好きなものがない
好きなものがない
紙に鉛筆。それから、果てしない空白。きっと、この教室にいるほとんどの人たちは思い思いに余白を埋めていっているんだろう。私には何もない。特別なことはおろか、好きなものでさえ。
これが私の一番古い嫌なこと。ほんとうは、それまでも嫌なことはあったはずだけれど、映画や漫画の冒頭の回想シーンみたいに、私のひとつづきになっているはずの記憶の初めにはこの風景がある。今も私が私でいるかぎり、このストーリーは覆らないだろう。つぎのまばたきで恐竜に食べたらたり殺人鬼に襲われるなんてことがあったとしても、目が覚めて虫や、生き物ですらないものになっていたとしても、この物語の冒頭はこれ。好きなものがなくて途方に暮れている姿。
海を美しいと思ったことなんか全然ない。ふとそう気がついて、夜の遊歩道を歩きながら遠い目をした。山でも海でもない広大な平野で生まれて、だからはわからないけれど開けた空に広がる星に親しみを覚えた。星が降るように、全く縁もゆかりもないところに生まれ落ちてみたい。ひとりでに生まれて、たったひとりで宇宙を彷徨っていた星屑が、地球の引力に触れて大気に燃ながら一直線に落ちてゆく。どこへもめがけずに。それを見る者は、光の筋に願いをかけ、見たことをよろこび、そうしてわたしは生まれ落ちる。けれどその頃にはほとんど燃え尽きているのだ。
私が宇宙を彷徨っていた頃、もう若くない星が死にかけているのを何度も目にした。たいていの星は寿命を迎える前、膨張し、奇妙な光を放ったのちに沈黙へと向かう。さらに大きな星は、燃えかすとして光のガスを噴出し、それが尽きると内側から弾け飛ぶ壮絶な最後を迎える。それらの星よりもっとずっと小さな星は、ただただ冷えるのを待つのみだった。そして、自ら光ことのない星は、光を放つ巨大な星に導かれるか、ただあてもなくこの空間を彷徨うさだめにあった。私も、そういった星のひとつとして生まれた。いつ生まれたのか。誕生の瞬間を覚えてはいないけれど、私に意識というものが芽生えたとき、ここは絶え間なく星が生まれる時にあった。目の前で星同士が結びつき合い、また、霧状のエネルギーがひとつになり、たくさんの星が生まれた。私はその光景を目にしながら、自分がどの星とも結びつけないだろうということを悟った。どうしてそうだと分かったのだろう。目の前に広がる星たちを目にしたとき、自分でも知り得ない記憶がそうだと囁いたのかもしれない。あるいは、そうだと決まっていることは、そうだと決まっていることとして、あらかじめ感覚の中に潜んでいるのかもしれない。何にせよ、私は私の意思で選んだものなんてなかったし、事実として、生まれたときの予感通りの星として生き、ここを彷徨い続けている。
また死の光を放つ星が私を捉えていた。その熱は、容赦なく体表を苛んだ。私はすでに、明るいか暗いか、暖かいか冷たいか、その程度ことしかわからなくなっていた。外界からの刺激をほとんど感知できないまま、取り返しのつかない安寧の中で、いままで見てきた世界と、そうでない世界の狭間にいた。これまで起こった出来事と、これから起こる出来事が、同じ輪郭をもって呼び起こされ、生まれる前のことや、この生が終わったあとのことが、すべて沈黙という軸を中心に渦を巻き、ただそこに身にとどめるしかなかった。そうだ。きっと、間も無く私は死ぬのだろう。
急速に光を失い、狭くなっていく場にあって、星同士はぶつかり、ひとかたまりになりはじめた。宇宙が終わろうとしている。そこで、すべてのものは鉄へ向かう。鉄より軽い原子は核融合し、鉄より重い原子は核分裂した。原子の中で最も安定している鉄を目指し、一点の鉄になるべく私たちは命を使った。私は、この宇宙に来たときから眠ることができなかった。星としてここ生まれついた日から、その最後の日まで、全てが決まっていた。眠ることができるとき、私の運命もまた閉ざされるのだ。光に照らされている時も、暗闇の中にいる時も、体のどこかは常に覚めていて、そのくせ、星に生まれなかった自分を夢みた。これが私にできる、運命に対するささやかな抵抗だったのかもしれない。もし、もっと自由な星に生まれたら、大気や海のある星におちて、そこで燃え尽きてみたい。もし、星ではない生があって、それを選ぶことができるのなら、何かを強く思ってみたい。記憶やあらゆる法則に縛られず、自らの気の向くままに生きて、ひとつでも生きることを選び取ってみたい。体が柔らかいものに触れて、途端、思考が無に溶けていくのがわかった。これから、やっと眠りにつくのだ。
橋の上に差し掛かる。薄い雲が空を覆いはじめて、もう星はほとんど見えなくなってしまった。足を止めた私は、滑らかに蠢く川を覗き込むために、橋の剥き出しの鉄骨に触れた。昔、生家の近くに鉄工所があった。その朽ちかけた鉄の柱に、一匹の犬が繋がれていた。木枯らしに吹かれていつ見ても影のようにくたびれていた犬は、冬の終わりとともに姿を消した。あの朽ちた鉄柱に力を込めれば、たやすく崩れ落ちていただろうか。犬は、どこか遠くに行けただろうか。手のひらの熱をおびた欄干が、かすかに鉄の匂いを放った。橋を離れたあとも、その鉄の匂いは、私の手に残った。
