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幽美な感受性、イントラヴァート

美しい山海を望み、風景美術館と称するホテル別館のレストラン、暗い鏡と化した窓に、ふたりの姿が仄かに灯される。虚ろな肖像は夜景と溶け合い、いつしか私達は現実の彼方らしき、幽玄な場所に浮かんでいた。世事で纏わりつく雑念から、一時でも解放されたのは、いつ以来だろうか。漂う意識のホログラムを観じていると、まるで時の流れが止まったように、静寂と清気が心を鎮めてくれる。

「蒼い海へ内面を巡る旅に出たんだね」フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin) ノクターンの旋律に導かれ、心の誰かがそっと語り掛けてきた。「そうさ、外界ばかり観てきたけどやっと気づいたよ、深遠な蒼き内界」「いよいよ、Introvert(内向性)の秘宝を探りにいくのね、ワクワクするわ」何処からともなく妖精がささやき、晩秋の星夜が見守る二人だけの記念日。

海外勤務時代、Madison Avenueにそびえる高層ビルで、オフィス清掃を担う年配のおばさんと仲良しだった。ポーランド移民の彼女は夕暮れに出勤、帰宅は真夜中の地下鉄となるエッセンシャルワーカー。大きなゴミバケツを押して働く彼女の後ろ姿に深謝し、ブルシットな自身の仕事が訝しくなる。ある日カーネギー・ホール(Carnegie Hall)で、クリスティン・ツィメルマン(Krystian Zimerman)のピアノ演奏に行った話をした。パンフレットを見て「は~あ、若かったツィメルマン、あら、こんなにおじさんになって、びっくりだわ」って懐かしみ、故郷ワルシャワが誇る音楽家ショパンのことまで嬉しそうに語ってくれた。

ショパンが移住した19世紀フランス(7月革命から2月革命の間)の群像を描く、平野啓一郎氏の長編小説「葬送」。だいぶ以前から妻に勧められて、漸く通読したが、綿密な史実考証と心理描写に感嘆。パリの社交界で名声を博しながらも、祖国ポーランドを望郷するピアノの詩人。愛人ジョルジュ・サンドと繊細で病弱なカリスマの機微、画家ドラクロワら友人、パトロンや教え子※たちに慕われて、短い生涯(39歳)の終幕が切なすぎる。

リストの演奏にはなるほどと驚嘆させられた。しかし本音を言えば、ピアノという楽器は決してそんな風に弾くべきではないと思っていた。それはもっと軽妙で、優雅で、時に躊躇いがちで、曖昧で、歌うようにしなやかで繊細な表現の可能性を有している筈であった。彼が欲していたのは、労働者ような頑強な両腕で築き上げる豪胆な伽藍めいた音ではなく、宝石職人の用いるピンセットのように敏感な手つきで巧みに掬い上げる精緻な音の連なりであった。群なす聴衆を扇動し彼らの無数の歓声を束ねて一つの巨大な昂奮へと練り上げるような演奏ではなく、ピアノの周りに集まった親しい友人の胸の奥に巣くう本人すらも定かには知らない秘密にそっと触れ、彼らの無言の告白を自然に引き出してやるような演奏であった。

平野啓一郎「葬送」第二部(上)より

感受性の豊かさ「HSP」は、内面に宿る創造力の源泉、光彩と陰翳である。ジャズピアノの詩人ビル・エバンス(Bill Evans)だってそうだ、薬物依存で亡くなった彼の演奏について、帝王マイルス・デイヴィス(Miles Davis)は、「静かな炎、水晶の粒や、澄んだ滝壺から流れ落ちる輝くような水」と述べている。ストイックな透明感が冴えわたる即興のソロ曲「Peace Piece」(平和のかけら、安らぎ)は、ビル自ら危ういほど鋭敏な情感を癒したかったのかもしれません。

ゴルドベルグ変奏曲」の衝撃を齎したグレン・グールド(Glenn Gould)も、ジャンルは違えど相通じる。若くして演奏会を引退したエキセントリックな異才は、研ぎ澄まされた完璧主義で、バロックの傑作をロックのように挑発した。素人バッハファンの私でも、神がかった氷の微笑みたいな聖音に恍惚となり、ショパンの叙情ロマンとは対極の構造美に身震いしてしまう。奇しくもビル・エバンスとほぼ同じ50歳、同時期にこの世を去っていった。

ショパン、エバンス、グールド、みんな気難しく孤高なイントラヴァート。「人生に散りばめられた宝石は、誰だってあるのさ、でも波打ち際の砂に紛れて見え隠れしてるから、目を凝らして煌めく欠片を拾いに行かなくちゃ」微かに心の眼を啓いて、ショパンが生涯を終えたパリ・ヴァンドーム広場にほど近く、猫の女主人がいたホテルなんだっかかな。もう20年余り前、フロントデスクで監督する凛々しい佇まい。美味しい朝食ダイニングルームを堂々と巡回する気高さ。その数年後、亡くなったと何かの記事で知った。

Hôtel avec chats

「間接照明のグレーな居間で、二人は寄り添い窓辺を見るのが好きなのね」「いつも、あなたらしくしていてほしい」「いつだって、僕らしくいるよ」心の裡にある夜窓にひっそりと、妖精たちの談笑が舞い戻ってくる。

※ショパン 華麗な交友
ウジェーヌ・ドラクロワ
オーギュスト・フランショーム、
フランツ・リスト
ヴォイチェフ・グジモア伯爵、
デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人、
マルツェリーナ・チャルトリスカ大公妃、
ジェーン・スターリング嬢、
マリ・ド・ロジエール嬢、
マルリアニ伯爵夫人、
オーギュスト・クレサンジェ
ソランジュ・デュドヴァン
ジョルジュ・サンド (オーロール・デュパン)

平野啓一郎氏「葬送」より





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