大企業への派遣。いい大人たちに出会う。
自己紹介エントリーの”いままでやってきたこと”の順に沿って記事を書いていきます。
自己紹介エントリー
転職直後と待機要員
1ヵ月の準備期間(渋る会社相手に強引に勝ち取った有休消化)を経て。
転職した京都の老舗IT企業に勤めることになりました。
このIT企業はもともと電気関連の小物(おもちゃにいれる電気パーツなど)を製造する会社が源流となり、情報機器が電算機と言われる時代から情報通信分野の支援を行う会社でした。
私が産まれる前から存在していて、ベンチャーから転職した私には会社の制度や歴史から裏付けられる激しすぎない業務の雰囲気に驚きました。
この会社の業態は創業からは大きく変容しているようで、SES(技術者を派遣してサービスを提供する会社(いわゆる人材サービス))でした。
私はインフラエンジニアとしての採用でしたが、当時まだAWSのようなパブリッククラウドは登場しておらず。客先ないしはデータセンタに常駐して対応するスタイルでした。
SESは派遣先がきまるまでの間、待機要員という立場に置かれます。
待機要員の立場は会社で研修を受けたり、資格の勉強したり、業務改善や効率化をしたりして次の派遣先が決まるまでの間を過ごすことが日々の業務となります。 (外貨を生まないので、居心地がいいものではない。)
待機要員の間、なかなか仕事がきまらないことと座学では身につかないと危機感をもった私は、なんでもいいから現場に出させてほしいことを営業に伝えることにしました。
スキルシートを更新して、受け入れてくれる現場を探してもらうことなりました。
資料作成とネットワークの志願
当時の私は2つのことに興味と課題を感じており、実践できる現場を探していました。
[ネットワーク(L2,L3)]
一社のベンチャーの退職前に心の病気で配属先から戻ってきたちょっとやんちゃな技術者が教えてくれたことがきっかけとなり。当時の私はネットワークの技術に興味があり、Cisco のL2スイッチのリサイクル品を取り寄せて自宅で触って遊んでいました。
[資料作成能力が足りない]
当時の私はサーバやネットワークを扱うにあたり、それでなにをするのか。どういう目的があってどうするのか を表現する手段を持っていませんでした。決められた作業をすることはできる。 決めていって落とし込む部分とそれを人に伝える為の資料作りに関する知識と能力が一切ありませんでした。
これら2つの課題を実践させてもらえるとして、OBPの中にある企業さんに常駐している現場の手伝いとして入ることが叶いました。
配属された翌日に人生初のインフルエンザにかかり10日欠勤するなどのアクシデントがあり。決定して動くまでの間は10日以上の期間が空いてしまいましたが。 ベテランの方ばかりで受け入れてもらえました。
そこでは、のちに私の転機となる企業の構内ネットワークの切り替えに向けてconfigの設計と製造、実機への流し込みを行いながら。出荷をしていく段取りで作業を体験させてもらいながら。
認証サーバの設計など、ネットワークエンジニアだけでは対応できない領域には自分で手を挙げて調べながら対応。
なんとかクリアできて周りに認めてもらい。
設計の中で必要になる資料について勘所を人の資料から得ながら書いてみるを繰り返して居場所を作ることができました。
とにかく、やれることは全部やる。と誓って本配属がされる日を待ちました。
挫折とリーマンショック
いよいよ、私の本配属の現場がきまることなりました。
とても大き目のプロジェクトで先輩と一緒に作業に入り、途中から私に対応を引き継いで継続する形での配属でした。
基幹系システムの更改を行うプロジェクトで過去何回か納期遅延をしている案件とのこと。
技術スタックも多岐に渡り、当時21歳の私の技術では作業内容すらまったくわからない状態。 先輩もいなくなってしまい。ひとりになってしまいました。
誰からも相手にしてもらえず。他の会社さんが忙しく働いているのに現場で使えないから放置されている状態。
耐えられず、病んでしまい。現場から外れたい旨を申し入れしました。
せっかく、売上がつく現場なのに。とお詫びし、なかなか立ち上がれない自分を責めました。
この現場は私にネットワークを教えてくれた"ちょっとやんちゃなエンジニア"が倒れた現場ということが後々になってわかり。心底震えました。
(一部では幽霊船案件と揶揄された現場だったらしい。)
その直後、リーマンショックが発生。
大量の待機要員が発生し、会社に入りきらず。自宅待機という名目で輪番出勤となり、派遣やSESは仕事にあぶれる時期が訪れました。
買い手側、使う側
年も明けて輪番出勤も落ち着いてきたころ、私はメーカー系企業の子会社の手伝いをすることとなりました。(ここでも請求ができない要員としてですが。)
この現場ではビル内に設置されたサーバと全国各地にある支店からのヘルプデスク運用を行う現場でした。
始めて買う側・使う側の立ち位置での仕事をすることになり、相手の年次・年次のうえでの同期・出身大学・社内でのパワーバランスなど。
いろんなところに気を配って、アンテナを張って。お願いの仕方やメール文章の機微などをこなしながら自分の仕事をいかに円滑に進めていくのか。というまったく違う次元のスキルが求められることを知りました。
当然、請求できない要員なので。お客さんからすればやればやった分いい結果がでればお得だと考えて。徹底的にやれることをやることにしました。
やりすぎて残業が発生し、サービス過剰だと叱られたりもありましたが。
サービス業としてのITを学ぶきっかけになりました。
大企業への配属
メーカー系企業の子会社での仕事も一巡してきて居心地がよくなってきたところ、私に転勤の話がきました。
東京に転勤して、データセンタのオペレーターをシフト制でやる現場への配属でした。私は当時、会社の人に片思いをしていて。 どうしてもいきたくなくて断ってしまいました。
売上もあがらない。転勤もしない。立場がわかってない。今思えばとんでもないことをしましたが。
どうしても東京といきたくない気持ちが勝ってしまい。もう一度転職してもいいほどの気持ちでわがままを押し通してしまいました。
そこで私は習得していなかったネックとなっていた技術セット(Linux) と大規模システムのSEをやりきることを条件に許してもらうことになりました。
担当したシステムはメーカーにおいてとても重要なシステムであり。
停止してしまうと事業影響に直結するミッションクリティカルなものです。
私はこのシステムを守るためにメーカー系の大企業への配属がなされることが決まりました。
(片思いはこのあと手ひどく振られることになり、同じ会社の人だったので仕事にひたすら打ち込むことで気にしないようにしました。)
やれることをやる
とにかく、我儘を通したからには。やれることをすべてやらなければいけないと考えて我武者羅に以下のことを見える形でやることにしました。
一度でも触ったことのある技術の資格を取得し、体系的に棚卸しする。
だれよりも早く会社に行って、チームの机と床の掃除をして。業務開始をすべての準備が整った状態でチーム全体が迎えられるようにする。
勉強は業務時間外と隙間時間にやって、業務時間は実践と実績を意識して積む時間として爪痕をのこす。
教えてもらったことは帰ってからその日のうちに復習と理解をして、翌日朝イチにどう復習してどう業務に活かしていくかを教えてくれた人にお礼メールを送り宣言する。(教えてくれた人の上司にもわかるように伝える)
なにを言われても。できるようになるまでは徹底的に詰めてやることを実践して。段々まわりにも受け入れてもらえるようになりました。
あたらしい転機
大企業への配属がされて3年ほど経った頃。
我儘を通した営業の方と上記から新しい挑戦の話がありました。
私が受け持っているシステムの上位組織であるHQ(本社部門)に行って、投資計画の立案や企画に携わるようにとのこと。
ただし下記の絶対条件付きで。
"技術者としての技術ではなく、ヒトモノカネの経営資源を活用して大きな物事を成せるようにしろ。SSH(自分で作業すること)は禁止だ。ひとり以上の成果を出せ。"
"何言ってんだこいつ" と当時の私はまったく意味を理解しませんでしたが。
私の鼻っ柱を叩き折るということを言われていたそうです。
そんなことも知らず。私は配属を受け入れて全くしらない領域。企画と上流工程の仕事に踏み入れることになりました。
いい大人たちに出会う
配属された部門は大企業の本社部門。
すべてのIT投資と経営判断が采配される場所でした。
製造業のビジネスプロセスやシステムの全容をブリーフィングでききますが、まったくわかりません。
なぜわからないか。当時の私には天文学的な規模の数字の大きさと、技術だけを追求してきてその技術を行使しているシステムがどれだけの経済活動を担っていて。 どう世の中で使われているのか。
そこまで開けた視野で考える必要がない高さで働いていたからです。
当時私の年齢は25歳。まわり方の社員の方の年齢は平均50歳くらい。
私が産まれるまえに入社したような人たちばかりで、いままでベンチャーとITだけで働いてきた私にはすべてが理解できない。考えたこともない責任とお金と物事が動いている。 そんな部門でした。
最初しばらくはどうしていいか全くわからず。クレームを頂いたり。
やろうとしてもまったく手がでずに押し戻されたり。
ベンダーの方からの質問に決められずに持ち帰りを連発したり。
部門からの問い合わせの電話が怖くて取れなかった。
いままで積み上げたものが全く通用しない。
文字通り"鼻っ柱を叩き折られる"そんな状況に陥りました。
途中で現場にいくのがつらくなって、休みたいと思ったことがありましたが。
"勇気を出していってきな。いかなくて後悔することはあってもいって後悔することはない。" とばあちゃんが登校を渋る私に言ってくれたことを思い出し。
とにかく現場に立ち続けることに拘って。通い続けました。
わからないことはわからない。 教えてもらったらお礼を言う。 常にニコニコする。 絶対にごまかさない。 声は大きく。 会議で必ず発言する。教えてもらったら翌日までに覚える。 ~~さんのおかげでわかるようになりました!とフロアで叫ぶ。
ひたすら繰り返していたところ。だんだん周りから仲間としてみとめてもらえるようになり。親子のように可愛がってくれる人や 袋いっぱいの野菜を毎週くれる部長さんなど。 居心地がよくなりました。
そのころには、新しいことに挑戦する機会を与えてもらえる関係性と戦略として数えてもらえるようになっていました。
"もし"のマインドセット
一通りのITスキルと社会人のスキルセットを教えてもらった私は、お金についてのスキルを教えてもらえることになりました。
もし、自分がリーダーだったら?
もし、自分が決裁者だったら?
もし、自分が社長だったら?
を常に考えて相手の立場をみながら資料に落とし込むスキルセットです。
なんでその数字は妥当なのか。 なぜその技術なのか。 いまやる理由は? なぜこの委託先なのか?
説明責任達成という点に焦点をしぼって、導き出す技術を手取り足取り時間をかけて教えてもらうことで "経営と事業" という新しい技術を学ぶことができました。
そして、その本社のサーバルームで私が構築時に携わったネットワーク機器たちを稼働していることを数年ぶりに自分の出荷伝票を検品する事により知り。運命を感じました。
虚業と実業
仲間にいれてもらうことができて、仕事にもなれてきたころ。
特に可愛がっていただいたリーダーの方と野菜をくれる部長さんと一緒にサプライチェーンに沿って現場を見に行く出張に同行させてもらいました。
サプライチェーンとは、メーカーの場合、製品の企画・設計からはじまり調達、製造、販売、会計、物流などの一連のサイクルで製品が生産されるプロセスです。
その旅の中で、自分たちが携わっているシステムがどのように使われていて。どういう人たちがそこで働いていて、倉庫の環境や地理的な場所の立地の理由など。
虚業ではない、実業の側面の仕事感を教えてもらうことができました。
これは、転職してこの仲間にいれてもらわないと経験できなかったとても大きな経験と私の中の転機でした。
居心地の良い環境とよそ者感
可愛がってもらいながら、日々の仕事も順調で20代前半から中盤の時間はあっという間に過ぎていきました。
大分県から京都にたどり着くまでいろんなことがありましたが、このころにはもう卑屈になるような劣等感もなく。
まわりと比べて劣っているやいじめられることもなくなっていました。
倍以上年上の方ばかりという特殊な環境だったせいもあるかもしれませんが。とても居心地がよく。守られている気持ちがありました。
ただ、私はどこまでいってもこの大企業の社員ではなく。肩書としてはSESからきた派遣社員。 メールアドレスも社員証も区別されている立場であり。
給料や福利厚生もまったく異なる立場ある事実は居心地の良さと裏腹に20代を超えて30代を迎えた後の危機感となって、先送りできない課題として私の中に鬱積していました。
2014年、クラウドサービスの足音がきこえてきたころのおはなし。
