雨と紅茶と母の話
4人の少年が死体探しの冒険に行く映画『スタンド・バイ・ミー』(ロブ・ライナー,1986)に、特別好きな場面がある。
死体は簡単には見つからず、4人は森で野宿することになる。不安な夜を越え迎えた翌朝、1人で雑誌を読んでいた主人公ゴーディの前に、1頭の鹿がふいに現れ、去っていった。彼はこのときのことを大人になってもずっと覚えていたが、誰かに話したことは一度もなかった──という場面だ。
何気ないのに覚えていて、でも誰にも話したことがない。私にも同じような記憶がある。
中学二年の、雨がザブザブ降る日。私はカビ臭いクリーム色のカッパを着て自転車を漕ぎ、学校から自宅へ急いだ。軒下に自転車を停め、カッパを雑に車体に干すと、いつも出入りしている勝手口へ走った。勝手口から直結の台所兼ダイニングで、母が「おかえり、寒かったでしょ」と迎えてくれた。
湿ったセーラー服から部屋着に着替え終えると、テーブルにはティーカップが2つと、たっぷり湯が入ったコーヒーサーバー。リプトンのティーバッグが2つ浸されていた。ややあってタイマーが鳴り、母はカップに紅茶を注ぎ、2人で飲んだ──
私は20数年前のこの出来事をなぜかよく覚えていて、そして誰にも話したことがなかった。
✴︎
この何気ない記憶を「覚えている理由」はわからない。でも「話さなかった理由」には心当たりがある。言葉にしたら記憶が書き換わってしまいそうだからだ。
実は何度か、この記憶を言葉にしようとしたことがある。でもいつも、怖くなってやめてしまった。色や音、風味、感触などが変わってしまうんじゃないか。今も書きながらヒヤヒヤしている。何かが失われた気配もする。
そして「覚えている理由」をうっかり捏造しそうになる。「紅茶に込められた母の愛情に感動したからだ」とか「どこか不安な思春期の心が癒されたのだ」とか。でもこの記憶は、そういうあたたかさばかりを帯びていない。もちろん母への感謝や愛しさはあるが、それだけに集約することには強い抵抗を覚える。
形を与えたら途端に偽物になってしまいそうで、言葉にできない。でも、したい。だから何度も試みる。そして挫折。今回もだ。
ゴーディが鹿との遭遇を言葉にしたのは、小説家となり父となり、共に冒険した親友の死を知ってからだった。私の記憶はいつか言葉になるのだろうか。そのときまで、あの日の雨と紅茶と母のことを覚えていたい。
こういう感じの文章をまとめたマガジン▼
