補助線
私はその記事を、生成AIと一緒に読んだ。
英語で書かれたエッセイだった。ある人が、大切な家族を亡くしたあとに書いた文章だった。
私は英語話者ではない。表面をなぞることはできる。単語を拾い、文の構造を追い、おおよその意味を掴むことはできる。でも、その文章には、辞書では届かない何かがあった。怒りなのか、悲しみなのか、それとも愛なのか。おそらくその全部が、同時に、矛盾したまま、そこにあった。
私にはそれが見えなかった。だからChatGPTに頼んだ。
この一文を、自分で書きながら、少し立ち止まる。
なぜなら、そのエッセイが扱っていたのは、まさにそのことだったからだ。大切な人を悼む言葉を、生成AIに書かせたことへの怒り。人間が引き受けるべき言葉を、機械に預けてしまうことへの痛み。
私はそれを読み解くために、同じ機械を使った。
読み進めるうちに、ひとつの感触が残った。
その文章の中にあったのは、AIへの批判だけではなかったと思う。少なくとも、私にはそう感じられた。
私が感じたのは、もっと手前にあるものだった。人を悼むという行為に、その人の記憶が、その人の痛みが、込められているかどうか。それが問われている気がした。
上手な言葉である必要はない。整っている必要もない。言葉に詰まっていてもいい。ありふれた表現でもいい。むしろ、その不完全さの中にこそ、亡くなった人を覚えている人間の体温がにじむことがある。
お別れの言葉(弔辞)は、亡くなった本人のためだけに存在するのではない。残された人間が、その人をどう覚えていたかを、言葉にして置いておくためのものでもある。
だとすれば、その言葉が自分の内側から出てきたものかどうかは、やはり意味を持つ。
ただ、読みながら、同時に別のことも考えていた。
悼み方は一つではない。
泣く人がいる。怒る人がいる。黙り込む人がいる。何も感じていないように見える人もいる。きれいな言葉に整えようとする人もいる。自分の言葉が出てこなくて、誰かに、あるいは何かに、頼る人もいる。
外から見える態度だけで、その人の内側にある悲しみの深さを測ることはできない。
私にその人を裁くことはできない。
けれど、ここで私が本当に考えたかったのは、誰が正しいかではない。
生成AIとの距離の取り方だ。
悼む言葉を、AIに書かせること。 悼む言葉を、AIと一緒に読むこと。
この二つは、同じではない。
前者では、人間の内側にあるべきものが、外部に委ねられる。後者では、すでに人間の内側から出てきた言葉に、外部の力を借りて近づこうとする。
私は今回、後者の側にいた。
英語話者ではない私には、最初からその文章の中にある感情の混ざり方を読み取ることはできなかった。怒りと悲しみと愛情が、分離せずに同居している。その手触りは、語彙や文法の知識だけでは掴めなかった。
生成AIと一緒に読むことで、少しだけ近づけた。
ただし、近づけたのは、もともとそこにあったものに対してだ。生成AIがその感情を作ったのではない。怒りも、悲しみも、愛情も、最初からその文章の中にあった。生成AIは、私がそこに手を伸ばすための補助線になっただけだ。
補助線という言葉を使ったのは、幾何の証明を思い出したからだ。
補助線は、図形そのものを変えない。もともとそこにある構造を、見えるようにするために引く線だ。正解を作り出すのではなく、正解がすでにそこにあることを示す。
生成AIが人間の言葉に対してできることは、おそらくそれに近い。
言葉を代わりに書くこと。少なくとも、人を悼む言葉においては、それは補助線ではない。図形そのものを別のものに描き替えてしまうことに近い。
言葉を読み解く手助けをすること。それは補助線になり得る。
この区別は、小さいようで、大きい。
私はこれからも生成AIを使うだろう。仕事で使う。調べ物に使う。文章を書くときにも、壁打ちの相手として使うことがある。
でも、今回の体験を経て、一つだけはっきりしたことがある。
人間が自分で引き受けるべき言葉がある。
不完全でも、ぎこちなくても、沈黙に近くても、自分の内側から絞り出さなければ意味を持たない言葉がある。誰かを悼む言葉は、おそらくその最たるものだ。
生成AIは、人間の感情そのものにはなれない。 でも、人間の感情に近づくための補助線にはなり得る。
その境界線を見失わないことが、これから私たちがこの道具と付き合っていくうえで、いちばん大切なことだと思っている。
