広辞苑は正しい
私はふと思い立って、あの辞書界の横綱、広辞苑を手に取ってみた。
なぜ幸福なんていう、普段なら絶対に自分からは引かないような言葉を調べようとしたのかといえば、理由は実にくだらない。
その日、特に何も悪いことが起きていなかったのだ。
仕事もそこそこ回っている。家族も元気。晩ごはんも普通においしかった。なのに、なんとなく満たされないような気がして、その「なんとなく」の正体が気持ち悪くて、つい辞書に頼ってしまったのである。
鈍器と言っても差し支えないあの圧倒的な厚み。ページをめくるだけで指の筋トレになりそうな勢いだが、そこで幸福という文字を引いてみた。すると広辞苑先生は、初手からぐうの音も出ないほどの正論を私にぶつけてきた。
満ち足りた状態であって、しあわせだと感じること。それから、運がよく、恵まれた状態にあること。
あまりにも隙のない完璧な答えで、なんだか少しだけ腹が立ってくる。
まず私が注目したのは、運がよく、恵まれた状態にあることという部分だ。辞書はさらっと書いているが、これは冷静に考えるとものすごいパワーワードではなかろうか。
いったいどのあたりのレベルを指しているのかは不明だが、日本という国に生まれた時点で、私たちは世界規模の幸福度ガチャにおいてSSRを引き当てているようなものである。
わざわざ私が言うまでもなく、スタート地点でかなりの幸運を使い果たしているのだ。この事実に気づかないふりをして不平不満を漏らすのは、石油王の息子が今月のお小遣いが足りないといって宮殿の壁を殴るようなものである。実にバカバカしい。
そう書いている私自身が、まさに今夜、特に不自由のない暮らしの中で「なんとなく満たされない」などとぼやいているわけだから、宮殿の壁を殴っている側の人間なのだが。
次に私が気になったのは、しあわせだと感じることという箇所である。
結局のところ、ここが一番の急所なのだ。感じ。この二文字。つまり広辞苑は、幸福の定義をあっさりと本人の主観に丸投げしてしまったのである。
感じてしまえば勝ち、感じなければ負け。
もうね、感じと言われてしまったら、こちらは何も言い返せない。他人がどれだけ羨むような生活をしていようが、本人がそう感じていなければ幸福ではないし、逆に周りから見てどん底のようでも、本人がいい感じだと思っていれば、それは立派な幸福なのだ。
問題は、その「感じ」がどうにもこうにもコントロールできないということである。感じろと言われて感じられるなら、誰も苦労はしない。
そして最後に登場する、満ち足りた状態という言葉。これがまたなかなかの曲者なのだ。満足しているのはいいとして、問題はその後の状態である。
状態という言葉は、なんだかふわっとしていて掴みどころがない。永遠に続くものではなく、どこか一時的なニュアンスが含まれている気がしたのだ。
気になったので、私はさらに状態という言葉も引いてみた。
するとそこには、
移り変わってゆく、人や物事のある時期におけるありさま
と書かれていた。さすが広辞苑、どこまでも容赦がない。
つまり状態とは、ずっとそこに留まっている定住者ではなく、気づいたときにはもう過ぎ去っているもの、ということになる。
運がよくて、恵まれていて、その瞬間をいい感じだと捉えること。結局のところ、広辞苑が教えてくれたのは、幸福の正体というよりも、幸福の仕組みのようなものだった。
条件は揃っている。あとは感じるだけ。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
私は広辞苑をパタンと閉じた。
幸福とは何かを、辞書的には完全に理解した。
理解した上で、目の前のぬるくなった茶を一口すすり、やっぱりなんとなく満たされないなと思った。
広辞苑は正しい。
それは間違いない。
ただ、正しさと幸福は、どうやら別の乗り物で走っているらしい。
