出雲巡礼の旅|徐福と吉野ヶ里遺跡と弥生時代の到来
とあるテレビ番組で興味を惹かれるランキングが紹介されていた。
それは、
「一生行かなそうな都道府県は?」
というもの。
その一位は佐賀県だった。
そして、二位は島根県。
ある意味不名誉な結果ではあるが、私はそれを誇るべきだと思っている。
行かなそうなところだからこその価値。
その価値を探究するかのように、私は出雲人の足跡を辿る、出雲巡礼の旅をしている。
今回の目的地は佐賀県だ。
北九州へ旅行をしようと決めた。
新たなお仕事の都合でしばらく旅行はできなくなるかも…
そう思ったらいても立ってもいられなくなり、8月中に行きたいところにいってみよう、と思い立った。
そこで会いたいと思ったのが、長崎に住む友人だった。
事業家でもあり、フリーダイバーでもあり、とんでもYoutuberでもある、ぶっ飛んだ男で、会うたびに刺激をいただける唯一無二の存在。
もともとは私が1年駐在していたフィジー繋がりの縁で知り合ったのだが、帰国後長く繋がっているのは彼くらい。
昨年島根に家族で会いにきてくれたので、今度はこちらから訪問したいと思っていた。
久々の再会。
彼は鹿児島にいいダイブスポットを見つけたようで、1週間の合宿から帰ってきたところだった。
彼が行う、薪事業の工場を見学させてもらった。
原料の調達から生産、販売、そして、シナジーを産む薪ストーブの代理店販売…
うまくウェブを活用しながら、さらなる事業を展開している。
ビジネスって難しく考えてしまいがちだが、彼の行動や思考を覗いていると、なんか楽しそうと思えてしまうからなんとも不思議。
自分の事業を着々と積み重ねながらも、自由な時間は必ず確保する。
確保した時間は好きなこと(フリーダイビング)をやるためや、家族や友人との時間に使っている。
私が理想とする生活だ。
将来、ありたい姿を描くために、彼に会いたいと本能的に思ったのだろう。
ありたい姿って何?
改めて考えてみる。
言語化はまだまだ難しいけど、今この文章を書いていること自体、自分にとってやりたいこと。
やりたいことの先にありたい姿があるものなのか?
はたまた、ありたい姿があるからやりたいことが見えてくるのか?
キーワードは
”出雲””文化””循環””贈与””国際交流””旅””執筆”
これらをビジネス、趣味、生活とさまざまに掛け合わせて生きていけたらいい…
抽象度が高いけど、そんなふうに考えている。
そのために、まずは時間的な自由を得るために、会社組織から卒業することにした。
選択肢が無限に増え、自由に未来という白紙のキャンパスが手に入った。
さぁ、何を描いていくのだろうか…
みなさんにも訊ねたい。
あなたのありたい姿とはなんだろうか?
さて、そんな長崎から始まった3泊4日の北九州旅行。
長崎に行くならば、北九州の巡礼をしようではないか、と考えてしまうのが、私の思考の癖である。
google mapで北九州の地図を眺めながら、目の留まったのが長崎の隣県、佐賀県にある吉野ヶ里遺跡である。
吉野ヶ里遺跡とは一言で言えば、日本最大規模の弥生時代の環壕集落跡だ。
全長2.5kmにも及ぶ巨大な壕で囲まれた集落は、紀元前5世紀から紀元後3世紀までの約700年間の発展過程がわかる史跡といえる。
特にこの時代は水田稲作が日本全域に伝わった時代。
水田跡はまだ発掘されていないものの、高床倉庫が立ち並んでいたり、水田で使う農具や炭化米も発見されているため、我々日本人のルーツを探る上でも今後の発掘が期待される。
さて、そんな吉野ヶ里遺跡なのだが、出雲の旧家の口伝によると、このような言い伝えがある。
東は大和、古志(越前、越中、越後)、南は四国、西は九州まで勢力を広げていた出雲王国。
そこに秦の始皇帝が中国を統一した時期に、斉国から日本にやってきたのが徐福である。
彼は1度目の来日時にはホアカリと名乗り出雲にやってきた。(子孫は出雲から丹波地方に移住)
当時の8代目主王の八千矛(=大国主)と、副王の八重波津身(=事代主)を謀略により枯死させる。
出雲にいられなくなった徐福は帰国し、2度目はニギハヤヒと名乗り、吉野ヶ里の地域に集落を築いていった。
秦の国からやってきたため、後に筑紫と言われる築秦(ちくしん)の王国の始まりである。
かれらの子孫はのちに物部氏と名乗るようになる。
前回の武蔵巡礼旅でも書いたのだが、水田稲作という技術が日本の古代史上、かなり重要なテーマだと思っている。
計画的な食糧生産を可能にすることで、土地の恵みにあやかれなかった西日本での人口が爆発的に増えていき、次第に東日本を飲み込んでいく…
その最先端の水田稲作の技術をもとに、のちにヤマト王権においてイニシアチブを握っていくのが物部氏である。
そんな物部氏のルーツとなっている吉野ヶ里遺跡。
気になるではないか!
訪れたのは、夏の暑さ真っ盛りの8月下旬。
車のナビを頼りに吉野ヶ里歴史公園に向かう間に、私の目に映ったのはだだっぴろい平地だ。
「遠方までたんぼが広がる光景=田舎」
この認識は現代人特有のもので、古代においてはこのような土地はまさに人が集うような栄えた場所だったと言えるだろう。
有明海を奥深くまで入ってくると、徐福上陸の言い伝えのある浮盃がある。
そこから稲作には必要十分な平地があり、その先に脊振山が聳える。
山を越えれば福岡市内へとつながる。
このような土地を選んだ徐福はどんな思いだったのだろう。
秦の始皇帝から逃れ、安住の地を作りたかった…
旧家の口伝だけを聞いていると、二人の王を殺害するというかなり血生臭い物語が繰り広げられており、徐福が出雲王国を裏切る悪者のように感じる。
しかし、私には徐福の違う一面が見えるような気もしている。
インドの地から迫害を逃れるようにやってきた出雲族と同じように、始皇帝の迫害から斉の国の人々を助けたかったのではないか。
徐福は子供たちをたくさん連れてきたという。
それは、今後の未来を担う子供たちとともに王国を作るという野心にも見えるが、一方で子供たちの保護という優しい眼差しにも思えてくる。

集落に点在するムラ。
生死をかけた渡航を経て、この土地に安らぎを感じられただろうか?

集落の入り口の堀沿いには逆茂木(さかもぎ)といわれる杭が多数見られる。
稲作は土地や水を奪い合う争いを生んだ。
集落を守るためのバリケードとなる杭は縄文時代とは異質の存在。
稲による農耕生活は生活を激変させた。
現代で言えば、インターネットやAIによる生活の変化に匹敵するものだっただろう。
計画的な農作による時間感覚の変化、土地の所有の概念、貨幣としての米、財産の感覚、ヒエラルキーの成立。
食糧採集に難のあった西日本の人々は、すんなりと稲作を受け入れていったのだろう。
生活の安定の反面、これら無数の杭が”争いの少ない平和な世界”からの脱却の象徴といえよう。

続いて、王の宮殿に向かった。
入り口は城壁といえるような立派な門が憮然とした表情で待ち構えている。
紀元前5世紀から紀元後3世紀の時代にこのような防御体制が整ったムラがあることを想像してみる。
すると、今まで歴史の授業でイメージしてきた弥生時代のイメージがガラガラと崩れ落ちていくのではないだろうか。

吉野ヶ里遺跡の最重要建造物と言われる北内郭、王の宮殿。
田植えや稲刈りの日取りや戦い、狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここで決定されたと考えられている。
ここからは青銅でできた中広型銅戈も発掘されている。

あくまでこれは想像図ではあるが、ここで数多くの会議が開かれたであろう。
これだけの規模の集落をまとめるには組織的な集いがあったに違いない。

また、この吉野ヶ里遺跡からはシャーマンと思われる、両腕に36個の貝輪をつけた女性の人骨や中国製の銅鏡が見つかっている。
出雲地域でも同様に、島根半島の遺跡でシャーマンと思われる貝の腕輪をつけた人骨が発掘されており、どちらも沖縄方面から運ばれた貝である。
出雲で昔から奉斎される龍蛇神も南方からやってくるセグロウミヘビのことであり、シャーマニックな祈りには南方地域からの流れが欠かせない。

宮殿から外に出ると、日は傾きかけていた。
真夏の遺跡巡りは体力勝負だった。
本当は数時間かけて、全て巡りたかったが、この後の移動も考えごく一部を回るのみとなってしまった。
でも、それでいいのだ。
弥生時代の最先端集落に足を踏み入れたことは、大きな一歩だったと思う。
出雲の人々の足跡は出雲だけ見ていてもわからない。
同じ時代に、この日本や世界に何が起きていたのか?
鳥の目のように俯瞰してこそ、出雲の輝きが増していくのだと思う。
そうそう、ありたい姿が少しずつ見えてきたかもしれない。
それは、近視眼的に物事を捉えるのでなく、常に客観的に、俯瞰的に物事を理解するということだ。
出雲の口伝は大切にしつつも、違う伝承もしっかり学び、検討していきたい。
歴史は語る視点によって、まったく違う姿を見せるものだから…
取り止めもないレポートになってしまったが、次回はこの吉野ヶ里遺跡近くにある出雲の痕跡が伺える地を紹介しようと思う。
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