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おめでとう、あなたは"快適な農奴"です

井戸を奪われた者たち 〜水を買い続けるか、井戸を掘るか〜

あなたは、最後に「音楽」を買ったのは、いつだったか。
スマホには、何千曲も入っている。学生のころ夢中になったあの曲も、いつでも、どこでも、すぐに聴ける。
なのに——
その一曲すら、あなたは「持って」いない。

借りているだけだ。

Kindleで読んだあの本も、Netflixで観たあの映画も、同じこと。
支払いを止めた瞬間、何千曲は一瞬で消え、本棚はからっぽになり、最近の車なら、月額で温めていたシートまで、ある朝とつぜん、冷たくなる。

私たちはそれを知っている。
知っていて、なお、平気で払い続けている。
月末になると、何にいくら吸われているのか、もう正確には思い出せもしない。

なぜだろう。

前回、私は「水を買い続けるか、井戸を掘るか」という問いを置いた。

今回は、その水を売っている相手の顔を、できるだけ正確に見にいく。
そして最後には、その水と井戸の、いちばん古い地層まで降りてみたい。
少し長い旅になる。
でも、急がず行こう。


第一部 奪われた者たち

その息苦しさには、名前がある

ギリシャの元財務大臣、ヤニス・ヴァロウファキスは、この感覚に名前を与えた。
テクノ封建制
ただし先に言っておくと、これは経済学者たちの間で、いまも激しく争われている見立てだ。

彼の見立てはこうだ。
資本主義は、静かに死んだ。
私たちが寝ている間に。


かつて利潤を生んだ「市場」は、いまや少数の巨大プラットフォームが所有するデジタルの荘園に置き換わった。
Amazonも、Appストアも、そこは"市場"の顔をしているが、本当は誰かの私有地だ。
出店者は売上の三割を「場所代」として納め、私たちユーザーは
——気づかぬまま、毎日タダで土地を耕している。
検索し、投稿し、クリックし、データという作物を地主に献上しながら。

彼はこう名づけた。
地主をクラウド領主、三割を取られる商人を臣下、そして無償で富を生む私たちを
——クラウド農奴と。

八〇〇年前にも、同じ顔があった

江戸時代の東北に、安藤昌益という思想家がいた。
ほとんど忘れられた人だ。
彼は世の中を二種類の人間に分けた。
直耕する者——自分の手で土を耕し、食うものを作る者。
そして、不耕貪食の徒——耕さず、貪り食う者。武士、僧侶、商人。
作らないのに、最もいい思いをする側。

戦後、この埋もれた思想家を発掘した歴史家がいる。
E・H・ノーマン
彼は昌益のこの一句を、「封建的収奪のもっとも正確な解剖」と評した。
耕す者から、耕さぬ者が奪う。
土地に縛りつけ、逃げられなくして、奪う。
そして奇妙なことに、奪われる側は「これが世の自然な秩序だ」と信じ込まされる

——作物がデータに、年貢がサブスクに、荘園がクラウドに変わっただけで、顔つきがよく似てはいないか。

待て、これはただの資本主義では?

ここで、正直な読者ほど、引っかかるはずだ。

「ちょっと待て。年貢を取り立てているのは、国家じゃない。ただの一企業だ。封建領主は国を支配していた。Amazonは国家じゃない。だったらこれは、封建制でも何でもない——ただの、ちょっと行儀の悪い資本主義じゃないのか?」

鋭い。
そして、その直感は、半分は完全に正しい。

事実、世界の一線の経済学者たちが、まさにそれを言って反論している。
「地代を吸い、独占し、競争を殺すのは、封建制の特徴じゃない。資本主義がずっとやってきたことだ」と。
彼らは警告する——これを"封建制"なんて呼んで「資本主義は死んだ」ことにしてしまうと、今も生きて私たちを締め上げている資本主義が、批判されないまま野放しになる、と。

だから、テクノ封建制という言葉に酔ってはいけない。
これは確定した真理ではなく、いま戦われている論争だ。
だが、残り半分で、足元がひっくり返る
ところが——だ。

「封建領主は国家だった」という、その前提のほうが、実は間違っている。

歴史を開くと、こう書いてある。
中世の封建制で年貢を取り立てていたのは、国家ではない。
私的な領主だった。
むしろ、中央の国家権力がバラバラに崩れて、力が私人の手に分散した状態こそが、封建制そのものなのだ。
フランスでは、王の権力が崩れたあと、城を持つ者たちが、本来は国の特権だった通行税も、裁判権も、ぜんぶ私的に分捕った。
それが封建制の始まりだった。

つまり——「取り立てているのが私企業だから封建制じゃない」という反論は、そう簡単には成り立たない。
封建制の有力な定義の一つは、権力が国家から私人の手にばらけていく、その分散のほうにこそ核心を見る。
この見方に立てば、私企業が国家の役割を奪って分け取る現象も、封建的と呼びうることになる。

では、本当の争点はどこにあるのか。
たった一点。
何で人を縛るかだ

昔の封建制は、暴力で縛った。
剣、検地、逃げれば斬るという脅し。
外から、力ずくで。

では、いまは?
プラットフォームは剣を持たない。
代わりに、規約を持つ。
アルゴリズムを持つ。
そして、アカウントを凍結し、あなたをこの世界から"追放"する権利を持つ。
それは暴力ではない。
だが、それは本当に、ただの「価格」や「契約」と言い切れるものだろうか。

新しい服を着た、古い骨

ここに、ノーマンが残したもう一つの言葉が効いてくる。
封建遺制
ノーマンが日本史を見つめて気づいたのは、こういうことだった。

封建制は、近代になって「死んだ」のではない。
新しい時代の内側に生き残り、内側からそれを歪め続けた、と。
新しい服を着た、古い骨。
これを、現代に当ててみる。
すると、さっきの論争を、別の角度から捉え直せる。

テクノ封建制とは、「資本主義が死んで封建が戻ってきた」ものではない。
そうではなく、資本主義の内側で、ずっと眠っていた封建の論理が、デジタルの力でふたたび目を覚ましたもの——そう捉えればいい。

こう捉えれば、「まだ資本主義だ」という反論も、「いや封建だ」という主張も、どちらの指摘も視野に入れられる。
そして、江戸の昌益から、ノーマンから、いまのクラウド領主まで、八〇〇年の一本の串が、すっと通る。

鎖は、暴力から、便利さへ
だとすれば、昔と今で、決定的に変わったものは、ひとつだ。
鎖の正体である。

かつて農奴を縛ったのは、暴力だった。
いまの私たちを縛るものは、違う。
それは——便利さだ。

ワンクリックで届く。
どこでも観られる。
考えなくていい。
気持ちがいい。
誰にも強制されていない。
むしろ私たちは、自分から進んで、その鎖を選んでいる。
月額という名の、やわらかく、温かい鎖を。
歴史上、もっとも快適な収奪


第二部 誰の懐に、年貢は入るのか

年貢の、行き先だが——便利さで縛られた私たちが、毎月せっせと納めるその年貢は、いったい最後に、誰の懐に入るのだろう。

素朴に考えれば、答えは「巨大企業」だ。
Amazon。
Google。
Apple。


でも、もう半歩、踏み込んでみよう。
会社が儲けたその金は、最終的に誰のものになる?
社長か?
違う。株主だ。
これは陰謀でも何でもない。
資本主義の、いちばん基本の仕組み。
会社は株主のもの。
利益は、最後は株主に流れる。

では——世界中の巨大企業の、株主名簿をめくってみたら、どうなるか。
そこには、奇妙な光景がある。
いつも、同じ名前が、並んでいる。

巨大な資産運用会社が、三つ。
ブラックロック。
バンガード。
ステート・ストリート。

この三社を合わせると、アメリカの主要五百社の株主総会で、平均しておよそ四分の一の「票」を投じている(ハーバードの研究者の推計だ)。

正確に言うと、三社が自分で「保有」している株の割合は、それより小さい。
それでも、株主総会で行使する「票」で見ると、四分の一に届く——この差が何を意味するのかは、あとで効いてくる。

ただし——三社がいつも口裏を合わせて、同じように投票している、という意味ではない。
そこは誤解しないでほしい。
むしろ近ごろは、三社の投票が割れる場面のほうが増えている。
それでも、これだけの票が三つの会社に集まっていること自体が、近ごろ問題になり始めている。

四分の一の票を、たった三社が。
これは、誰かの妄想ではない。
少数の運用会社に株主の力が集まりすぎていないか——独占禁止や競争政策の場でも、現実の論点になりはじめている話だ。

……だが、ここで、声を潜めてはいけない

こう書くと、背筋がぞくっとして、こう続けたくなる。
「やはり、世界は一握りの者に操られていたのだ」と。

止まろう。
ここが、分かれ道だ。

正直に言う。
「少数の金融家が、ずっと昔から世界を裏で操っている」という物語は、昔から、くりかえし語られてきた。
だが、この手の話は——歴史を見れば、差別や暴力を正当化する口実として何度も使われてきた、典型的な陰謀論の鋳型だ。
事実の指摘ではなく、敵をひとつの集団にまとめあげるための、物語の「型」である。

そして実際、その三社にしても、創業はせいぜい一九七〇〜八〇年代。古い血筋との、つながりは見つからない。
だから、ここで陰謀の扉を開けてはいけない。
開けた瞬間、見えていた真実まで、ぜんぶ嘘になる。

本当の話は、陰謀よりも、ずっと静かで、ずっと怖い

では、何が真実なのか。

その三社は、秘密結社ではない。
むしろ、正反対だ。
彼らが運用している巨大な金は、どこから来ていると思う?

——あなたの、年金だ。あなたの、積立だ。

私たちが老後のために、こつこつ積み立てる。
そのお金が、世界中の大企業の株を、買い支えている。
つまり、巨大企業の本当の出資者は、名もなき私たち数千万人だ。

なのに。
その株が持つ「票」を投じるのは、私たちではない。
私たちのお金を預かった、ごく少数の運用会社だ。

気づいただろうか。
これは、最初の話と、よく似た形をしている。

データを生むのは、私たち。
集めるのは、プラットフォーム。


富を出すのは、私たち。
議決権を行使するのは、預かった運用会社。


陰謀ではない。
制度の設計が、そうなっているのだ。
私たちは、この世界の富の、まぎれもない出し手でありながら——その株が持つ「票」をどう使うかは、制度上、お金を預かった側に委ねられている。
受益者である私たちが、直接は投票しない仕組みになっている。
誰かが裏で奪っているのではない。
決める力は、制度に沿って、少数の側へ集まっていく。

あなたのお金も、借りものだった

最後に、もうひとつだけ。
足元を、見てほしい。
あなたの財布の中の、その紙。
あれは、もともと何だったか。

数百年前、人は金(ゴールド)を、金匠に預けた。
金匠は、預かった証に「この紙を持ってきた人へ、金をお返しします」と書いた預り証を渡した。
やがて、人々は重い金を持ち歩くのをやめ、その軽い紙のほうを、お金として使いはじめた。
それが、紙幣の祖先だ(少なくとも、いまの私たちが使う紙幣の、西洋での祖先は)。

今のお札にも、その名残がある。
イギリスの紙幣には、今も小さくこう書いてある。
「I promise to pay the bearer(持参人にお支払いします)」と。

ただ——ひとつ、決定的なことが変わった。
もう、金とは交換してもらえない。
引き換えるべき金は、とうの昔に、約束の向こうへ消えた。
私たちが握りしめているのは、引き換えられない、引換券だ。

「持っている」と思っていた、そのお金さえ。
よく見れば、誰かの「約束」を、信じて持たされている紙にすぎない。


第三部 最初の井戸を囲ったのは、誰か

ここまで来て、私はひとつ、足元が気になって仕方がなくなった。
サブスクも、データも、株主も——ぜんぶ「お金」を通して回っている。
その引換券=お金は、いったい、いつ、誰が、なぜ作ったのか。
最初に「水」を数えて、値段をつけて、税をかけたのは、誰だったのか。
掘ってみると、いちばん古い地層に、見覚えのある顔があった。

なぜ、引換券は「国家」のものになったのか
さっきの金匠の話には、続きがある。
最初、紙幣に似たものを発行していたのは、国ではなかった。
金匠であり、町々の民間の銀行だった。
誰もが、自分の「預り証」を刷れた時代があったのだ。

だが、それは何度も、崩れた。
紙だけ刷って、いざ金と換えようとすると、店はもぬけの殻。
日本でも、各藩が出した紙のお金が、紙くずになったことがある。
民間がてんでに引換券を刷る世界は、要するに、信用できなかった。

そこで発券の権利は、だんだんと一つの場所——中央銀行——に集まっていく。
動機は、通貨をひとつに統一すること、信用を安定させること、そして——いちばん身も蓋もないのが、戦争の費用を調達することだった。

世界最古級の中央銀行、イングランド銀行は、一六九四年、フランスとの戦費を、民間の出資者が国王に貸し付ける見返りに、紙幣の発行権をもらって生まれた。

戦争の借金が、中央銀行を産んだのだ。(もっとも、この発行権は最初から独占ではなかった。他の銀行も長く紙幣を刷っており、イングランド銀行が発券を完全に独占しきるのは、それから二百年以上も後のことだ。歴史は、物語ほどきれいな一直線では進まない。)

お金の価値は、どこから来るのか

ここで、ひとつ、根本の問いにぶつかる。
そもそも、引き換えるべき金が消えたのに、なぜ、ただの紙が「お金」でいられるのか。
何が、その価値を支えているのか。

学校では、こう習う。
昔むかし、人々は物々交換をしていた。
魚と米を交換するのは不便だから、誰もが欲しがるお金が発明された、と。

ところが——
一部の人類学者は、こう指摘してきた。世界中を探しても、「お金が生まれる前に、社会まるごとが物々交換だけで回っていた社会」の実例は、ほとんど見つからない、と。

ある研究者は「純粋な物々交換だけの経済を、実際に記述できた例は、ただの一つもない」とまで書いている。(もっとも、ここには反論もある。経済学者の中には「物々交換の話は、お金が生まれる論理を説明するためのモデルであって、歴史の記述ではない」と返す者もいる。だからこれも、決着した話ではない。)

では、何がお金に価値を与えたのか。有力な説の一つは、こうだ。

——税金だ。

国が「税は、この紙で納めよ」と決める。
すると、国民は、税を払うために、その紙を欲しがらざるをえない。
みんなが欲しがるから、それは「お金」として通用する。
お金の価値の源は、金や銀そのものではなく、「これで税を納めねばならない」という、国家の強制のほうにある、という見方だ。

この見方は、貨幣国定説などと呼ばれる。
ただし、これも経済学のなかでは、いまも主流とは言いがたい少数派の見方であることは、正直に断っておく。
お金の起源は、いまも決着していない。
だが少なくとも、「便利だから自然に生まれた」という素朴な物語よりは、ずっと根が深い。

もしこの見方が正しいなら——お金とは、最初から、国家と税と、分かちがたく結びついて生まれたことになる。

最初の国家は、最初の帳簿だった

その手がかりを探して、もっと古い地層まで降りてみよう。人類が最初に文字を刻んだ、いちばん古い記録まで。
メソポタミア。五千年以上前。
人類が最初に粘土板に刻んだ「文字」は、詩でも、神話でも、恋文でもなかった。

帳簿だ。

誰が、どれだけの穀物を納めたか。
倉に、何がどれだけ入っているか。
誰に、どれだけの貸し借りがあるか。
神殿や宮殿が、そうした出入りを記録するために、文字を発明していった。

文字より前に、まず「数えること」「記録すること」があった。
最初の文章は、詩ではなく、穀物や物資の出入りを数えた、行政と経済の記録だったのだ。
誰が何をどれだけ納めたか——のちの徴税につながる、税のような取り立ての記録も、そのなかにあった。

ここに、不気味なほど鮮やかに、四つのものが、同じ時、同じ場所で、いっしょに立ち上がってくる。

国家。文字。お金。そして、徴税。

どれが先だったかは、まだ議論がある。だが、これらが「同じ卵」から孵った双子のようなものだ、という見方は、いまの考古学でも、有力だ。

思い出してほしい。
前編で、私はこう書いた。
「最初から、水は誰かに数えられ、税をかけられていた」と。

それは、まったくの比喩でもなかったらしい。
文明のいちばん古い記録そのものが、「誰が、何を、どれだけ納めたか」を数えた、行政と経済の帳簿——のちの徴税につらなる記録だったのだから。

そして、現代。

引換券は「無から」生まれている

さて、ここまでは過去の話だ。だが、引換券をめぐる、いちばん奇妙な話は、実は、今この瞬間に進行している。

あなたが銀行にお金を預ける。
銀行は、それを誰かに貸す。
——そう習っただろう。
預かったお金を、又貸ししている、と。

ところが、これは、半分間違っている。

イングランド銀行が二〇一四年に、自ら公式の論文で説明している。
ドイツの中央銀行も、二〇一七年に、同じ説明をしている。

銀行は、誰かの預金を又貸ししているのではない。
お金を貸すその瞬間に、新しいお金を——いわば「無から」作り出している、と。

正確に言おう。
あなたが銀行から百万円を借りると、銀行はどこかの金庫から百万円を持ってくるのではない。
あなたの口座に「100万円」と数字を打ち込む。
その瞬間、この世に百万円が、新しく生まれる。
返済されれば、その百万円は、また消える。

教科書の「又貸し」モデルは、因果が逆だったのだ。
——と書くと、また、あの扉が開きそうになる。
「では、銀行は無限にお金を刷って、世界を支配できるのか」と。

落ち着こう。
まず、「無から」というのも、じつは少し言いすぎだ。
銀行は、「あなたが将来きっと返す」という約束——これも一種の資産だ——を、いま使える預金に変えている。
完全な無から生んでいるわけではなく、まだ存在しない未来の返済を、現在のお金に翻訳している、と言うほうが近い。

そして、好き勝手に作れるわけでもない。
自己資本の規制、貸し倒れのリスク、預金者が引き出す現金の制約——幾重ものブレーキがかかっている。
何より、貸したお金が返ってこなければ、損をするのは銀行自身だ。
「無限に刷って支配する」という飛躍は、ここでも、陰謀の側に半歩、踏み外している。

事実は、もっと地味で、もっと深い。
私たちが「お金」と呼んでいるものの大半は、もはや金貨でも、紙幣ですらなく、銀行が貸し出しのたびに作り、返済のたびに消す、「数字」なのだ。
引換券は、ついに、引き換える実体を完全に手放して、純粋な約束だけになった。

私的な引換券の、復活
そして、ぐるりと一周して、現代。
最近、あなたの財布の中で、現金が減っていないだろうか。
代わりに、スマホの中に、いくつもの「残高」がある。

電子マネー。
ポイント。
○○ペイ。
これは、何だろう。

——私的な引換券の、復活である。
かつて金匠が刷っていた、民間の預り証。
あれが、デジタルになって、戻ってきた。
あなたがチャージした瞬間、企業はそのお金を預かり、あなたには「残高」という引換券を渡す。

ここで、大事な切り分けを、一つだけ。
これを間違えると、せっかくの理解が、陰謀論に転げ落ちる。

銀行と、電子マネーの会社は、違う。
銀行は、さっき見たように、貸す瞬間にお金を「作れる」。
だが、電子マネーの会社は、お金を作れない。
あなたが千円チャージすれば、その裏には、きっちり千円分の裏付けがある。
日本では法律で、未使用の残高の少なくとも半分以上(送金できるタイプなら全額)を、別途とっておくよう義務づけられている。
「集めた金を、勝手に全部、別のことに回す」ことは、できないようになっている。

だから、「○○ペイは現代の錬金術だ」というのは、言い過ぎだ。
正確には、「監督つきの、部分的に裏付けられた、私的な引換券」。
——少し長いが、これが事実に忠実な呼び方だ。

ただし、見過ごせない点も、ある。
これらの残高は、銀行預金とは違って、預金保険——銀行が潰れても一定額が守られるあの仕組み——の対象ではない。
発行した会社が倒れたとき、守られるのは、法で取り分けられていた部分まで。
前払い式の場合、取り分けの義務は残高の半分以上だから、最悪の場合、戻ってこない分が出るおそれもある。

日常で握りしめているこの引換券は、銀行預金より信用の地盤が、ほんの一枚、薄い。

そして、もう一つ。
これらの会社の本当の狙いは、たぶん、チャージされたお金そのものではない。
あなたが「どこで、何を、いつ買ったか」というデータだ
決済を入口にして、データを集め、広告や与信で回収する。

——気づいただろうか。第一部に、戻ってきた。
データという作物を、私たちは、今日も献上している。
ただ、荘園が、スマホの決済画面に変わっただけで。


第四部 では、次の世界は、どうなるのか

ここまで読んで、こう思った人がいるはずだ。
「わかった。構造はわかった。みんながこれに気づいたら、世界は変わるんじゃないのか。もっとフェアな、分散した世界に」と。

私も、そう思いたかった。
だから、いちばん正直なところを、書く。

気づいても、結局はまた集まる
歴史は、少し意地が悪い。
格差を告発したベストセラーも、世界に広がった抗議運動も、世の中の「言葉」は変えた。
だが、肝心の「構造」は、ほとんど変わらなかった。

あるエンジニアが、残酷なほど的確に言い当てている。
「人は、分散を望んでいない。人は、サービスを望んでいる」と。
私たちは、自由よりも便利さを選ぶ。
あの便利さの鎖は、構造に気づいたくらいでは切れない。
むしろ気づいた上で、なお選んでしまう。そのほうが、ラクだから。

「いや、技術がある」と言うかもしれない。
ブロックチェーン、分散型、誰のものでもないネットワーク。
今度こそ違う、と。

その希望は、本物だ。
だが現実は、何度も同じ道をたどってきた。
印刷術も、ラジオも、初期のインターネットも、生まれたときは「これで権力は分散する」と夢を見られ、そして最後は、ひと握りの巨人に集約された。
テレビ局へ。GAFAMへ。

「これこそ分散だ」と期待されたブロックチェーンや暗号資産の世界ですら、ふたを開ければ、それを支える計算も、出入口も、票も、いつのまにか少数の手に集まり、けっきょく巨大企業のクラウドの上で動いていたりする。

分散は、放っておくと、また集まる。
これは技術の問題というより、人間の重力のようなものだ。
だからおそらく、みんなが構造に気づいても、革命は来ない。

来るのは——「気づいた上での、新しい再集権化」だ。

次の領主は、たぶん、今の領主だ

では、この「次の世界」で、新しい井戸——次の重要なインフラ——を囲うのは、誰になるのか。

ここが、いちばん、肩透かしを食らうところだ。
新興の挑戦者が、巨人を倒す。
——そういう物語を、私たちは好む。
だが、現実に起きていることは、もっと退屈で、もっと手強い。

次の領主の最有力候補は、今の領主なのだ。
巨大な資産運用会社は、もう、暗号資産にも、次世代の資産にも、大量に張っている。
クラウドを握る巨人は、AIの計算資源——次の時代の「土地」——を、すでに握っている

歴史を振り返れば、こうなったケースは、けっして少なくない。
新しい時代に「最初に投資した者」が、次の時代でも、また上位に座る。
産業革命のとき、新しい工場に金を貸した銀行が、次の時代の主役になったように。

もちろん、逆もある。
乗り換えに失敗して消えた巨人も、いくらでもいる。
フィルムの王者がデジタルに足をすくわれ、携帯電話の覇者がスマホの波に沈んだように。だから「必ず今の領主が勝つ」とは言えない。

ただ、「新興が巨人を倒す」という物語を、素朴に信じすぎるのも、また甘い。
玉座に座っている者が、いちばん早く、次の馬に乗り換えてしまうことも、歴史にはよくある——それだけは、頭の隅に置いておきたい。

それでも、すきまは残る

——ここまで読むと、絶望したくなる。
何をやっても、結局は上に吸い上げられるのか、と。

だが、それも、また一つの極端だ。
公平を期すなら、もう片方も、正直に置いておきたい。

巨人が、来られない場所、来たがらない場所が、確かに、ある。
国境を越えてお金を送るとき。
自国の通貨が、信用を失って崩れてしまった地域。
誰かに口座を凍結される恐れがある場所。
——そういう、巨人にとって「うまみが薄い」か「面倒でリスクが高い」すきまでは、分散の技術が、はじめて「本物の代替」として効いてくる。
世界がまるごとひっくり返ることは、たぶん、ない。
けれど、こうした小さなすきまは、確かに、残る。

あるいは、巨人と正面から殴り合うのではなく、巨人と、ふつうの人の「あいだ」に立って、橋をかける——そんな位置取りに勝機を見る者もいる。
正面衝突を避けるという意味では、賢い戦い方ではある。
勝てるかどうかは、また別の話だが。

——念のため、はっきり書いておく。
では個々人が、具体的に何を持ち、何に賭けるべきか。
それは、この記事の範囲の外だ。
投資の判断は、あなた自身と、信頼できる専門家に委ねられるべきもので、私が口を出すことではない。
ここで描いているのは、あくまで世界の構造の、見取り図にすぎない。

この五年が、岐路だ

整理しよう。
おそらく、世界は、劇的には解放されない。
便利さの鎖は、簡単には切れない。
分散は、また集まる。
次の領主は、今の領主かもしれない。

——だが。

それでも、今は、めずらしく、地図が描き換えられている最中だ。
お金が、決済が、資産が、まるごと新しいインフラの上に移ろうとしている。
次の「井戸」が、どこに掘られ、誰が囲うのか、まだ完全には決まっていない。
こういう「継ぎ目」の時代は、歴史の中でも、そう何度も来ない。

煽るつもりはない。
「今がチャンスだ、乗り遅れるな」とは、口が裂けても言わない。
それは、水を売る者の文句だ。

ただ、事実として、これだけは言える。
次の構造が固まるまでの、この数年が、ひとつの岐路であることは、間違いない。


結 それで、君は、どっちだ

長い旅だった。
最後に、最初の問いが、まるで違う重さで、戻ってくる。

水を、買い続けるか。井戸を、掘るか。
井戸とは、誰かの約束に頼らず、自分の手で持てる富のことだ。
引き換えを誰かに握られていない価値。
決定権が、自分の側に残っている、何か。

それが、お金の形をとるのか、技術の形をとるのか、知識の形をとるのか、それとも、人と人とのつながりの形をとるのか——その答えは、まだ、私にもわからない。

しかも、ここまで見てきたとおり、話は甘くない。
あなたが掘ろうとするその井戸すら、巨人が、もう、囲いに来ているかもしれない。
引換券は、いちばん古い文明の時代から、ずっと誰かに数えられ、税をかけられ、握られてきた。
その歴史は、たぶん、これからも、かたちを変えて続く。

それでも、だ。

数えられる側で、ただ水を買い続けるのか。
それとも、わずかでも、自分の手に決定権を残そうと、井戸を掘りはじめるのか。
——その選択だけは、まだ、誰にも奪われていない。その井戸を、誰も、あなたの代わりには、掘ってくれない。

(了)

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