつか分かりますよ。
自分の幸せのために、誰かを踏みつけた時の、あの喉越しの良さが……」
────
「……ええと、現場からは以上です。スタジオにお返しします」
画面が切り替わり、明るい音楽とともに「明日の天気」が流れ始めた…。



あとがき
本作をお読みいただき、ありがとうございました。
私たちは日々、
多くの「見たくないもの」や「聴きたくない声」に蓋をして生きているのかもしれません。
そんな、日常のすぐ裏側にある「純粋な狂気」
を形にしてみました。
私たちの食事が、
穏やかなものでありますよう、
願って。
―― 制作の裏舞台へ。
【短編】鉄の鳥、の制作秘話です
