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畠山丑雄「とにかく大きい洪庵先生」

◆作品紹介
「私」の語りは歴史=物語(イストワール)の時空を歪ませる。マジックリアリズム? いや、むしろこれは透徹したリアリズムなのだ。
移りゆく時代、近代日本を描くと同時に現代批評ともなっている今回の作品だが、まずはこの語りに身を委ね、大いに笑っていただきたい。(編・てーく)


 洪庵先生は冷製パスタが好物であった。
 一般的にはパスタは日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜で初めて持ち込まれたものと考えられている。しかし横浜港開港が一八五九年、少なくとも洪庵先生は五五年にはパスタを食べていたので、先生は一般的に考えられているより以前からパスタを知っていたわけである。洪庵先生は何だってそんな風だった。一般的に考えていたのでは先生のことはわからない。
 また冷製パスタは現代でこそ一般的であるが、それが広まったのは、1970年代、伝説のイタリア人シェフ、グワルティエーロ・マルケージが来日の際に食したざる蕎麦にヒントを得、オードブルとしてキャビアの冷製パスタ(サラダ仕立て)を試作したのがきっかけであり、安政の世には無論これを食べるものはまるでおらず、そもそも冷製パスタなることば自体が存在しなかった。
 適塾でも洪庵先生が冷製パスタを好むことは周知の事実であったが、それは「冷えたうどんのようなもの」と捉えられており、私もそう思ってはいたが、しかし今から思えばあれは確かに冷製パスタに違いなかったし、洪庵先生もそれを自ら冷製パスタと名指すことこそしなかったが、やはり今から思えば後の世にそう呼ばれることを知っておられるようでもあった。その一件でもわかるように洪庵先生は単に開明的というだけではない、どこか時代を超越しているようなところがあった。
 当時は今と違って冷蔵庫がなかったから、ものを冷やすということも一苦労だった。横浜港が開港したばかりのころは、アメリカはボストンから半年かけて氷を輸入したりもしていた。竹井巌の『日本における氷室・雪室の歴史文化とその現状』という論文にそう書いてある。「氷室 江戸時代」という検索ワードでGoogleのわりと上の方に出てくるので暇な人は読んでみたらいいと思う。他にも日本の各時代における氷室の分布や一九世紀に天然氷の採取・貯蔵・運搬を事業化した米国人フレデリック・テューダーのことなど、いろいろ面白いことが書いてある。ボストンから喜望峰を回って横浜に到着した氷はみかん箱(三〇リットル)ほどの大きさで三~五両(現在の三〇万~五〇万円)もしたようである。私も当時は中津藩から江戸への出府を命じられており、開港したばかりの横浜に見物に行ったものだが氷の値段などはまるで覚えていない。何しろあの時はせっかく死に物狂いで学んだオランダ語ではなく英語ばかりが用いられていたことにショックを受けていたので、氷のことなど考える余裕はなかったのである。
 あの頃は江戸の適塾卒業生たちも蘭学を捨てて英学に移るべきか、皆そのことで悩んでいた。自伝にも書いたが、それはたとえば何年も水練を勉強してようやく泳げるようになったところでその水練をやめて今度は木登りを始めようというのと同じことで、以前の勉強がまるで空になると考えたので、どうにも決断が難しい。また当時の我々からすれば蘭学を捨てるということは、洪庵先生の教えを捨てるにも等しいように感じられた。村田君(後の大村益次郎)なんかは私が一緒に英学を勉強しようと誘っても、にべもなく断られた。のみならず彼は、お前のやっていることは師への裏切りではないのか、とそんなことを言いたげでもあった。言わなかったけど。村田君はいつも肝心なことは黙っている男で、そのへん私と正反対であった。で、私は英学に移り、村田君も私から遅れること数年、ヘボン(ヘボン式のヘボンです)から英語を教わることになった。結局お前も裏切ってんじゃん。マアそのへんのことは自伝に書いてあるから気になる人はそっちを読んでほしい。
 何の話をしていたか。パスタの話である。洪庵先生も冷製パスタをつくらせる際は氷を取り寄せていたが、今言った通り氷は非常に高価なものだった。私の記憶ではしかし洪庵先生は週に一回は冷製パスタをつくらせていた。と、こういう説明をしていると洪庵先生をセレブ気取り、あるいは成金趣味に思う人もいるかもしれない。けれどもそれは違う。むしろ先生はそういうのが一番嫌いだった。金銭というものを根本のところで嫌っていたのである。私も小さい頃は貧乏で、兄が病死したときなんかは借金で家財を一切合切売り払ったりもしたからその気持ちはよくわかる。若いうちから金に困らされたものは金を崇拝するか軽蔑するか極端に傾きがちである。だからこそ洪庵先生もそんな金の遣い方をして平気だったのである。適塾でも洪庵先生は必要最低限の月謝しかとらなかった。多く見積もっても年間で五両いくかいかないか、今の感じで言えば四〇万に満たないぐらいである。それで門人たちは衣食住もみてもらっていたのだから多分塾の経営は基本的にはとんとん、あるいは持ち出しだったのだろう。洪庵先生が往診を熱心に続けていたのは無論医師としての志もあったが、そのような経済的理由もあったに違いない。なぜそこまでして塾を経営したかと言えば、それはもう国家に有為な人材を輩出するため、洪庵先生が講義でも手紙でも何度も繰り返したことばで言えば「国のため、道のため」であった。そのためには先生は時間も金も惜しまなかった。しかし一方ではそんな風に毎週のように氷を取り寄せ冷製パスタを食べたりもした。そのあたりの独特のバランス感覚がまた門人をして先生を崇敬せしめたのである。
 洪庵先生はいつも大きな音を立ててパスタを啜った。というと、今の人、特に若い人なんかは、フーンまあ昔の人ですからね、と生暖かい大らかさの底にほんのりと社会進化論あるいはホイッグ史観をしのばせて相槌を打つかもしれないが、その気持ちはよくわかる。ていうか我が国のホイッグ史観の受容に関しては私がけっこう積極的に貢献したからね。『西洋事情』を読んでみたらそのへんのこともよくわかる。もっとさくっと知りたい人はウィキペディアのホイッグ史観の「日本への影響」の項などを参照すればよろしい。それに対する反省なんかもあるにはあるが、話がややこしくなるから今はしない。
 洪庵先生がパスタを啜ったのは、パスタを食べる際先生は常に極端なまでに猫背になっていたからである。一度試してみればわかるだろうが、極端な猫背になると口腔が咽頭よりも下になるため、パスタは啜らなければこれを呑み込むことはできない。
 ではなぜ先生はパスタを食べる際極端な猫背になっていたか。
 先生がとにかく大きかったからである。どのくらい大きかったかというと、誰も測ったわけではないが、そうね、おそらくは3㍍60㌢あるかないかといったところ、どれだけ低く見積もっても3㍍50㌢はあっただろう。そのためあぐらをかくにしろ椅子に座るにしろ、皿から口元までの距離が非常に遠く、その間にたびたびフォークから麺がすべり落ちてしまい、となると取れる対応策は二つ、皿を持ち上げるか上記のように極端な猫背になり麵を啜るかであるが、前者は我々門人の間でも当然マナー違反との認識があったが、後者はそもそも我々はパスタを啜ってはいけないことはおろか先生が食べているものパスタであるということすら認識しておらず、そのため先生は後者の対応策を取られたのである。先生はいつも我々からどう見られるかを気にしていた。
 先生はパスタを食べるとき以外も、適塾内で立っているときはいつも天井に頭をぶつけないよう極端な猫背をされていたし、下から見上げると先生の顔がこちらを向いて天井を這っているようにも見えた。我々門人がうっかり授業中に居眠りなどしてしまうと、顔に冷たい雫が落ちてきて、目を覚ますと大抵天井に先生の顔がこちらを向いて這っており、何とも言えない微笑みをした口の端から涎がこぼれていたのをよく覚えている。また先生は思想上の諸問題や学問研究において新たなアイデアを思いつくと「ユリイカ!」と叫びながら飛び上がってしまう癖があり、適塾は安普請ではなかったが寛政の中船場大火後に再建されたもので当時で既に築六〇年以上が過ぎていたため早い話がそこそこぼろくなっていて、また先生の頭部は非常に堅固で、血気盛んな門人が刀を振り回した時なども大抵はヘッドバット一発で伸してしまうほどだったため、時折は天井に穴があいてしまい、その翌日など先生はますます猫背になってしまうのだった。
 先生は塾内ではそんな風にいつも極端な猫背になっていたから、外の通りをぴんと姿勢を正して歩くときなどは、いっそう大きく見えたものである。というか実際アンリーゾナボウにでかかった。
 私が初めて先生にお会いしたときもまずはその大きさに驚いたものだった。門人どもに、
「先生は大きいね」と言うと、誇らしげに、
「そうだろう。あれほどの器量の人は見たことがない。大人物だよ」などと誇らしげに言う。
 初めのうちは私はそれで納得していたものだったが、しばらくすると門人たちの口ぶりに違和感を覚えるようになった。どうも彼らは先生の実際的な大きさ、つまり器量が大きいとか人物が大きいとかそういう内面あるいはイメージの大きさではなく単純な物理的な大きさ、に気付いていないのではないかと思ったのである。
 実際私が、先生は一一尺八寸、あるいは一二尺はあるのではないだろうか、と具体的な数値を出しても、福沢は面白いやつだな、みたいな感じでとあくまでジョークとして受け止められたり、乾いた笑いが返ってきたり、あるいは単に無視されたりもした。「肩幅は確かに大きいね。なるほど先生は日本のプラトンと言うわけだ」などと的外れなことをいうものもいた。村田君なんかは、先生をバカにしているのか、と大変な剣幕でまるで話にならない。
 洪庵先生の通夜での村田君と長州の攘夷戦争を巡っての口論については自伝でも書いたので知っている人も多いと思うが、実はあれもそもそもの原因は私が先生の大きさについて触れたからである。久しぶりに拝謁した先生は遺体になってもやはり大きく、というかむしろ遺体になったからこそその大きさはごまかしようもなく、私は棺に入りきるかどうか心配になり、急いで特注の棺を注文しなければならないのではないかと言ったが、みんな曖昧な反応をするか無視するかで、村田君は私を睨んで、その表情には怒りと呆れと侮蔑が混じっており、お前はこの期に及んでまだそんなことを言っているのか、と言いたげだった。言わなかったけど。
 と、このように書いているとあたかも私が、触れちゃいけない感じのことに触れてしまう、どこの教室にも一人はいるような残念ちゃん、ボーダーちゃんなのではないか、と疑うものもいるだろう。確かに外見的特徴の指摘というのはよっぽど慎重に行わなければ基本的に差別的なものであり、だからこそ私が言うことはスルーされたのではないか、と考えるのは今の時代あえてPCということばを持ち出すまでもなく、常識的な反応である。しかしそれはあくまで今の時代の話であり、当時はまだPCということばもなく、そのような常識もなかった。がために相手に著しい外見的特徴があればこれを指摘する、弄る、というのはごくフツーのことで、今の時代でもこれをやってしまい顰蹙を買い、しかし社会的あるいはその共同体内での地位があるためそんなに指摘されてこず、顰蹙を買っているのにも気づかず、けっこうウケてる、と思い込み、地位でのごり押しの利かぬような広い場所、テレビやインターネットでもそんな発言をしてしまい、当然集中砲火を浴び、しかし本人は今までそれでやってきたのに、急にそんなことを言われて当惑・反発するという、化石のようなおっさんは少なくないが、私はそういうおっさんたちの気持ちがよくわかってしまう(差別はNO)、というのも今言ったように当時の安政、ではなくそのときは文久であったが、文久の世ではそういうのがフツーだったからである。私も慶應義塾時代に『×××娘』というタイトルの寓話をあくまで窮理啓蒙のつもりで書いたことがあって、しかしこれはタイトルもそうだが内容も今の時代からするとちょっとないよねという感じのもので、すべてを時代のせいにするつもりはないが、やっぱり時代というものは確かにあったのである。かといって昔より今の方が進歩してるよね、と簡単に結論付けるのはやはり社会進化論・ホイッグ史観に繋がるのでこの辺は慎重に考えなくてはなりません。
 話が逸れた。私の度重なる「先生は物理的に大きい」発言に門人が反応しないのは、私が残念ちゃん、門人たちにPC意識があったからではないか、とそういう話だったが、当時はそんなPC意識がなかったのは今申し上げた通りで、実際門人たちも、洪庵先生の猫背の物まねなどをよくしていた。しかし彼らはなぜ洪庵先生が猫背にならねばならなかったのか、ということにはまるで考えが及んでいなかったのである。
 またもし仮にそれが猫背は一般的なことなので指摘してもいいが、先生の大きさは一般のレベルを超えているため指摘してはいけないという歪んだPC意識だとして、私がそのあたりのラインに気づけない残念ちゃんだったとしても、今は実際的な問題、つまり遺体が棺に入りきらないのではないか、はみ出すのではないか、という問題があるので、それは話し合わなければまずいのではないか。臭いものには蓋ということばがあるが、今はその蓋ができないのだから話し合わなければまずいのではないか。とそう思ってあれこれ私が言っていると、だんだん村田君の機嫌が悪くなってくる。コリャまずい、話を変えようと思い、長州の攘夷戦争のことを持ち出すと、後は自伝でも書いた通り、村田君の剣幕は大変なもので、私は席を外さざるを得なかったのであるが、これは無論その前段の私の発言に村田君の怒りは向けられていたのである。
 私はそれ以上棺のことをとやかく言わなかった。マアはみ出したって何とかなるだろう、それにそのへんのところは奥さんの仕事であり、出過ぎた真似は良くないと考えたのである。
 先生の奥さんが先生の大きさに気づいていたか? それは私にはわからない。今の人からすれば、いやいやさすがに夫婦であればやることやるときに否が応でも気が付くだろう、と考えるかもしれない。実際的な諸問題も発生するだろうしね。しかしあの時は女でも夫一人しか男を知らぬというものは多く、先生の奥さんもおそらくはそんな感じだった。ただ奥さんは男の裸は見慣れていたはずである。というのも適塾は男所帯、今で言う男子校のノリ、が強かったから酒を呑んで真っ裸になるのはよくあることで、私もあるとき酒を呑んで真っ裸のまま二階に寝ていて、階下から呼ばれて梯子段を飛び降りると、そこにいたのは下女ではなく先生の奥さんである。私はフルチンのまま、しかも寝起きのことだったから激しく勃起しており、座ってお辞儀もできず、奥さんも黙って引っ込んでしまった。奥さんの普段は鋭敏な瞳が一瞬の当惑を経、遠のきを以て私を捉まえたのをよく覚えているし、今でも適塾のその梯子段に立つと赤面・勃起してしまう。マアそのへんのことも自伝に書いてあるから(勃起したことは書いていない)ここではくだくだ言いはしない。しかし先生と比べられたのだとすれば奥さんはそれを勃起とは思わなかったかもしれない。そんなことを考えるとほっとするような少し寂しいような気持がする。
 少し私の話をしすぎた。ともかく彼らがどのようにかして実際的な諸問題を乗り越えていたのは、子どもが一三人いたことからも明らかである。一三という数字は今だとまず間違いなく多産DVの疑いをかけられるだろうが、多産=多産DVではないし、本人からの訴えを聞くことが物理的に不可能である以上、史料を参照したとてどちらの側の主張も可能であるので、これはどこまで行っても、他の過去の多産夫婦同様、疑いがある、という次元の話である。そもそも現代の尺度で過去を測ることはできない。
 先生が子供をたくさん拵えたのは、適塾経営同様、国家に有為な人間を一人でも多く輩出するためだった。おおやけのためであった。だから房中の行為においても先生は公であった。奥さんもまたそんな先生をよく理解し、いつも先生の意志に沿おうとしていた。だから門人たちはみな彼女のことを「おっかさん」と慕っていた。私も先生の死後も大阪に来ることがあれば必ず彼女のところにより、彼女も私を我が子のように愛してくれた。彼女は先生の死後もその遺志に殉じるように緒方家の子供たちを育て上げただけでなく、門人たちを訓育し続けたのは周知のことである。しかし彼女が房中の行為においても先生同様公であったかはわからない。もしそうでなかったとしたら、それは国家による強姦であるし、もしそうだったとしたら、それもまた一つの悲劇である。奥さんにはわたくしを知って欲しかった。
 また話が逸れた。要するに奥さんが先生の大きさをどう考えていたのかはよくわからない、ということである。では先生自身はどうであったか?
 私は直接訊いてみたかったが、適塾にいた頃はできなかった。私以外に誰も問題意識を共有するものがおらず、私としても珍しくそういう空気に懐柔され何となく触れたらまずいのかなとも思っていたし、もし直接訊いてみて先生に怪訝な顔でもされたらと思うと恐ろしかったのである。
 私は元来ひとに嫌われることを気にしたことはない。それは何も私が特別ということではなく、あの時代はみなそんな感じだった。時代が動いて、ひとも動いていたからである。しかし私にとって先生だけは別だった。先生は蘭学の一大家であったが決して偉ぶらず、誰にも分け隔てなく接し、下級藩士の私を塾頭に取り立ててくれたばかりか、腸チフスのときなどは熱心に看病してくれた命の恩人でもある。私は先生にだけは嫌われたくなかった。私がそんなことを思ったのは後にも先にも先生一人である。
 しかし適塾を出てから一度だけ先生に直接訊いたことがあった。文久二年の年の暮れ、渡欧後にウェブスター辞書を携え、先生のお宅を訪ねた際のことである。当時先生は幕命を受け江戸で奥医師と西洋医学所頭取を兼務し、下谷御徒町に屋敷を構えていた。
 私は渡欧前に渡米もしており、さんざん大きな人間は見ていたが、先生にお会いするとその大きさに改めて驚いた。だから先生に欧米はどうであったかと単簡に訊かれたときも、
「先生より大きな人はおりませんでした」とお答えした。先生は穏やかな笑みを浮かべたまま二重瞼の細い瞳で私を見ていた。私には先生が私の答えをどちらに——心理的なものか物理的なものか——とったのかわからなかった。「江戸はどうですか」
「こっちは決まりばかりが多くてね。大阪の町暮らしが懐かしいよ」先生は客間の隅に置かれたガムランを顎で指した。「ちょっと鳴らしただけでも注意された」
 先生は適塾ではよく気分転換にガムランを演奏していた。先生が音を鳴らし始めると門人たちが集まってきて、その音色に耳を傾けたのをよく覚えている。そういえば最近適塾の後身にあたる大阪大学の文化祭で外国語学部の学生がガムランを演奏するのを聞く機会があり、先生のことを懐かしく思ったものだった。近頃では何を見ても先生を思い出す。
「辞書を見せてください」と先生は言った。
 私は風呂敷をといて、ウェブスター辞書を先生に差し出した。私が手にしていた時はずっしりとしてとても大きく思えたウェブスター辞書は先生が手に取ると手帳のようにとても小さく見えた。先生はいつものように背を丸め、ページをめくりながら食い入るように見つめ、次々と私に質問し、私は意気揚々とそれに答えた。
 私は蘭学から英学に移ったのだから師を裏切ったと言われても仕方ないかもしれない。実際私は先生に申し訳ない思いがした。許しを請いたかった。本当はそのために先生を訪ねたのである。しかし同時にそんなことをすれば先生を侮辱することになるとも思っていた。先生は私情のために蘭学を教えていたのではない。公のためである。私もまた公のために英学に移ったし、先生もそのことを理解していた。もしそこで私が頭を下げてしまえばそれは私情になる。のみならず先生の教育すら私情に帰してしまうことになる。だから私は努めて意気揚々と先生の質問に答え続けた。先生もまた少しも恨みがましい様子を見せなかった。己が生涯をかけて学んだ蘭学が無惨にも打ち捨てられていくだろうことを、自らの歴史的使命の終わりが近づいていることを、先生がわからなかったはずがない。けれども先生はそれが国のため、道のためならば喜んで多とする人物だった。先生がそのようにどこまでも公である以上、私もまた公であるほかなかった。それは無論私にとってはやせ我慢だった。先生はかつて私がそうしていたように私に教えを請い、私はかつて先生がそうしていたように惜しみなく答え続けたから、何も知らぬものが我々の様子を傍から見れば師弟を取り違えただろう。けれども誰もそんなものはいなかった。ただ一人奥さんを除いては。
 先生はふと辞書から顔をあげ、 
「どうして泣いているのですか」と訊いた。それで私は自分の頬を熱いものが伝っていくのに気が付いた。先生のところを訪れたのは昼過ぎだったが、小さな庭には赤い日がいっぱいに差していた。私は先生がかつてないほど大きく見えた。先生と長く向かい合っているときはいつもそうだったが、辞書やガムランや、床の間のパステルグリーンの唐草模様の大皿や日本刀など、部屋の中のあらゆるものの遠近が狂って見えた。日本刀なんかは果物ナイフのように見えた。私はかつてないほど自分が小さく感じられた。
「先生、なんか大きくないですか」その問いは先生の沈黙にほだされるように私の口をついて出た。
「あなたからそう言われれば嬉しいが、正直なところあなたの方が私よりずっと大きな人間ですよ。特にこれからの英学の世においては」
 先生のことばには一切の皮肉や妬みはなかった。先生がどこまでも正直に話していることがわかっていたから、
「その、内面的な話ではなくて」と私も正直に切り出そうとした。「いや無論先生の内面の大きさは重々承知の上で」
 先生はもともと細い瞳をさらに細めた。私は覚悟を決めた。
「先生、物理的に大きくありませんか? 」
 すると先生はいつもの、すべてを受け入れて満足したような、また同時に諦観したような穏やかな笑みを浮かべ、
「私は自分の大きさを測ったことがありません」と言った。「だからわかりません」
 私はそれ以上訊きはしなかった。そうして私が先生にお会いしたのはそれが最後になった。先生は文久三年六月一〇日に突然喀血して死んだ。その歴史的使命の終わりとともに生涯の終えたのである。先生は最後まで公であった。

 今となってはもう先生を測ることはできない。ただ時折各地の洪庵先生像を見て思うのは、先生はあんなに小さくなかったということである。その確信だけが今もなおどんどん大きくなっていく。洪庵先生はとにかく大きかった。そうしてそのことに気が付いているのはおそらくは私だけだった。その私が測らなかったのだから洪庵先生の本当の大きさを知っているものは誰もいない。誰も知らない。


◆作者プロフィール
畠山丑雄(はたけやま・うしお)
小説家。「地の底の記憶」で第52回文藝賞を受賞。


*次回作の公開は2023年6月14日(水)18:00を予定しています。

*本稿の無料公開期間は、2023年6月14日(水)18:00までです。それ以降は有料となります。

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