映画『国宝』を見て、私が最後まで理解できなかったもの
先週、話題になっていた映画『国宝』を観た。
ずっと気になっていた作品だった。
結論から言うと、私はたぶん、この作品の本当の魅力を理解できていない。
きっと団塊の世代や、その少し下の世代には深く刺さる作品なのだと思う。
戦後の混乱や貧しさの中で生き、
家や伝統や芸、何かのために人生を捧げることに価値を見出してきた人たち。
そういう時代を生きた人たちには、この作品は特別な重みを持つのかもしれない。
ちなみに、この記事は映画の感想というより、「この作品を見た私自身の観測記録」だ。
歌舞伎に興味のない夫は、開始数分で寝落ちした。
上映時間のほとんどを眠っていたと思う。この記事は、その時のこと。
私はというと、衝撃的な始まりや、苦しい場面に何度もしんどさを感じながら、それでも最後まで観た。
なぜこれほど多くの人の心を動かすのか。
それを知りたかったから。
ただ正直、私も歌舞伎に興味がない。
もっと言うなら、人間そのものや、人が作った文化や伝統にも、あまり関心がない。
だから観ながらずっと、
「へえ、こんな世界があるのか」
という距離感だった。
映画としての完成度は高かった。
感動した、とか。
素晴らしかった、とか。
そんな単純な言葉では片付けられない作品だったと思う。
ただ、一つだけ強く引っかかったことがある。
以前観て好きだったドラマ『ひらやすみ』に出演していた女優さんが、この作品にも出ていた。
その役柄が、物語の中で利用され、傷つけられていく。
もちろん役なのだから仕方がない。フィクションなのだから当然。
それでも私はしばらくモヤモヤしていた。
「あの子にそんな役をやらせなくても」
「あんな露骨なシーンを入れなくても」
そんな感情が消えなかった。
そして気付いた。
私はきっと昔から、
「何を成し遂げたか」
よりも、
「誰と関わったか」
の方を気にする人間なのだ。
どれだけ有名な仕事でも。
どれだけ評価される仕事でも。
関わる相手や環境によって、自分の中で価値が下がることがある。
逆に規模が小さくても、誠実な人たちと作ったものには価値を感じる。
映画を観ながら、そんな自分の価値観を改めて確認した。
もう一つ気になったこと。
この作品には、「芸のためなら他のものを捨てる」という価値観が強く流れていたように感じた。
ただ私は最近、何か一つを神格化し、それ以外を犠牲にする生き方に以前ほど魅力を感じなくなった。
仕事も。才能も。芸術も。伝統も。
それ自体が人生の中心になると、人は大切なものを見失うことがある。
だから私は、この作品を見ながら何度も距離を取っていたのかもしれない。
私はたぶん、
「何者になるか」
よりも、
「どんな人でいるか」
を大事にしたいのだと思う。

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