『ガラスのうさぎ』を読んで
『ガラスのうさぎ』の著者高木敏子先生が2026年8月にご逝去されました。2023年に雑誌に書いたエッセイをご紹介します。

空襲で家族を失った少女の戦争体験記
『ガラスのうさぎ』高木敏子著、フォア文庫、金の星社
これは東京の少女の戦中戦後の体験記です。
主人公の敏子は、国民学校(小学校)六年生。
東京の両国国技館の近くに暮らし、父さんはガラス工場を営んでいます。
氏神様の亀戸天神では、祭りに男たちが神輿(みこし)をかついでにぎわう活気ある下町です。
昭和十六年の十二月八日、大東亜戦争が始まります。
最初は勝った勝ったと祝ったものの、戦況は悪くなり、町内の若者が次々と出征。
敏子の兄さん二人も、十代の学生ですが、志願兵として兵隊になります。
昭和十九年七月には、サイパン島で日本軍が全滅。
するとこの島を基地として、米軍機が本土に来襲するするようになり、小学生の敏子と妹二人は、神奈川県の二宮町へ疎開します。
二宮は、東海道の街道が相模湾にそって通る海辺の町です。
疎開先は知り合いの西山家。
この家では、敏子たち三人の女の子を親身に面倒をみてくれました。小学校でも友だちができました。
しかし敏子の妹は、まだ六つと九つ。妹は母さんが恋しくて、両国の家に帰ったまま、母から離れず、疎開先に戻ろうとしません。
そこで敏子は、母と妹たちを残し、一人で二宮へ。
すると昭和二十年三月十日、東京大空襲。
数日後、煤(すす)で顔を真っ黒にした父さんが二宮に来て、母さんと妹たちが行方知れずと言います。父さんは警防団の役目に行っていたのです。
果たして、母さんと妹は生きているのか。
安否を案じながら、その三月、敏子は国民学校を卒業、大磯(おおいそ)の女学校に入ります。
敏子は、空襲から四か月後の昭和二十年七月、初めてふるさと両国に戻りました。
すると、あたりは焼けた瓦礫(がれき)の山、実家もありませんでした。
家の跡を掘ると、母さんが使っていた茶碗のかけら、妹がままごとで遊んだ小さな茶碗を見つけ、敏子は声をあげて泣きます。
それを母と妹の遺骨の代わりにして、お寺の墓におさめるのです。
焼けた家跡には、父さんが作ったガラスのうさぎも転がっていました。
ガラスは半分溶け、空襲の凄まじさを伝えていました。

近所の人に話を聞くと、母さんと妹たちは、大空襲の夜、防空壕に入ったものの、中が熱くなり、火の海の中へ出たまま行方知れずとなったのです。
その夏、昭和二十年八月四日、父さんが二宮に敏子を迎えにきました。
二人で新潟に引っ越すことなり、敏子はやっと家族と暮らせるのです。
二人で二宮の駅へ行くと、そこへ米軍機が急降下して、機関銃攻撃。
敏子は助かりましたが、父さんは頭と体を撃たれて息絶えます。
敏子は、母さんと二人の妹、そして父さんも戦争で喪ったのです。
兵隊になった二人の兄さんも生死不明です。
一人ぼっちになった十三歳の敏子は、涙をはらい、二宮の人々の助けを借りて、父さんのお通夜と火葬をします。
それから十日後、日本は無条件降伏しました。
戦後、幸い、兄さん二人は無事に復員しましたが、家も食糧もなく、敏子は東北の親戚に預けられ、井戸の水くみと洗濯、家畜の世話の日々です。
やがて東京に帰り、兄さんとお嫁さんとバラック小屋で暮らし、学校に入り直し、ようやく女の子らしい、平和な楽しい暮らしが始まります。
そして昭和二十二年五月、新憲法が発布。
敏子には、第九条の戦争放棄の文面が、まぶしく輝く太陽のように見えます。
亀戸天神のお祭りも、戦後初めて復活します。しかし若い男たちがいないせいでしょうか、以前のにぎやかやさはない静かなお祭りでした……。
私は久しぶりに『ガラスのうさぎ』を読み、小学生の女の子に襲いかかる過酷な戦災の悲劇、勇気をもって立ち上がるけなげさに、涙を禁じ得ませんでした。
また、憲法第九条では、「国」が戦争を放棄するのではなく、「日本国民」が戦争を放棄すると明記されていることに、あらためて感銘をうけました。
ちなみに、私の姑の実家は、戦前は、両国に近い向島(むこうじま)で、ガラス工場を営んでいました。
両国と向島は近くであり、同じガラス製造業ですので、姑の父親は、高木敏子さんのお父さまを知っていただろうと聞きました。
その姑の家も、工場も、東京大空襲の猛火で全焼。
幸い、小学生の姑と家族は、木曽へ疎開していて、命だけは助かったのです。
写真
・敏子が暮らす下町の氏神様、亀戸(かめいど)天神。太鼓橋と社殿は東京大空襲で壊れ、戦後に再建された

写真・ガラスのうさぎ像。防空頭巾にモンペ姿の13歳。平和の尊さを伝え、敏子を励ました二宮の人々の友情をたたえて建立された。神奈川県二宮駅前

この原稿を書いたとき、優しかった義母は健在でした。
今はあの世で、両国の高木先生と向島の義母は、ともに近くのガラス工場の娘同士ですから、お会いして、戦時中の思い出や疎開の話をしているのかもしれません……。
高木先生のご冥福をお祈り申し上げます。

