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「あなた」との邂逅

今日は3週間ぶりの原初舞踏の稽古でした。そして、やはりたくさんの気づきがありました。

たぶんいくつも記録しておくべきことがあったと思うのですが、今は何よりも、最後にやったフリーダンスのことを書いておこうと思います。

最後に自由に踊るというテーマでの稽古がありました。いつものように板付きで始めるのではなく、舞台上手から登場して、各自自由に踊ります。途中から音楽がかかり、約10分で終わるという流れ。

出て行くときに、それなりに気持ちを整えてから出たのですが、舞台に出てからは、その場所を確認し、何かを探していたようです。そして、何かイベントが起こることを待っていたようにも思います。

ゆっくり動くことで空間の質が変わり始め、見え方が変わり、特に後ろに下がるときに世界が変わって見えることを確認しながら、しかし大きなイベントが起こるわけではなく、踊りとしては何か足りないままに終わったと思います。

途中、どうしようかと思いながら、何も決まっていないことに焦る気持ちもありました。何かを意図して起こそうとして起こすこと、力業でその場を切り抜けるというようなこと、無理矢理にでも身体を絞れば、筋膜からいろんなエネルギーが発散されて、何かが起こるだろうとは思いましたが、それは今ここでやるべき事とは思えませんでした。

そのような戸惑いの中で、ただ舞台の上を歩き、空間を眺め、身体をくねらせたという感じだったと思います。

なんというか、自由に踊っていいということで舞台に出ていくということは、自分の足りないところがそのままに出てしまうことなんだということをあらためて、また今回も経験したという事だったわけです。

そう、振り返って見ると2月26日にこのようなことを書いています。このときの稽古でもフリーで踊り、その後やり直して「われここにあり」を確認してから動きが変わったという経験をしたのでしたね。

このときのことが記憶にあったので、今回、舞台袖で気持ちの準備をしていたときに、「われここにあり」と確認して、それから舞台に歩を進めたつもりでいました。しかし歩いている内に、気がついたら孤独な自分だったなと思います。

何かが足りなかったとしたら、何が足りなかったのか?

そのような、最上さんからの問いかけがあり、孤独な自分は、なんとかそこでやり遂げたいと思っていたということに気がつきました。そしてたしかに自分なりにできるだけのことはしようとしたのだと思います。しかし、今になって思いますが、やはり孤独な自分という時点で、すでに決定的に足りなかったということが言えるのかも知れないと思いました。

そして、もう一度、すこしだけ決まり事を設けて、同じことをやることになりました。

その決まりというのは、舞台袖から出たら、ある程度の地点で立ち止まり、そこで「われここにあり」と宣言し、場を立ち上げると言うことです。そしてじゅうぶん大丈夫と思うまでは動かないということです。

立ちながら、後ろ側に無限に広がる空間のイメージを持ったとき、後ろから包まれるように感じ、とても満たされていると言うことを感じました。

そしてまさにその時に、探していたものがわかったのです。それは正面にいた「あなた」だったのですね。ずっとずっと、その「あなた」はそこにいたのに、僕はずっとそれに気がつかずに探し回っていたようです。

もう、探す必要はなく、あとはただ「あなた」との邂逅の時間をすごしていたのだと思います。それはあっという間で、圧倒的に充実した時間だったと思います。そして気がついたら終わっていました。

そして、夕闇に包まれた稽古場の空気はとても濃密なモノになっていて、最後にお茶を飲みながら、みなでの語らいは至福のひとときでした。

思えば、昨日の最上さんの一連のツイートがつながります。

このツイートからの一連の言葉をここに書き出してみます。

踊りの場合は衣装を着る以外は身ひとつで、道具なしなので、その点は強いように見えるけど、そのかわり身体を道具にしている表現者は多い。というより大半はそうだ。舞踏は身体を道具にしないように心がける。この違いを知る人は少ないと思いますが。

身体を道具にした途端に、どんなにすごい技術があっても踊りはつまらなくなるんだけど、それを知る人は少ないです。道具にするのが当たり前になっている。私にとって身体は霊そのものです。

身体が霊でなければ私は踊りをやっていないだろう。霊になれるからやっている。霊になる修行みたいなものかな。私のゴーストと私が重なる時。

はじめに踊りがあるのではなく、身体があるだけなのだ。その身体から機能や社会的記号をはずしたとき、身体は何をするのか。そこから始まるのが踊りだと思っている。こんなに厳しい問いかけはない。宇宙空間の中で宙吊りになっている身体。

あるいは太平洋のど真ん中で足場もなく立っている身体。足の下は地面ではなく水だ。支えなくどこまでも落ちて行く。

ゴーストって確かにいるんですよ。何回もツイートしましたが、踊っているときには背後に何者かが立つ。これが最初はなんであるのかがわからなかった。わからないながらも「これだ」と感じた。私の場合これがないと踊りにならない。

こういうツイートするとすぐにもそれができると思う人がいるけど、そこまで行くには手間がかかります。自己が自己に出会うということですから、簡単にいくわけない。

孤独なまま、人は何かを探し始めるのだと思います。しかし、見つからない。

だから立ち止まって、身体から機能や社会的記号をはずした「われ」を確認し、宇宙空間の中で宙吊りになっている身体、あるいは太平洋のど真ん中で足場もなく立っている身体を確認し、後ろに広がる空間をじゅうぶんに感じたときに、「わたし」はようやく準備ができるのかも知れません。

そして、「わたし」がじゅうぶん準備出来たときに、初めて、対化としての「あなた」が、見える所に現れてくるのかも知れません。

帰り道、車の運転をしながら、そこで起こったことを何度も反芻しながら、僕が踊りたいのは「あなた」に会いたかったからなのだと思いました。それはもしかしたら、僕の生きる意味なのかも知れません。

なんか、すごいことになってるぞと思いながら、次にフリーダンスをするときには、また忘れてしまっているかも知れないとも思いました。

しかし、何度も反復することで、それはよりしっかりとカタチを持つようになるのでしょう。だから、稽古というのは続けないと意味がないのだと思うのです。こうして書き残すこともとても大事なことだと思って書いています。

稽古場の近くで見た銀杏の若葉たち。

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