God's Apple
欠点だとか美点だとか、物事の善悪の幻想に捉われ過ぎている自分に、ふと立ち止まる。さすがに殺人だの強盗だのはアウトだと思いますが、基本的に正しいだの間違いだのというのは、その人その人の尺度であって、やっぱり幻想でしかないのだと、思うわけです。
何年も何年も挑み続けて来た「瞑想」について少し書かせて下さい。そもそも「挑む」もんじゃないですよね瞑想って(笑) 3分の瞑想すらしんどかった。何度挫折しただろう。ちっともリラックス効果なんて得られない。目を閉じて安座を組んで座ると、ひたすら雑念しか浮かんで来ない!余計な事が次から次へと、腹が立つほど。
けれど。今年のライオンズゲートの少し前から、また性懲りも無くトライしたら、初日からいきなり、なんの苦もなく20分ほど安座を組んでいられた。安座という姿勢は全く問題ない。つまり、殆どうるさい雑念に捉われることなく、ぼんやりと、ほぼ「何も頭に浮かばない状態」で20分ほど居られた、ということです。たぶんもっともっと継続出来たと思う。
でも(上手く説明出来ないけど)物凄く「整った感」があった。その日を皮切りに、今、毎日寝る前の瞑想は日課になっています。チャクラクレンズやチャクラバランシングなど、チャクラを整える働きのある瞑想が好きで、よく実践しています。
話が脱線していますが、つまり、アムリタが言いたいのは、この瞑想を例に取って言うと、瞑想がちゃんと出来ないから駄目、いけないこと、では無く、出来るようになる時期、時、がいつか必ずやって来る、ということです。皆様もそれは良くご存知のお話だと思います。もしくはずっと来ないかも知れない。そしたら、それはアムリタには瞑想が必要ない、という意味なのでしょう。瞑想が出来る、出来ないに、決して善悪などはないということなんだって、たぶんわたしは、最近になってやっと、ハッキリ自覚したのだと思います。
正しい、善、そう思われることばかりに捉われ、動けなくなってしまっていては、結局個性も死んでしまいます。アムリタは、(軽度だったためわりと短期間で改善していきましたが)オルトレキシアの傾向も強かった時期があり、また今現在もヴィーガンなので、やはり多少はその名残り……というか傾向があるのだろうと自己分析していますが、自分が一般常識的なところで言う「善」や「正」にとても振り回される生き物なので、それが逆に、反作用を引き起こすきっかけになってしまうこともあるということも学ばなければならない……と思い知らされる場面は多々あります。
ふと鏡の中の自分は、果たして本当に「自分」なのだろうかと疑うことはないですか?その鏡や写真は、正しく自分を写してくれているのでしょうか。何が本当で何が間違っているのか。
心の目を、養っていきたい。強くしていきたいです。
