ライターズ・ブロックについて――AIを心理安全な思考ラリーの場として運用する
「文章を書けない」と考えるとき、私たちは何を前提しているのだろう?
私たちは毎日誰かと喋っている。会社の人、家族、飲食店の店員、ご近所さん。
喋ることができるなら書くことだってできるはずだろう?しかしそうはならない。
むしろ喋ることによって社会化が進んでいて、それが書くことを邪魔することがある。
誰かと喋るときに目の前の人に「この人にどう思われるだろうか?」「なにか一丁前なことを言わないといけないのではないか?」ということをまったく考えずに喋れる人はおそらくいない。
私たちは常に社会からの目線を気にして喋っている。これを毎日繰り返すと喋る前に「私の言うことは他人からどう見えるのか?」というポップアップを表示する癖がついてしまう。社会化される。
このポップアップが私たちが自由に表現をする上で障壁となることが多い。
「こんなことを書いて意味があるのか」「一定のレベルに達していないから恥をかくのではないか」「綺麗な文章になっているか」。
こういうのは、ぜんぶ社会からどう見えるのかという社会化された自分からの自己検閲であって、これをかましている限り質の良し悪し以前に文章を書くことができなくなる。文章を書く上でまず大事なのは、「思ったことを正直に書いてみる」である。とりあえずしょぼいものをいっぱい出してみて、質は後から磨く。
自己検閲のフィルターが幅を利かせているとき、私たちはそれに意識的になって武装を解いてやる訓練をしないといけない。
「今、私は人から文章が上手いと思われたいのだな」とか「恥をかきたくないんだな」とか「賢いと思われたいのだな」とか「いいねがいっぱい欲しいんだな」とか、どういう社会的評価を望んでいて、どういう社会的評価を恐れているのか。
その状態を自覚した上でいったんこれらを考えなくて済む場所に自分の思っていることを素直に書いてみる。下手くそでもいい、稚拙でもいい、ひどく偏った極論でもいい。なんなら日本語として破綻していても構わない。誰にも見せない日記の片隅なんかにつらつらと記していく。
正直に吐き出すことに慣れてくると、錆びついた蛇口が徐々に緩んでくるのがわかる。私は何度もこれを経験したことがあるが、とても心地が良い。吐き出すのに慣れてくると、そのうち「遊び」が出てくる。不必要な要素を足そうとする。比喩表現とかツッコミとか独特な言い回しとか修飾とか、いろんなものを付け足してみようと思うようになってくる。この、ことばで遊んでいる瞬間が妙に楽しい。
かくいう私も最近ぜんぜん文章を書いていなくて、蛇口がめちゃくちゃ錆びついてしまった。こんもりとした赤錆でいっぱいだ。書こうとすると手が止まる。思考が書く手を動かし、書く手が思考を動かす。この両輪があるが、思考は常識や自己検閲によってロックされているし、書く手を動かそうとすると例のポップアップが起動する。
最近は、自分の書いた文案にAIから編集者として意見をもらいながら手を加えていくという作業にずいぶん慣れたのか、ゼロから自分で文章を書いてみるということがとんとできなくなった。固まった蛇口を動かすために、この文章を書き始めた。この文章はゼロから書いている。AIの助けも借りていない。
AIと自分の文案について対話していて気づいたことがある。最初の文案自体は私ひとりで書いているということだ。本質的に私は「書けない人」ではなかった。AI相手になぜ文案を投げられるのか?それは心理安全な場だからだ。
ここでは「社会的」な自分である必要がない。誰かからの評価を気にする必要がない。つまり、余計な自己検閲がかからない。自分の思考を抑制するものがない。そして、AIは自分の投げた文案に対してかならず何かを返してくる。いかに的はずれで、くだらないものであっても何かを返してくるという事実は大事である。それが触媒となって私の思考が展開される。
AIに書いたプロンプトを見返してみると、最初は取るに足らないくだらないものであることが多い。ちょっとした思いつきであったり、的はずれな仮説であったり、非常に曖昧な概念であったり。AIはそれらに「仮の輪郭」を与えてくれる。そして、しょうもなくても少しだけ話を広げてくれる。それについて私がまた何かを思い、何かを返す。そこに心理安全な場での思考ラリーが成立する。
AIは非常に便利だ。創作に使うのに徹底的に反対する人もいるが、私はツールのひとつとして使ってみてもいいのではないかと思う派だ。というか何か新しいツールが出てきたら、それを自分の能力を拡張するために使うという発想になるのはあたりまえだ。PCが出てきたときに手書きで原稿書くのをやめた人がたくさんいると思うし、タイプライターも使わなくなった。モノを調べるのにもインターネットを使うだろう。
AIも心理安全な思考ラリーの場として使えばいい。ただし、あくまで道具のひとつであって、創作のすべてを助けてくれる万能の機械ではない。それにツールはAI以外にもたくさんあるし、それらもAIと〈同等に〉使うことを検討すればいい。AIだけを特別視してAIを使った創作にこだわっている人を見ると、それはAIありきで創作をしているだけでしょ?結局はAIでできる範囲だけでモノを作ってラクをしたいだけでしょ?ということになる。私のなかでAIは心理安全な場で思考ラリーをするためのツールだ。ゼロからAIに文章を書いてもらったことはないし、それをやらせても私の文章がもつ思考の運動みたいなものが表現できない。つまり、創作の質をよくするためにツールを使っているのに、よくなっていない。だからそういう使い方をしない。それだけだ。
話を戻そう。
心理安全な場で思考ラリーが繰り返されると、脳の蛇口が緩まってくるのを感じる。すごくしょうもない案を100個くらい出せば、そのうちひとつくらいは実になる。最初のしょうもなさは、最終到達点のしょうもなさを意味しない。しょうもない案から出発して、面白い洞察が引き出されることはままある。これを体感としてわかっておくとしょうもない案を出すことに恐さを感じなくなる。
ライターズ・ブロックというのも何度も経験して、そこから抜けるきっかけや感覚をわかっておくと、来てもそう簡単にはビビらなくなる。どうせまた復活して書けるようになるのだろうなと自分を信じることができるようになるのがいちばんデカいかもしれない。人生全般にいえることだと思うが、一度どん底まで落ちて、そこから復活する過程を経験した人は強い。復活の仕方を知っているからだ。復活できたときに自分が何をしたか?どういうきっかけがあったのか?は、メモっておくと、自分専用のトリガーみたいなものが発見できて、再現性が高まるかもしれない。私の場合は、「心理安全な場での思考ラリー」、これがキーワードだった。
何かをやるときに、いかに着手のハードルを下げるか?
これをすごく大事にしている。
真面目で完璧主義な人ほど、着手のハードルを高くしてしまって、結果なにも進まないという負のスパイラルに入ってしまいやすい。追い込まれるとさらに「良いものを作らないと…」というプレッシャーからさらにハードルが上がる。結局良いものを作るには、(ほとんどの場合)くだらないものからスタートしないと始まらないということに気づけると、この種の循環からだいぶ抜け出し始めているといえそうだ。むしろ、問題を読み替えて「くだらないものをいかにたくさん作るか?」としてしまってもいいかもしれない。
今日は実に稚拙な提案をn個したな…!
という風に。
私は今日このくだらないブログをひとつ書いたので、ライターズ・ブロック(?)からは一歩抜け出せたと勝手に思っている。
了.
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