25.辛淑玉自伝『せっちゃんのごちそう』の万引きシーンを検証する—アイデンティティ操作と自己免責の語り
【要旨】 辛淑玉氏の自伝における幼少期の万引き回想を検証する。本エピソードの最大の問題は、窃盗という犯罪行為への倫理的反省が一切なく、問題が「朝鮮名がバレた失敗」へと完全にすり替えられている点にある。行為時には「日本名」を戦略的に利用しようと目論みながら、語りの段階では「差別」を盾に自己を免責する。このアイデンティティを選択的に操作し、被害者を不在にしたまま武勇伝化する語りの構造は、対話のルールを軽視する彼女の特異な精神構造を象徴している。
はじめに
活動家・辛淑玉氏の原点を知るうえで、自伝『せっちゃんのごちそう』に記されたあるエピソードは見過ごせない。それは、彼女が八歳の時に行った「万引き」の回想である。一般に、幼少期の過ちは成長後の反省とともに語られるものだが、彼女の語り口はそれとは一線を画している。そこには、自身の犯罪を「民族の問題」へと即座にすり替え、責任の所在を曖昧にする彼女特有のロジックが萌芽として現れている。まずは、その衝撃的な記述を引用したい。
>遠足と高級菓子(8歳)
しばらくすると、今度はお姉ちゃんが遠足に行くという。お菓子を持てずに遠足に行くのは可哀想だと思った。だから、ドロボウをする決心をした。高円寺の商店街に輸入菓子の店があったので、そこにねらいをつけた。そこのお菓子ならみんなに自慢できると思った。翌日、店の主人がいないのを見計らって、ズボンのポケットにざくざくお菓子を詰め込んだ。すると、「どこの子だ!」とお客さんに捕まってしまった。逃げようと思ったが、首にかけていた家のカギと定期券をつかまれた。(しまった、日本名にしておけばよかった)と思った。定期券には「辛淑玉」と朝鮮名が書いてある。(これでチョーセン人はみんなドロボウだと思われる!)と焦った。あわてて奪い返し、走って逃げた。ドロボウしたことを悪いとは思わなかったが、朝鮮名がバレたことは失敗だったと後悔した。『辛淑玉の名前は抹殺だぁ、今度やるときは、日本名にしてやろう」と思い、戦利品を持って帰った。「お姉ちゃん、はい」とお菓子を出したとたん、お姉ちゃんは鬼のような顔をして、「こんなもの買うお金があるならどうして私にくれないの!そのお金で自分のほしいお菓子を買えたのに」と怒った。以来、ドロボウはやめた。あんなに怖い思いをしたのに、ちっとも喜んでもらえなかったからだ。 p.61
この短いエピソードには、彼女の後年の言動を理解するうえで看過できない複数の問題が凝縮されている。問題は、幼少期の過ちそのものではない。それがどのように語られ、どのような価値づけが与えられているかである。
物語は、「お姉ちゃんに遠足のお菓子を持たせてやりたい」という一見もっともらしい動機から始まる。しかし、その直後に語られるのは、輸入菓子を選んだ理由が「みんなに自慢できるから」だったという自己顕示欲である。ここで、行為はすでに純粋な思いやりではなく、他者からの評価を意識した欲望と結びついている。
さらに重要なのは、万引きが衝動的な行為ではなく、計画的な犯罪として描かれている点である。店主の不在を見計らい、捕まりかけた際には身につけていた所持品の情報に即座に思考を巡らせる。この叙述は、無知な子どもの過ちというより、冷静な判断を伴う行動として構成されている。
にもかかわらず、語りの中で犯罪行為そのものが「悪」として位置づけられることはない。本人の言葉によれば、「ドロボウしたことを悪いとは思わなかった」。後悔の対象は、盗んだことではなく、朝鮮名が記された定期券を見られたことである。つまり、倫理的な反省は完全に欠落し、問題は一貫して「身元が露見したこと」にすり替えられている。
ここで表れるのが、アイデンティティに対する極めて特徴的な意識である。彼女は「これでチョーセン人はみんなドロボウだと思われる」と焦る。しかし注意すべきは、「朝鮮人だから疑われた」のではなく、実際に盗みを働いている最中の自己弁護として差別意識が持ち出されている点である。行為の責任は自分にあるにもかかわらず、それが即座に民族全体の問題へと拡張される。
この発想は、一般的な八歳児の感覚とは明らかに異なる。そこにはすでに、民族的アイデンティティを意識的に操作し、状況に応じて使い分ける視点がある。実際、彼女は「次にやるときは日本名にする」と決意する。これは差別への抵抗ではない。犯罪を有利に進めるための戦略的同化である。
この点は極めて重要である。行為時には日本人として振る舞うことを選択し、語りの段階では被差別者としての苦悩を強調する。この時間差による立場の切り替えこそが、本エピソードの核心である。責任を問われる局面では日本人に、同情や理解を求める局面では被差別者になる。ここには一貫した自己認識は存在しない。
さらに問題なのは、この語りが大人になった後、「戦利品」という言葉とともに武勇伝化されている点である。万引きは過去の恥ではなく、語るに値するエピソードとして再構成されている。被害を受けた店や店主への想像、謝罪、あるいは反省は一切語られない。被害者は最初から物語の外に置かれている。
このような語りは、個人の内面にとどまらない影響を持つ。差別を恐れているようでいて、結果的には「朝鮮人は信用できない」というステレオタイプを自ら補強する内容になっているからである。真面目に生活している在日コリアンにとって、これは擁護ではなく、明確な加害性を伴う語りである。
最後に触れておくべきは、家庭環境の描写である。姉が激しく怒る場面は、単なる感情的反応というより、家庭内の金銭的逼迫や歪んだ価値観を示唆しているようにも読める。しかし、仮にそうであったとしても、それは行為の免責理由にはならない。環境説明と責任放棄は、厳密に区別されるべきである。
『せっちゃんのごちそう』p61は、貧困や差別を告発する文章として読むことも可能だろう。しかし同時にそれは、アイデンティティを選択的に操作し、自己の行為を免責する語りの典型例でもある。本稿は、その構造を検証したにすぎない。
