ブーステッドマン
第一話 不気味の国のアリス
01 ブーステッド
盛り場の路地に、その少女はいた。
純白のシャツにピンクマーブルのパーカーを羽織り、黒レザーのミニは下着が見えそうなほど短い。そこからモデルのような脚が伸び、ガラス細工を思わせるクリスタルなヒールに収まっている。蝶の翅《はね》を象《かたど》ったサングラスをかけフードを被っているから、顔を隠す気は一応あるようだ。
積み上がったビールケースの陰から、シュウは路地の様子を窺った。
すえた臭いの漂う路《みち》に酒場の裏口が並んでいる。先へ抜ければ安ホテル街。表通りの喧噪は薄れ、街灯のうらぶれた光が降っている。
まれに酔客が通る。少女のナマ脚に見とれるが、ちょっかいを出す事はない。頻発する殺人事件を怖れているからだ。犯人がいたいけな少女じゃないという保証はどこにもない。そそくさと行き過ぎる。
少女は塀に寄りかかり、頭をリズミカルに動かしていた。ワイヤレスイヤホンで音楽に夢中だ。
シュウは確信する。彼女はブーステッドだ。したがって殺人犯など恐れるに足りない。むしろ彼女が殺人犯の可能性すらある。が、その可能性は却下。そういうタイプじゃない──ゼロ課エージェントの経験が告げている。
ホテル街に続く闇から小柄な男が現れた。狐を連想させる面相だ。音もなく少女に近づき、ジャンパーのポケットから紙包みを取り出した。
少女は腕時計型端末《リストデバイス》で決済する。
シュウは既に動きだして二人の横にいた。
ギョッとしたように狐が振り向く。あわてて逃げようとした脚を払う。転倒した狐の首に、拳の指輪を当ててマーキングした。
皮下脂肪に溶けたナノ標識が発信を開始する。もう逃げられない。しくじりで組織に消されたくなかったら、自首するしかないのだ。
少女はホテル街へ逃げた。もう距離が空いている。
チッ、やはりブーステッドだ。しかもAクラスの。
シュウは加速した。風のない三月の夜気が暴風と化す。
前方に廻りこまれた事に驚愕し、少女は加速を解いた。
その腕をつかむ。「あきらめろ。オレのほうが速い」
強化系ナノマシンとつき合うには鍛練が欠かせない。この自堕落娘ではフルスペックを発揮できないだろう。
「離せよ。訴えるぞ」息を弾ませて言う。幼いがしゃがれている。酒とタバコで荒れた声だ。
「麻薬持って交番へ駆け込むってか?」
少女は地べたに尻をつけた。扇情的な銀メタリックのショーツが丸見えだ。「逃げないから離せよ!」
シュウは細腕を解放した。
少女はタバコを咥え、デュポンで点けた。ふてくされたように喫《す》う。
「肌が荒れるぞ」そう言ったが、すぐに気づいた。火は合図だ。そんな古典的な方法でなく、デュポンに発信機が仕込まれていると考えるべきだろう。
お客は、目先にあるラブホテルのエントランスから現れた。コイツも同類。今夜はブーステッドのバーゲンセールだ。
身の丈がシュウより20センチは高い。2メートルを超えるだろう。黒いタンクトップを盛り上げる異様な大胸筋。発達した背筋のせいで首が前にせり出している。倍ほども幅のある、スキンヘッドの巨漢が目の前に迫る。
周囲を確認した。路地は抜けて開けた場所にいる。ほかに通行人はなし。
安ホテルの玄関を隠す生垣《いけがき》。照明灯。路上駐車が一台。動き廻るには充分なスペースだ。路地の只中でなかった事に感謝した。このゴリラを相手にするには、動き廻る必要がある。
少女の確保はあきらめる。ブーステッドならナノ標識に免疫がある。マーキングは無効だ。
余計な事に気を取られているヒマはない。さっそく第一撃が来た。丸太の腕が唸りをあげる。
威力は凄まじいだろうがモーションが大きい。シュウは至近距離で躱《かわ》し懐《ふところ》へ入る。膝を真横から薙《な》ぐローキック。目標を失ったゴリラパンチは安普請のコンクリ壁をぶち抜く。シュウは跳びすさって間合いをとった。
横からの力に脆弱なはずの膝が、ローキックでノーダメージだ。常人なら関節が砕けている。その代わり、強固な分だけ敏捷性をロスしているといえる。
「犬っころだな。おもしれぇ」闇に身を置く者たちは、公的な法執行者を〈犬〉と呼ぶ。いつの時代でも同じだ。
大男のいかつい顔が戦闘の悦びに歪む。久しぶりに骨のある相手に出くわしてウキウキしている。戦い、破壊する事が趣味の戦闘酩酊者《バトル・ドランカー》だ。強くなるためなら、命を削ってでも、とことん躰をブースト・アップする。
シュウは爪先立ちで、円を描くようにゴリラの周りを動いた。
ブーステッドとは、いわゆるサイボーグとは違う。
勢いよく動きまわるナノサイズの魚の群──遊走型生体強化ナノマシンを体内で飼いならし、身体能力を著しく向上させた強化人間だ。主に戦闘員を指し、医療に関わる能力矯正は含まない。
たとえばパンチをくり出せば、脳神経に連動する強化ナノは腕の筋肉をブーストして倍速にし、拳の表面硬度を鋼鉄並に高める。
その鋼鉄パンチがシュウの頬スレスレに掠め過ぎた。
シュウは踏み込んでワンツー。そしてアウェイ。
「何だぁ、そのへなちょこパンチは。蚊に刺されたみたいだぜ」切れた口から血の唾を吐いて、ゴリラは強がる。そしてシュウを追い廻す。だが、豪腕パンチは当たらない。ことごとく躱《かわ》される。
シュウは強化ナノの配分を大きくディフェンスに振っていた。ブーストされたフットワークがヒットアンドアウェイをくり返す。
ゴリラは肩で息をし始めた。どんな豪腕でも当たらなければ意味はない。逆に、蚊であろうと百回も刺せばハナシは別だ。いかつい顔は蚊パンチの連打で腫れ、ナノの治療が追いつかない。
「テメエ、鼠みたいに逃げ廻りやがって。その頭、握り潰してやる」ボクシングをレスリングに変更して組み付いてくる。強化ナノはすべて腕力にチャージ。上腕筋が破裂するほど膨れあがる。捕まれば、誇張でなく、潰されるか引き裂かれる。
だが、それはシュウが待っていたタイミングだった。
強化ナノは技術《テクニック》さえ記憶する。ゴリラにインストールされているソフトはヘビー級ボクサーのチャンピオンレベルだろうが、ゼロ課エージェント仕様は、打撃、関節技、古武術をミックスした総合格闘術だ。
掴みにきた丸太の腕に抱き付いてホールド、体操選手のように前転する。独楽《こま》の軸となった丸太の腕は、肩関節が音をたててねじ切れた。
野獣の悲鳴があがる。
ガラ空きになった腰に巻き付く。ブリッジに乗せて後方に投げる高速スープレックス。
勝負はついた。脳天から落ちたゴリラは起き上がってこない。
息を整えて顔を巡らせると、逃げたと思った少女がそこに居た。生垣の台に掛けて観戦していた。
勝者に拍手を送ってくる。
「強いんだね、アンタ。ベンケイが負けるの初めて見た」
「行くぞ」シュウは少女の手を掴んで歩きだした。今度は文句を言わない。
パトカーのサイレンが聞こえる。怪物《モンスター》同士のケンカを見た市民が通報したようだ。
「ねえアンタ、一時間だけ付き合いなよ。近くにいい店がある」手を曳かれながら少女は言う。
「キミをお守役に引き渡して、オレの仕事は終りだ」
「アタシの言うこと聞かないとクビが飛ぶよ」
子供の脅しではない。少女の父親は政財界の黒幕だ。首相の首をすげ替えられると聞く。
「クビを飛ばせるキミの父親が依頼主なんだ。めんどう言うな」
政府直属のエージェントを非行娘の尻ぬぐいに使っている。
「だから一時間だけって言ってるでしょ、ねえ」
ケンカに勝ったら手のひら返しだ。強い男が好きらしい。
「聞いてくれないなら、ブーストしてアンタに挑戦する。アタシ、カンフー系だよ」
シュウはため息をついた。掌中の珠に瑕《きず》でも付けようものなら、クビが飛ぶだけじゃ済まない。一時間のサービス残業を覚悟した。
02 酒場
少女の名は、鷹峰《たかみね》 凪沙《なぎさ》。巨大多国籍企業〈ECHIGOYA〉のCEO──鷹峰 政虎《まさとら》の一人娘だ。政虎は国家政策顧問会議を主宰し、政権に多大な影響力を持つ。その男にとって、子育ては企業経営や政治より難しいようだ。溺愛する、孫のような年齢《とし》の娘に振り廻されている。
鷹峰 凪沙は先に立ち、男の手を曳いていた。曽根崎の入り組んだ路地を進む。着いた先は半地下の洋風居酒屋だった。
オールドアメリカンな奥深い店。黄ばんだ照明に、使い込まれたカウンターが飴色に光る。
客はふた組。カウンター中央に中年カップル、テーブル席に学生風の男女5人が陣取っていた。
スタッフは二人。グラスを磨いていた中年バーテンが凪沙を見て会釈した。すかさず目を移し連れの男を値踏みする。
シュウは《《場》》を把握した。人物、その配置、設備、逃走経路……反復を重ねたトレーニングが習性になっている。
客が帰った後のスツールが一脚、カウンターの整列からとび出していた。
店内を見渡していると、腰をスツールに《《ぶつけてしまった》》。
「すみません。だいじょうぶですか」テーブルへ皿を届けたボーイがこちらへ寄ろうとする。
シュウは手を上げて制し、自らスツールを戻してやった。
「申し訳ございません」バーテンが頭を下げる。
凪沙はちょっと怪訝な顔をした。
「いつものね」バーテンに言い、奥へ進む。
突き当りは表示なしのドアだ。
常人では感知できない微音を捉える。ドアロックの外れる音。バーテンがリモートで解錠したのだろう。特別室らしい。
厚手のドアを通ると、ガランとした室内には飾り物一つなかった。木目の壁に囲まれた、長辺3メートルほどの小部屋だ。長ソファが向き合ってローテーブルを挟んでいる。
数分後、アイスバケットに突き刺さったシャンパンとナッツの皿が届いた。
ボーイが去り、ドアに錠が下りる微音がする。
「室内のセキュリティは万全。リラックスしていいよ」おしぼりを使う。「あ、一時間は今からだからね」
盗聴、通信傍受、すべて不能の部屋だ。ドアの造りでわかる。秘密会議に使うのだろう。装飾が無いのは、カメラやマイクを隠す死角を作らないためだ。
「いい隠れ家を知ってるな」
凪沙は口を歪める。「鷹峰から逃げ廻ってるからね」父親を姓で呼ぶ。
逃げ廻るのは警察からもだ。
少女の周りで《《裏》》の連中が暗躍している。連中にしてみれば、政財界の実力者に恩を売れる。おいしいハナシだ。超優良株を保有しているようなもの。
ピンクメッシュの髪が払われ、蝶の翅《はね》を象《かたど》ったサングラスが外された。
十五歳の顔が現れた。内に蔵する美女の種子が萌芽を待っている。だが、まだ中学生だ。学校へ行っていれば。
線の柔和なあどけない顔にオトナのカラダが続く。ボリュームのある胸と尻。それを繋ぐ細いウエスト。美容ナノマシンが創り出した異様なアンバランスだ。ロリコン野郎なら涎《よだれ》が止まらないだろう。
凪沙は腕時計型端末《リストデバイス》に目を落としている。虹彩認証でログインし、A5サイズのスクリーンが空間に展開しているはずだ。プライベートモードだから本人にしか見えない。
「非公式エージェント、景宮《かげみや》 周《しゅう》……三十二歳か。ギリ二十代って思ったけどな」アイドル情報を気軽にチェックする口調だ。
照会されたシュウのデータが入室前に届いていたのだ。
ゼロ課のセキュリティをくぐり抜ける──凪沙の後ろに控える裏組織は、それなりの大物だ。
「フツーのサラリーマンみたいだね。エージェントのブーステッドマンって、もっとハデかと思った」
「マントでもなびかせて登場すりゃ良かったか?」
最も売れている型と色のスーツ。それがエージェントの衣装だ。政府の黒衣《くろこ》はいつも群衆に溶け込む。
不良娘を前に、シュウは奇妙な感情に捉われていた。懐かしいような、心なごむような…… これが初対面だというのに。
氷を鳴らして凪沙がボトルを取り上げた。
シュウは自分の前に置かれたグラスを手で塞ぐ。
少女は口を尖らす。「おもしろくねえヤツ」ヴーヴ・クリコ のロゼを自分のグラスに注いだ。
「アンタさあ──」細身のグラスを一息で干す。「楽しい?」
そう訊かれて思わず笑った。
「何がおかしい?」
「一生懸命楽しもうとしてるわけだ、キミは。だから麻薬《ヤク》をやる。それ、VR麻薬だな」
仮想現実《VR》に没入してしまう薬物《drug》。VRDと略称される。没入する世界の刺激は強烈で、いずれ、どちらが自分の属す世界かわからなくなる。中毒すれば現実《リアル》に帰るすべを失う。待っているのは廃人だ。
「いいじゃんかよぉ、どうせ、どうでもいいんだから」
〈どうでもいい〉、〈どうにもならない〉、〈退屈しのぎ〉、こんな言葉が人類の常套句になってしまった。あの〈喪失の日〉から──
中国と米国がそれぞれ主導する二つの勢力圏《チーム》。世界の国々はどちらかに属し、様々な分野で拮抗していた。が、ある日を境にそれは途絶えた。拮抗をやめたのではない。続ける気力を喪《な》くしたのだ。
19年前。突如、銀河のむこうにブラックホールが出現した。それは宇宙を喰いながら育ち、太陽系に向かって突き進む。到着は250年後だ。時が来れば地上は無に呑まれ、文明と歴史ごと人類は消え失せる。
いきなり突き付けられた死刑宣告に、科学は何の説明もできなかった。そもそもが、認識可能な氷山の一角から、演繹によって全体に推し拡げた理論や法則なのだ。無明の彼方にある宇宙の全体像など把握できるわけもない。
ブラックホールが出現した日は〈喪失の日〉と呼ばれる。人類がやる気を喪《な》くした日だ。
250年という猶予は、個人的には、問題から目を逸らせるに充分な時間だろう。おそらく子や孫の代までも。だが、生物とは生命《いのち》を運ぶバケツリレーだ。たとえ個々人が無為な人生を送ろうと、種の生命《いのち》は着実に未来に向けて運ばれる。未来を信じて繋がってゆく。
行き止まりの未来は、生物の本能を否定した。〈継続〉の呪いを背負わされた人生という仕事を、人類は奪われたのだ。
250年という短くない余命。今や人類は、虚《むな》しい老後を持て余す定年退職者だった──
「VRDの怖さ、知らないわけじゃないよな」
「知っててやってるわけよ。アンタ経験ないの? アレ知らないって、不幸だよ」
「経験はあるさ。研修でな」
「へえ、それでもヤラないで我慢できてる。エラいんだね。現実主義者《realist》なんだ」
「単純におっかないだけだ。オマエ、中毒者の最期を見たことないだろ」
「オマエ、ね……ま、いいや」タバコの煙を吹きつけてくる。オマエ呼ばわりの仕返しだ。「脅かしたってダ~メ」
「じゃあ、見せてやろうか」
実のところ、今度の仕事は小娘の確保が至上命令ではない。保護したところで、どうせまた脱走する。こっそりブーステッド処置を受けたほどのタマだ。
鷹峰 政虎からの依頼は、〈娘の様子を見てこい〉だった。〈話ができるなら、言い分を聞いてやれ〉とも。
親というのはありがたいものだ。
シュウは腕時計型端末《リストデバイス》から動画プレーヤーを起動した。本人以外にも見えるオープンモード。A4相当のフルスクリーンを空間に展開する。バーチャルキイボードに触れて、あるファイルを開いた。
「エッチ動画?」たたいた軽口は、すぐ重い沈黙に変わった。
スクリーンは白い部屋を映し出していた。病室だ。
薄いブルーの患者衣を着た若い女性が、ベッドに横たわっている。髪は丸刈りされ、脳波センサーが頭部のあちこちに貼り付いている。半開きの碧眼は虚ろだ。頬はこけ、艶のない肌は土気色をしている。
映像は固定カメラが斜め上から撮っていた。映像上部にナンバー表示がある。
case : Alice 0013
「Alice、なの?」凪沙の声に怯えが混じり、掠《かす》れる。
「そうだ。中毒症状を呈して、もう戻れない。この娘《こ》はAliceに乗っ取られている」
女性は拘束されていた。ベッドの四隅に付いた手枷と足枷でX字に固定され、幅の広いベルトで腹部を押さえられている。
ゴクリ。凪沙の喉が鳴る。
仮想現実麻薬《VRD》はナノマシン麻薬とも呼ばれる。プログラムされたナノマシンが脳に滞留し、摂取者に別世界《VR》を観《み》せるのだ。
VRDは4段階の強度に分類される。
weak/medium/strong/very strong
ところが二年前、闇市場に登場したモンスタードラッグ〈Alice〉は、そんな分類を跳び越えた。新設されたランクは、danger──〈危険〉だ。
Aliceを服《の》めば、たちどころに〈不思議の国〉へ飛ばされる。万能感が全身に充ち、驚異の世界で心躍らせるアドベンチャーが始まるのだ。
だが、そんな楽しい、遊園地のアトラクションに似た人生は永遠に続くわけではない。やがてフィナーレの時が来る。舞台に黄昏が迫り、連続してきた痛快さや幸運が逆回転を始める。まるで、人生の帳尻をプラマイ・ゼロに合わせるとでもいうように。
入園者の胸に不安が兆す。貴重なものを奪われる不安だ。
その不安を解消して楽しい日々に戻すのは簡単だ。Aliceを購入し追加服用すればいい。〈不思議の国〉のチケットは更新され滞在が延長される。
逆に、Aliceをやめようとするなら、禁断症状の罰が与えられる──
甲斐甲斐しかった召使いたちは口ごたえを始め、反抗して暴力をふるう。戦闘アトラクションでは、痛快になぎ倒してきた敵キャラは強大になり反撃に転じる。ザコキャラにまで追われる始末だ。
初めての敗戦。連敗。勝てぬことを悟り逃走する。そして、逃げ廻ったあげくに捕えられる。
こうして拷問が始まるのだ。Aliceを継続しろ、と。
詫びて赦《ゆる》しを乞う。命乞いをする。だが、赦《ゆる》しはない。無間地獄が続く。間もなく、命乞いは〈お願い、殺して〉に変わる──
映像の女性の目が突然大きく見開いた。青い瞳を恐怖が奔《はし》る。口が開いて絶叫する。拘束を破ろうと全身で暴れる。
音声はオフにしてある。とても聞かせられるものではない。だが、無音の絶叫は、映像だけで見る者の耳をつんざいた。
「どうして──」凪沙は絞り出すような声を出す。「医者いないの? 治療しないの? この女《ひと》モルモットなの?」
「中毒まで行ったら治療不能だ。不思議の国は招待したゲストを帰さない。現実へ連れ戻すための薬剤は、受容体《レセプター》をブロックされて効かなくなる。童話のアリスのように、昼寝から目を覚ますわけにはいかない」
女性は長い間痙攣と絶叫を続けたが、やがて口から泡を噴き、力尽きて弛緩した。
長い睫毛の目尻から、こぼれた涙が耳へ伝った。
「末期の発作は30分ごとに起きる。この女性は……せめて治療法の糸口を掴もうと、脳波データを取られている」
「消してよ!」凪沙は金切り声をあげた。
スクリーンを閉じた。言われなくても、そのつもりだった。この先は更に酷い。
「殺してやったらいいじゃんよぉ。安楽死じゃなくても、銃でズドンでいい。あれよかマシ。アンタやってきなよ。市民を救うのが仕事だろ。悪夢から救ってやれよ!」
「Aliceはただの薬じゃない。小さな怪物だ。脳に巣くって〈不思議の国〉のもてなしを続ける。そのために宿主の躰を護《まも》って生かし続ける。嫌な例えで悪いが、毒を飲ませてもAliceが解毒する。首を切断しても、一説では脳を細切れにしても、Aliceが意識だけ生かし続けて夢を維持する。一日以上もだ。医者はそんな修羅場に関わりたがらない」
凪沙はいらいらシャンパンを注ぐ。味わいもせず呷る。タバコを点ける手が震えている。
据えたお灸がキツ過ぎたか。所詮子供だ。
「ちょっとは応えたか。Aliceは極端だが、VRDの本質は同じだ。もうやめとけ。ECHIGOYAさんなら最高の断薬チームを用意してくれるさ」
少女は冥《くら》い目でこちらを見る。ボトルに手を伸ばし、握りそこねて倒した。テーブルに炭酸の泡が拡がる。
「遅いんだよ」ボソリと言う。
「なに?」おしぼりで高い液体を吸いながら、シュウは聞き返す。「何が遅い?」
「もう、やっちまったよ……Alice」
おしぼりを持つ手が止まった。
凪沙はパーカーのポケットから紙包みを出して、濡れたテーブルの上に投げた。「Aliceだよ……さっき買った」
シュウは茫然と紙包みを開く。
点眼剤に似た小瓶だった。うす紫の表面にはロット印字があるだけ。
体内の強化ナノマシンが、掌に載った小瓶に共振する。ナノマシンはナノマシンに呼応するのだ。
掌を通してシュウは感じる。小瓶の中身はナノマシン・ドラッグだ。強い波動がAliceに間違いないと主張している。
混乱した。そんな凶悪なヤクを何故この少女に使わせる?
凪沙は潮原《しおばら》組の預かりだ。本人は好き勝手に逃げ廻っているつもりでも、潮原組の掌の中だ。さっき叩きのめしたゴリラも潮原の絡みだろう。
鷹峰 政虎は潮原に娘を預け、娘の頭が冷えるのを待っている。潮原はボランティアを装いながら、しっかり鷹峰に恩を売っている。
麻薬《VRD》で遊ばせても、せいぜいmediumランクまでじゃないのか。
潮原組のバックを意識する。潮原は所詮地回りだ。巨大な組織の意向が背後にある。ゼロ課のセキュリティを破るほどの組織だ。
二、三の可能性。その内、一つだけが確実に残った。
……アイツか。アイツしか、いない。
「Aliceは何回やった?」シュウは問う。祈るような気持だ。
「……八回目。今度で」すがるような目で答が来る。
「最後に服《の》んだのは、いつだ?」
「えっと……六日前」
顔に出さずにシュウは絶望する。断薬限界の四回を超えている。四回でさえ断薬の苦痛は耐えがたいと聞く。
「特別の断薬剤があるんだって。だから心配ないって言われた。すぐそれを買うよ」タバコを潰し、手首の情報端末《リストデバイス》で何処かにアクセスしようとする。「そう言われたんだ」
室内が通信不能のことを思い出して立ち上がった。「外へ出なきゃ」
凪沙の手を掴んで止めた。「そんなものがあるなら苦労はない。オマエは騙されてる」
──ECHIGOYAの一人娘は人質に取られたわけだ。
「離してよ! 断薬剤買うんだから」シュウの手を振り払おうとした。が、急に脱力した。現実の恐怖を受容したのだ。
凪沙はいきなり短いスカートに手を入れてショーツを引き下ろした。足首から抜き取る。テーブルを廻ってシュウに跨がってきた。「しよ」
手近な本能に溺れて恐怖から逃げようとしている。
シュウは抱きしめて少女の行為を封じた。「おちつけ。何とかする。Aliceを売るヤツを信用するな。今から一緒に病院へ行こう。オマエには世界のECHIGOYAがついてる。心配ない」
「明日の朝までに、Aliceを服《の》まないといけない。そうしないと苦しくなる。服《の》まなかったら、どうなるの? アタシも動画の人みたいになるの?」嗚咽が混じる。「いやだ。坊主にされるの、いやだ。あんなの、いや。助けて……」
鎮めるようにメッシュの髪を撫でる。彼女の大切なアイデンティティだ。
どうでもいい──若い世代は特にそう思っている。袋小路に入った人類は無意識に投げやりになっている。人生は使命を失い、退屈しのぎと堕した。退屈しのぎなら楽しいに越したことはない。
Aliceを体験して死ぬならいいや──そう思って少女は手を出したはずだ。不思議の国は、命を引き換えられるほどの恍惚感に充ちているという。
無気力よりも躍動感。太く短く花火のような人生。そこを一気に駆け抜ける。お嬢サマはそう考えた。Aliceの罠を甘く見て。
少女の震えがおさまった。シュウが抱きしめたせいではない。
凪沙は顔を上げた。快活さが表情を和らげている。たった今怯えていたのが嘘のようだ。
Aliceは好きな時に入場できるパスだ。〈不思議の国〉を楽しみたくなったら、リクライニング・チェアにでも横になり、入場を望むだけでいい。だが、今の状態は違う。感情の大きな振幅を感知して、Aliceが宿主をなだめたのだ。セロトニンを脳内で合成し、緊急避難的に〈不思議の国〉へいざなった――
凪沙はシュウの腕を煩わしげにほどいた。膝から下り、横に並んで背もたれに頭を預けた。
「ばーか。さっさとやりゃいいのに。や~めた。Aliceのほうがずっとイイ。イクよ、アタシ……」目が夢見るようにトロンとする。すぐにまつ毛が閉じ合わさった。〈不思議の国〉へ連れて行かれた。
寝息をたてる少女をドア脇まで運んで壁際に寝かせた。何かあったとき死角になるポイントだ。
ドア横の呼び出しパネルに触れた。一歩下がる。〈ジョーカー〉起動の準備をする。
すんなり帰らせてくれるなら、それでいいが。
間もなく解錠音がしてドアが開いた。
遮断されていた通信が回復する。シュウはナノの発信でジョーカーを起動する。
視野の隅にサブウインドウが開いた。
「お呼びでしょうか?」戸口に立つボーイが訊く。
「お嬢さんは気分が悪いようだ。家まで送って行くよ」
「それはいけない。ウチで手配しましょう」カウンターの外に出ているバーテンが言う。「かかりつけの医者《せんせい》を知っていますので」
止まり木には中年カップル。若いグループ客は追い出されたようだ。
サブウインドウでは、バーテンたちの背後から店内が見える。見せてくれるのは、掌《てのひら》サイズのマルチツールアイテム、〈ジョーカー〉だ。葉巻に短足が4本生えた形をしている。足先のジェルは自在に粘着度を変化させ、どこにでもくっ付く。自動迷彩で表面色は変化し、昆虫のように周りに溶け込む。ゼロ課エージェントの秘密兵器だ。
ジョーカーがシュウの強化ナノに、異なる視点の映像を送信している。
店に入った時スツールにぶつかった。それを奥に戻す時、カウンター天板の下にジョーカーを貼り付けておいたのだ。念のために。
ジョーカーから見るバーテンは後ろ手に小型マシンガンを、中年男性客は躰の陰で拳銃を握っていた。
弾丸が当たれば、命中ポイントへ強化ナノが集結する。命中から1/1000秒遅れて、皮膚損傷部の硬度をダイヤモンド並みに高める。単発の弾丸なら真皮で弾き返し、裂傷しか残らない。だが、それは単発の場合だ。連射を受けるとそうはいかない。ナノの手が足りない。故に、対ブーステッド用にマシンガンの選択は正しい。ただ、やすやす撃たれるほどトロくはないが。
「お父サマが別の医者に診せたいとおっしゃっているんだ」シュウは困った顔を作った。
「そんなハナシは聞いてないよ、お客さん。お嬢はこっちで預かってる。別の医者にはアンタがかかりな。生きてたらな」バーテンはニヤつき、マシンガンを前に出して構えた。
ボーイも折りたたみナイフをパチンと開く。さあビビれ、と口元が嗤う。姫君の連れに嫉妬しているのだ。
シュウは視線でバーテンの左脚をロックオンする。ナノ通信でリンクしたジョーカーが標的を追尾し、極細レーザーを放った。
糸のような熱線がバーテンの太腿を貫通する。殺傷力は高くないが、痛い。悲鳴をあげて跳び上がる。全員の目が逸れた。シュウは加速した。
三秒後、男たちは床の上に寝ていた。呻き声一つたてない。
スツールで固まった中年女に近づき、手首から情報端末《リストデバイス》を取り上げた。「ここで10分間じっと座ってろ。約束するなら何もしない」
中年女はガクガク頷いた。いきなり突風が吹いたと思ったら、男たちが倒れていた。何が起きたのか理解できないでいる。ただのサクラだ。
イモ虫みたいな形の頼もしい相棒──ジョーカーを天板下から回収する。
凪沙を抱えて店を出た。
03 メディカルセンター
ECHIGOYAの創業は明治に遡る。屋号は〈越後屋〉。海産物の流通で財を成した。海運業に乗り出し、軍需に関わり、商社になった。そこからは異種細胞を捕食するマクロファージのように、多角的な M&Aを続ける。IT大手を傘下に収めて急拡大し、国際マーケットを席巻するに至った。
ECHIGOYAは政商として各国政府の根元に絡みつき、着実に共生関係を構築していた。
大阪城を望む高台に病院はある。KINKIメディカルセンター最上12階特別病室。高級スイートを思わせる広さの部屋に、鷹峰 凪沙はベルトで拘束されていた。あの動画の女性と同じように。
目を閉じて呼吸は穏やかだ。あと一時間もすれば目覚めるだろう。そしてAliceを欲しがる。禁断症状だ。最初に焦燥感、次に不安、そして苦痛がやって来る。それは波のように寄せては返し強度を増す。耐えきれず失神に逃れるまで。
だが、逃げた先でも苦痛が待つ。〈不思議の国〉の楽園は地獄に豹変しており、そこでもAliceの追加を督促される。闇金の取り立てに逃げ場はない。寝ても覚めても責め苦が続く。
Aliceを服《の》みさえすれば、苦痛の記憶は消去される。一時的な楽園にまた戻れる。このパターンのくり返しで、体内に飽和するAliceナノマシンはいずれ宿主を隷属させる。いたぶりながら破滅へ導く。行き着く先に待つのは廃人という帰結だ。
窓の外に拡がる空を薄明りが彩り始めていた。黒い巨岩のような大阪城が正面に見える。
窓際のソファに座る初老の男は、曙光を背負って俯いていた。膝に肘をつき両手で顔を覆っている。鷹峰 政虎。巨大な力をもつ男が、自分の娘一人救えずにいる。
「ワタシはこれで」シュウは軽く頭を下げた。
親元へ送り届け、娘の現況を報告した。仕事は完了だ。これ以上エージェントにできることはないし、すべきでもない。
くるりと向けた背を、弱い声が呼び止めた。「助けて、くれんか」
「ご依頼の件は、すべて片づきました」シュウは背を向けたままで言う。「それに、個人のゴタゴタは本来我々の仕事ではありません。ワタシは休暇中に、たまたま家出少女を保護しただけです」
逆らえないほど強力なコネで、オレはレンタルされたのだ──そう言ってやりたかった。
鷹峰の言う〈助けて〉の意味はわかっている。そんな事、できるものか。
「ワタシの、たった一人の娘なんだ……」
「ECHIGOYAさんが大きくなる陰で、潰された家族がありましたね」
唯一隠しおおせなかったスキャンダルだ。ある中小企業が開発したIT特許を横取りし、逆に盗用の罪を着せて倒産に追い込んだ。開発者でもあった社長は精神に異常をきたした。
当該特許を起点にしてECHIGOYAは飛躍し、国際市場に現在の地位を築いたのだ。
「一家心中で亡くなった男の子は幼稚園児だった。そこも一人っ子でしたよ。表に出たのはその一件だけですが、ECHIGOYAさんの人柱は数えきれないと聞きます。彼らも慈悲を乞うたのではないですか?」言わなくてもいい事を言う。知れたらチーフに大目玉を喰らうだろう。
動く音がした。首だけ曲げて見る。
ECHIGOYAのCEOが土下座していた。クッションフロアに総白髪を擦り付けている。堪《こら》えた嗚咽が洩れている。
「じきに凪沙は苦しみだす。見ていられない。耐えられない。効く薬はないんだ。助けられるのはキミだけだ」呻くように言う。
高校生だったシュウの目前で家族が惨殺された時、この男は黙ってそれを見ていた。無表情で。
命令したわけでも手を下したわけでもない。だが、その場に居た。後方に居るだけで、止めてくれなかった。ボスの意向に口を出さなかったからこそ、今の地位があるのだ。
突入してきた特捜部によって、シュウだけが命を取り留めた。精神が壊れたまま特捜部の庇護下に置かれた。その特捜部がゼロ課の前身だ。
生き残った小僧の金銭面を、バレバレ承知の匿名で鷹峰は支援してきた。贖罪の気持があったかどうかは知らない。ただ、将来兵隊に使えるとは思ったはずだ。この度の事態など想像もしなかったろうが、担当にシュウを指名してきたのだ。
16年ぶりの再会。シュウは姓名ともに変えていた。お互いが初対面を装った。今さら、という気持がシュウにはある。
鷹峰の願いを振り切って特別病室を出た。ドアが閉じる直前、世界を動かせる男の慟哭が追いすがった。
外で待機する黒服二人は、何も聞こえないふりで立ちつくしていた。
ナノマシンにはナノマシンで対抗するしかない。
麻薬ナノマシンに侵された患者の脳に、ブーステッド仕様強化ナノマシンの一部を送り込む。ナノマシン通信により、ブーステッドマンは患者の意識に潜入する。そして麻薬ナノ――Aliceを無力化し、患者の意識を救出する──
簡単な説明だ。実にわかりやすい。だが、前例のない仮説にすぎない。こんな茶番じみたプロジェクトに大量のリソースが投じられる理由はただ一つ。患者が鷹峰 政虎の娘だからだ。小学校で教わる〈平等〉など何処にもない。
凪沙がKINKIメディカルセンターに収容された1時間後には、対策チームが動きだしていた。すべての症例、論文が検索され、異端とされる研究者がふるいの上に残った。ナノ対ナノ治療を提唱するイワン・スミルノフ博士。
政虎はたった一本の蜘蛛の糸に縋ったのだった。
特別病室で政虎に再会する直前、シュウは別室に通されてナノマシン治療の概要を聞かされた。あくまで参考に、ということで。
リスクの説明を受けた。強化ナノが麻薬ナノに敗れた場合には、治療可能程度の精神障害を被るという。
加えて、意識への潜入条件が説明された。
潜入者は患者にとって既知の人物である──という必須条件。未知の人物では患者との信頼《ラポール》が構築できず、治療を受容しないという。
とんでもないタイミングで不良娘と知り合ったものだ。小一時間の接触でしかないが、〈助けられるのはキミだけだ〉と父親に土下座されるわけだ。
家族の殺害を黙って見ていた政虎。現在《いま》、立場は逆になった。運命の皮肉というやつを、つくづく感じる。
仮説でしかない治療法で不良娘を助けに行けだと? そんな義理、オレにはないよ、ジイさん。
シュウはエレベーターで1階へ降りた。広大なロビーは夜間照明で薄暗い。
不穏な動きを感じる。バックグラウンドの探知《detection》レベルは最低設定だが、それでもナノは危険な気配を警告してくる。
ロビー奥に別棟へ続く廊下がある。死角になった先に、激しく動く複数人の振動を捉える。無音の騒ぎはすぐに止んだ。素早い決着だ。
吹き抜けになったロビーの2階回廊、そこにも一人潜んでいる。銃を構えているようだ。狙撃対象はシュウではない。騒ぎのあった廊下をやって来るヤツだ。
2階への最短ルートをイメージした。総合受付カウンター、自動精算機、回廊の手すり──
シュウは加速モードに入る。受付カウンターへ飛び乗った。
敏捷な獣のように、カウンターを蹴り精算機の天井板から回廊へ跳び移る。変哲もないビジネス靴のアウトソールは、グリップ抜群の特殊ラバーだ。あっという間に2階回廊の手すりを越えていた。
階下へ機銃を向けていた男が、とつぜん真横に現れた男に驚愕する。次の行動をとる間もなく、その顎にシュウの蹴りが入っていた。
昏倒した男から武器を奪う。
何処の刺客だ? どんな絵が画かれようとしている?
手すりを飛び降り、また1階に立つ。機銃に狙われるはずだったヤツがこちらへ来る。
身構える。──強い。
角を曲がって巨大な影が現れた。
コイツは……
10時間ほど前にKOした《《ゴリラ》》がそこに居た。負傷した肩に続く左腕をアームホルダーで吊っている。凪沙はベンケイと呼んでいた。
ナノマシン応用科──希少な診療科が、このセンターには設置されている。やって来た廊下はそこに連絡する。治療を受けてきたのだ。
段取りが良過ぎないか。夜間なのに……
ベンケイはこちらに気づいた。
まさかリターンマッチはないよな。片腕じゃ戦えないだろう。
シュウを認めると巨体を床に落とした。あぐら座りする。戦意が無いことを示した形だ。
「狙撃されるとこだったのか……アンタに助けてもらったんだな」
シュウの手には銃口を握られた機銃が逆向きにぶら提がっている。それを見て状況を理解したようだ。
「ただの通りがかりだ」機銃を持ち上げて見せる。「持ち主はとりあえず寝かしつけた。オマエ、誰に狙われてる?」
「潮原組…… きのう一緒にメシを食った連中が襲ってきやがった。この先の廊下で二人倒れてる。オレが邪魔になったらしい」ふふ、とベンケイは自嘲気味に笑う。そしてシュウの目をまっすぐ見た。「姫をここへ運んでくれたそうスね」
「姫? ……鷹峰 凪沙のことか?」
大男は頷く。
「バックドロップ、いい角度だった。アニキには完敗っす。たぶん、何回やっても勝てない」
あまりの潔さに拍子抜けする。そして自分がアニキと呼ばれた事に気づく。
「おい、待て。歳下にアニキはないだろ」
「オレ、18っす」オッサンだと思っていた大男はイタズラ小僧のように笑った。その笑顔は、なるほど18に見える。
オーバーブーストの副作用だ。過剰な身体能力と引き換えに老化が進む。
何かを手に入れるためには、何かを手放さねばならない。それが生きることだ。
250年後に終わる世界は、潜在意識に鬱を植え付ける。短くても思いきり生き抜く──そう考える若者が増えている。この18もそうだ。誰にも負けない強さを求めた。そしておそらく凪沙は、子供返りのように、永続する遊園地を求めた──
「アニキはいい人だ」
「何だ、それは」
「オレにトドメを刺さなかった。もしオレが勝ってたら、トドメ刺してた。ずっとそうしてきたから、そういうモンだと思ってた」
ハナシがおかしな方へ行きそうだ。シュウは切り上げる。「悪いが、疲れてるんだ」弾倉を外した機銃を大男の前に放った。
背を向けて時間外出入口へ向かう。その背を野太い声が追って来る。
「姫を助けてください」
その言葉に足が止まる。
「なんでオマエが頼む?」
「幼なじみ、なんス。小さい頃からずっと姫を護《まも》ってきた。オレ、姫を助けにAliceの国へ行く。一緒に行ってくれませんか。アニキはオレより強い。二人で行けばきっと助けられる。姫が麻薬《ヤク》やってたのは知ってた。でも軽いやつだと思ってた。まさかAliceだなんて…… センセイに姫の護衛任されたのに、失格だ。オレの責任っす」
センセイとは政虎のことだろう。何にせよ、感情をさらけ出したハナシは頭が痛くなる。
「内輪の事情だろ。オレには関係ない」止めた足を動かす。
「じゃあ……オレが一人で行く」
落胆の声を置き去りにした。
外へ出ると肌寒い。夜明け前の駐車スペースはガラ空きだ。日が変わって土曜日なのを思い出す。
紫に明ける空を見上げた。
あのゴリラ、凪沙に惚れている……
大阪城のむこうに巨塔がそびえ立つ。新都庁だ。
房総大地震で半島の一部が海溝に引きずり込まれ、東京は壊滅した。喪失の日からひと月後のことだった。終末観に捉われた国家に関東復興の気力は無い。なし崩し的に大阪に首都が移った。皇室は、長い年月を隔て、再び京都に戻った。
シュウの腕時計型情報端末《リストデバイス》が着信を知らせる。政虎からだ。
応答を拒否して通知をオフにした。
剥き出しの感情がひどくこたえる。肉親同士のそれは、特に。
*
浅い眠りに宙吊りになって、悪夢の波に洗われていた。
革ベルトで少女が寝台に拘束されている。少女に顔はない。のっぺらぼうに目と口の黒い穴が空いている。黒い穴の目と口が極限まで開いて絶叫している。
苦痛の叫びは、不快なサイレンのように胸に刺さる。長く途切れなく続く──
シュウはベッドに跳ね起きた。冷たい汗が全身を濡らしていた。
時刻を確認する。午前9時少し前。
2時間ほど横になったが、眠った気がしない。少女の悲鳴がずっと背景音になっていた。ナノに頼れば理想的な深睡眠に入れるが、オフの時間を作らないと依存症に陥る。
強いシャワーを浴びた。水圧が不快感を洗い流すわけでもない。夢の悲鳴は残響になって意識の底をリピートする。
ドリップマシンでコーヒーを淹れた。
7階の窓から見える新緑は朝の光に輝いている。が、公園の爽やかな眺望の背景にも、悲鳴のリピートは居座りを続ける。
ナノを頼れば封印できる。現に、ある記憶を強固に封印している。肉親が惨殺された記憶だ。記憶槽の底を掘って埋め、何重にも蓋をし、さらにコンクリートで固めるごとくナノマシンが封印した。そうしなければ立ち直れなかった。
これ以上は使えない。度が過ぎると、意識の連続性に齟齬が生じて、精神が失調する。それに、夢で聞いた悲鳴を忘れてはいけない。そう心が叫んでいる、気がする。
凪沙にこだわっている。何故だ? 数えきれないほど悲惨な者たちを見てきたというのに。
シュウは住まいのマンションを出て、1ブロック離れた新都庁に向かった。
新都庁総務部、庁舎管理課。都民の用がない閑職にゼロ課は隠れている。管理課の脇に、見過ごすほどの業務連絡室がある。所属する人間は出向組で大阪都職員ではない。そういう事になっている。
腕時計型情報端末《リストデバイス》で認証を受け、都庁のゲートを通過する。5階の職場へ向かった。
業務連絡室──資料と書類の詰め込まれた部屋を抜けて次のドアへ。その先は高度なセキュリティにガードされる小部屋だ。窓もない。
パーテーションが区切る奥のデスクにチーフが居た。
公方《くぼう》 未有《みう》──三つ歳上の女性上司だ。
「おはようございます。未有さん」
「おはよう」PCから顔を上げてシュウを見る。目元を流れる赤いアンダーリムがよく似合う。
「ECHIGOYAの件は完了です」
「お疲れさま。じゃあ、次は関東へ行ってもらう事になるかな」
東京へ行く、とはもう言わない。東に京などない。瓦礫の山でほったらかしの青山界隈が目に浮かぶ。喪失の日からさらに拍車のかかった人口減少で、関東には復興需要がない。
「例の、精神テロですか?」
「うん。東日本チームのアシストだから急がなくていい。でね、今度の件では無理言ったから、長めに休暇を取っていい。そう上が言ってる」
〈凪沙の救出に行ってもいい〉という意味だ。いや、〈頼むから行ってくれ〉か。
未有は板挟みになったような顔をする。「アナタが決めたらいいのよ──」細い眼鏡の奥で、切れ長の目がシュウを見つめる。「無理しなくていい。休暇は断りなさい」
「……自分で決めます」
チーフの口が、聞き取れぬほどのため息を洩らした。
新都庁を出たシュウは大阪城公園を横切った。行き先が決まっているように歩みは速い。堀沿いに走る市民ランナーとすれ違う。
夢の中で悲鳴を上げていた少女には顔がなかった。その意味がわかった。
凪沙が妹に重なるのだ。近くに居た時、たしかにシュウの気持が和んだ。
家族の記憶は封印されて、妹の名も顔も知らない。思い出そうとすると、意識の映像にボカシがかかる。
背筋を冷やす推測が脳裏をよぎる。
──妹は凪沙に似ているのかもしれない。
夢の中で、凪沙の顔が妹の記憶を引き出す──その可能性をナノは警戒した。危険な記憶の浮上を阻止するために、夢の少女をのっぺらぼうにしたのだ……
シュウの内にある家族への思慕が、封印された記憶を召喚しようとしている。幽霊を呼び寄せるように。
お兄ちゃん、助けて──幽霊は訴える。
病院のベッドで、たった今、拘束された少女が禁断症状の責め苦を受けているのだ。
早く気づくべきだった。苦しんでいるのは妹だ。重なった二人の少女を、もう分離することはできない。
ブーステッドマンを志願した理由。それは、護《まも》る力が欲しかったからだ。理不尽な暴力から大切なものを護る力。それさえあれば、妹を、家族を殺されずに済んだ。
くそッ。
シュウは走りだす。
妹を、二度も殺させるものか!
加速《ブースト》した。
追い越すランナーたちが風圧でよろめく。
突風に煽られた、と彼らは思ったに違いない。
*
ナノマシン応用科処置室。実験室のような部屋に、凪沙は病室から移されていた。
無機質な実験台に似たベッドが三台並ぶ。中央に凪沙、奥にベンケイが寝ている。
水色の患者衣に包まれた凪沙の姿は、あまりに痛々しかった。四肢と体幹をベルトで固定され、泣いて嫌がった坊主頭にされている。つるりとした頭部に数えきれないほどセンサーが貼り付き、そこから伸びたコードは機器に繋がっていた。
おちついた呼吸をくり返しているが、1時間前に禁断症状が襲ったという。苦痛で目覚め、大声で暴れ、力尽きて失神した。拷問吏が待つ〈不思議の国〉へ戻ったのだ。どちらに行こうと地獄に変わりはない。
シュウは手前の台に躰を横たえる。
女性看護師がバイタル計測のセンサーを裸の上半身に貼り付ける。
凪沙ごしにベンケイを見た。旅立って20分が経過しているという。
ベッドが狭苦しく見える大男は、眉根を寄せていた。むこうの国でどんな状況にあるのか想像もできない。
ベンケイのモニター画面には〈カツラ ツトム〉と表示されている。それが本名だろう。
鷹峰 政虎は倒れ、鎮静剤を射たれて別室で横になっている。
シュウの家族が長い時間をかけて殺された時、表情を変えずに眺めていた男は、愛娘の苦痛を正視できなかった。
少年だったシュウは家族の惨殺を見せられた。その時の光景は、たった一つの映像として残っている。無音の、忌まわしい写真。こちらを眺める数人の男たち。高価なスーツに身を包む成功者たちだ。中央の男は爬虫類を連想させる。薄い冷血な唇に笑みを浮かべている。後方に、鷹峰 政虎のまだ若い顔がある。
ナノマシン精神治療の際、その写真だけは封印しないでくれ、と無茶な要求をした。忘れるわけにいかない。切り取られた写真は色褪せることなく、シュウの胸に刻まれている。
復讐のためかもしれない。が、その写真が、とんでもない窮地から幾度かシュウを生還させた。
心の闇は黒いエネルギーを産む。銀河の彼方に現れたブラックホール。あれは、人の心の闇が生み出したのではないか。そんな想像さえ脳裏を掠めた。
「準備ができました」白衣にマスクの医師が言う。「アナタの血液から特殊浸透膜で抽出されたナノマシンの一部は、輸液と共に患者体内へ入ります。浸透膜はブーステッドのナノマシンのみを通しAliceナノマシンを通しません。その点はご安心を。ブーステッドお二方と患者は輸液チューブで繋がります。通信機能付きチューブですから、患者体内へ潜入したナノマシンは本体のナノからコントロール可能です。ただ一つの事、患者の救出だけを考えてください。そうすれば、おのずと道は開ける。それが博士のアドバイスです」
現場は男性医師と女性看護師の二人だが、傍らのディスプレイから映像だけの博士がweb参加している。アドバイザーと称して。
イワン・スミルノフ──異端と呼ばれるナノマシン学者──は、華奢で細面のまだ若い男だ。東欧訛りの英語を喋る。
webの接続先は不明だ。背景にコバルトブルーの海が拡がる。オープンテラスで食事を摂りながら、博士はカメラに向き合っている。爽やかな風が吹いているのだろう。ブロンドの長髪がなびく。
回線のむこうからシュウに語りかけてきた。
「現実の条件はすべてAliceの国に継承される。あちらでも、キミは無敵のブーステッドマンだ。でもアウェイだからね、一つヒントをあげよう」口中の肉をクチャクチャ嚙みながら言う。「あちらはAliceに占領されて敵だらけだが、元々は患者の領地なのだ。それを患者に気づかせることだよ」
「どうすればいいんだ?」
「さあね。ボクにもわからない。初めての 臨床だ。前例がないんだ。まあ、健闘を祈ってる」
シュウは舌打ちする。「時間の無駄だ。さっさとやってくれ」医師に向いて言った。
医師が頷き、看護師は左肘の静脈に穿刺した。チューブを血液の赤色が奔《はし》る。体内に棲む強化ナノの一部が浸透膜フィルターを通過する。透明な輸液と混じりチューブを伝って凪沙の静脈に入る。
目を閉じてナノマシン通信を開始する。少女の体内へ潜入した強化ナノを追う。やがて脳血液関門を通過し、シュウの意識が凪沙の意識にシンクロし始める。
待ってろ、いま助けに行く。兄ちゃんが──
視界が暗転し、シュウは別の世界へ飛び去った。
スミルノフ博士はワインで口を洗ってから、現場の医師に追加説明をした。
潜入者が他人の意識内で死亡した場合、情報フィードバックにより現実の肉体も死を迎える──と。
医師の目が険しくなる。勇敢な男たちは、それを知らずに少女へ潜入した。用意された資料に従って、〈治療可能な精神障害程度〉のリスクだとしか説明していない。
「彼らを騙したのか?」医師は憤慨する。
「騙してなどいない。あくまでも、帰って来れた場合のリスクだ」ククク。悪びれもなく笑う。
「彼らに何と言って詫びればいい」医師は頭を抱えた。
「詫びる必要はないよ。帰って来ないから」グラスにワインを注ぐ。「先に行った大きな男、そろそろ死んだかな」
ビクッとした看護師がモニターを振り返る。「バイタルは正常です。データをそちらへもリアルタイム表示しますか?」博士を睨む。
「いや、いい。食事中だし。へえ、タフなんだね。さすがブーステッドだ。ブーステッドのタッグチーム対Alice の戦い、か。観《み》たいなあ。通信ナノを注射してそっちの回線に繋げば、中へ入って観戦できるんだ。でも、巻き添えで殺されるのヤだし。ま、データだけでいいや。きっといいデータが取れる。男二人が死んでからでいいよ。データはまとめて送ってね。ククク」
「そのデータは、仮想現実麻薬《VRD》の治療に貢献するのですね?」怒りを抑えて医師は尋ねた。
「貢献? キミ、ばか?」グラスを持ち、血のように赤いワインを飲む。「治療なんてどうでもいいの。ただの趣味。ボクの退屈しのぎだよ。彼らの死には何の価値も無い。〈犬死に〉ってニッポンでは言うのだったね。ククク」
こちらに向いて手が伸びた。何処とも知れぬ海辺のテーブルから、通信は一方的に切断された。
取り残された医師と看護師はブルッと震えた。まるで、冷凍庫の扉が間近で開いたかのように。
04 不気味の国
嵐の到来を告げる空模様だ。ネズミ色の厚い雲が風に押される。
雲間を稲光が奔《はし》る。空気は雨の予兆を孕んで重い。
シュウは小高い岩場に居た。前方に針葉樹の森が拡がる。その彼方に、三つの尖塔が天を衝く城が見える。
城壁は元々カラフルな暖色系だったのだろう。そんな想像をかき立てる佇まいだ。現在《いま》は変色し、どす黒い夜の色。表面を、浮き出た血管を思わせる赤い筋が蔦のように這っている。
初回の入園者をファンファーレで迎えるおとぎの城は、闖入者に対して、はじめから本性を晒していた──
もう〈不思議の国〉ではない。〈不気味の国〉だ。
Alice がプログラムする世界のルールについては説明を受けた。この国へ持ち込める物には条件がある。普段から身に着けている、精神的に親和性の高い物に限られる。
装備は確かに現実世界から継承されていた。サラリーマンスーツはゼロ課仕様。防刃、防弾のカーボンメッシュが仕込まれている。しかも軽量で伸縮に富み動きを妨げない。ポケットにはちゃんと相棒のジョーカーも入っている。いつも通りだ。
いつも通り戦えるとして、問題は敵の戦力。Alice がどれほどの力を持つのか想像もつかない。
眼前に拡がる世界は、圧倒的な存在感だった。とても仮想《つくりもの》とは思えない。現実《リアル》に勝る現実感《リアリティ》をシュウは全身で体感していた。
これがAlice……
他のVRD体験がハリボテに思える。
感心していてもしょうがない。岩場を降りて森の中へ進んだ。
ベンケイを探さねばならない。現実の条件が継承されるなら、アイツは片腕を負傷している。
頭上に繁る枝葉が陽光を遮る。湿った腐植土に足が沈む。城までおよそ4km。
しばらく行くと、広範囲サーチ設定したナノが複数の動きを捉えた。
見つけた。
動きを感知した方角へ加速《ブースト》する。
樹々の間にベンケイの姿が見えた。ぐるりと囲まれている。包囲するのは、鈍色の鎧兜に包まれた頑健な兵士たちだ。その数16。
なるほどAliceの世界だ。
鎧には胸と背にマークが描かれている。黒のスペードかクラブ、または赤のハートかダイヤ、四種類の内いずれかのマークを付け、マークの中央には数字が白抜きされている。
ベンケイの左腕にアームホルダーはなかった。だが動きは不自由だ。ほとんど右腕で応戦している。ソードで斬りつける兵士たちを殴り倒す。圧倒的な強さ。それでも、さすがに数に押されている。
シュウは戦いの輪に躍り込んだ。
兵士の背に弾丸ドロップキックを浴びせる。大腿四頭筋をブーストしたキックは、鎧ごと背骨を粉砕した。
手の側面に超高速振動を発生させる。衝撃波で生じる刃《やいば》が表面に浮く。チェーンソーと化した手刀は鎧ごと敵を斬る。カマイタチと呼ぶ必殺の仮想剣だ。
カマイタチが死神の鎌のように弧を描き、弧に捉えられた首は目を見開いたまま躰を離れた。
新手の参戦に兵士たちの陣形が崩れた。
斬りつけるソードをカマイタチで弾く。
無重力が生じたようにシュウの躰が宙に浮く。自分の身より高く跳んだ相手を、敵兵は唖然と見る。その頭部を廻し蹴りが水平に薙ぐ。
ベンケイがシュウに気づいた。ゴツイ顔が喜色に染まる。
「アニキ!」勇気百倍し、対する兵士の顔面を鷲掴みするや握り潰した。
挟撃でトランプ部隊は劣勢にまわった。
シュウは樹を蹴って水平に飛ぶ。手刀とキックで圧倒する。
ベンケイは右腕を振り廻し、敵兵の首を巻き込んで叩き折る。
数分後、トランプ隊は全滅していた。
二人のブーステッドマンも、さすがに肩で息をしている。
敵戦力がトランプの形式なら、残り兵は32という事になる。初戦は突破できたが、本当にこの程度のものか。それとも単にこちらの力量を測っただけか。
「やっぱ来てくれたんスね」ベンケイは額から出血している。「来てくれるって思ってた……」
「オマエの片腕を使えなくしたのはオレだ。責任がある」
「へへっ、何でもいいっスよ」
ボツボツと音をたてて大きな雨粒が落ちて来た。
先の岩場に裂け目を見つけ、雨よけにそこへ入った。
奥行は5mほどだ。大男と並んでも横になれるスペースがある。
城──おそらくAliceの拠点では、ハードな戦闘が待つだろう。強化ナノマシンは疲れを知らないが、宿主本体が疲労すればナノとの同調遅延が起きる。戦闘力はかなり低下する。僅かでも休息が必要だ。
ベンケイは急いているが、躰の事情は理解している。シュウに促され、並んで寝ころんだ。
風が強まり、叩きつけるように雨が降り出した。
「左腕、具合はどうだ?」
「病院で関節のズレを戻して医療ナノマシンの注入受けたから、まあ動かせる程度には」ゆっくり肩を廻してみせる。「利き腕じゃなくて良かった」
「カツラ ツトム……桂 勉って書くのか?」漢字を尋ねる。
名前を言い当てられて、ベンケイは目を丸くした。モニター上の名前表示に思い至り納得する。そのとおりと頷く。
「だから、ベン、ケイか」
体格にピッタリじゃないか。
「ここまでして鷹峰 凪沙を救おうとする理由は何だ? 幼なじみというだけじゃないだろ」
ベンケイは仰向いたまま、長い間岩天井の薄闇を見つめていた。そして、ボソリと語り始めた──
勉の母親は鷹峰の屋敷のランド・スチュワード、つまり使用人たちを束ねる総責任者だった。正虎の妻、怜那《れいな》に気に入られた母はよくお茶の誘いを受け、勉も同じテーブルにつくことがあった。三つ下の凪沙には兄のように頼られた。小学校へ上がる前後のことだ。
鷹峰の屋敷で何かの宴会があった際、客の一人が連れて来ていた大型犬が何故か裏庭に迷い込み、遊んでいた勉を襲った。勉を助けようと、凪沙が棒で犬を叩いた。犬は矛先を変え凪沙の脚に咬みついたが、飼い主である客が犬を射殺した──
「姫もオレも大怪我だった。すぐに救急で最先端のナノマシン治療を受けた」
ナノ治療は高額だ。娘はともかく、鷹峰の力がなければ勉はナノ治療など受けられなかっただろう、とシュウは思った。
「その治療の時、姫とオレが〈適合者〉である事がわかったんだ。二人ともブーステッドになれる資格があるって……」
遊走型生体強化ナノマシン──スーパーマンを造り出すナノサイズの兵器だ。ただし、この兵器を体内で飼いならせる人間は限られる。およそ200人に1人。Aクラスの同調率を出せるとなると、さらにその半分以下。
二人の子供が《《偶然》》〈適合者〉だったというのは運命の導きか、それとも計略の仕業か。揃って犬に咬まれてナノ治療。治療過程で〈適合者〉と判定される。計略の臭いがプンプンする。
鷹峰の屋敷に犬を連れて入るほどワガママを通せる人物。その犬の繋ぎが何故か外れて、たまたま居合わせた子供たちを襲う。
シュウの脳裏に、ある男の顔がまた浮かぶ。そんな偶然を実行できるのは、アイツくらいだ。
家族が殺された時、取り巻きに囲まれて中央に居た男。
劉《リウ》銘《ミィン》。
中華経済圏の裏社会に君臨する帝王だ。世界最大の通販企業〈飛龍《フェイロン》〉がフロントと噂される。飛龍《フェイロン》と比較すれば、ECHIGOYAとて半分の規模もない。
17年前、ECHIGOYAは飛龍《フェイロン》の代理店のようなものだった。日本・オセアニア商圏を任され飛龍《フェイロン》の番頭にすぎなかった鷹峰は、取り巻きの後ろに立っていた。
のちにECHIGOYAは独立して急発展する。
調子に乗るなよ──劉《リウ》が鷹峰の躍進に《《警告》》したとしても不自然ではない。警告は、一番大切なものをおびやかすのが何より効果的だ。
劉《リウ》の残虐さは伝説と化している。幼児《おさなご》を犬に喰わせるなど、何でもない事だろう。
犬連れで宴会に赴いたのは、劉《リウ》銘《ミィン》、もしくはその代理人に違いない。
「姫が棒で叩かなかったら、オレ、喰い殺されてた。だから、姫を護《まも》るためにブーステッドになったんだ。お金はセンセイが出してくれた。相手がAliceだろうが、絶対ここから助け出す」
純情な男の子は、娘のボディガードに雇われた。ところが、護《まも》られる側の娘もブーステッドになった。父親のクレジットをハッキングするとかして、闇手術《やみオペ》を受けたのだろう。
「姫は、すっかり変わっちまった。けど、ホントはやさしい、いい娘《こ》なんス。オレのことお兄ちゃんって」シュウがもつ悪印象を弁護するように言う。「でも、奥さま──姫のお母さんが離婚してお屋敷を出て、そんで自殺して……あれで姫は壊れちまった。っていうか、自分から壊れようとしてる」
シュウは話を遮った。熱い感情の発露はごめんだ。家族のあやなど想像したくない。
凪沙が言っていた〈Aliceの断薬剤〉。それは、もしかして、本当に有るのだろうか。無いにしても、それをエサに鷹峰をコントロールできる──
「潮原組としては、姫さまを助けに行かせたくない。だからオマエを排除しようとした。後ろに隠れてるヤツの意向でな」
「後ろ?」ベンケイは、単に潮原の裏切りと思っている。「いったい誰が後ろに?」
「劉《リウ》銘《ミィン》、おそらく」
「劉《リウ》……」声の温度が急降下する。それほどの悪名だ。「何でヤツが出て来るんスか?」
「ECHIGOYAの業績は絶好調だ。快く思わないヤツもいる」
「ちくしょう。ハナシがデカ過ぎだぜ」
雷光が森を照らした。間を置かず轟音が落ちる。風が樹間を荒れ狂い、岩場を叩く雨がしぶきを上げる。
交代で15分ずつ睡眠を取ろう、とシュウは提案した。
ナノの助けを借りる強制睡眠──緊急措置だ。僅かな時間で傷も体力もガッツリ回復《チャージ》できる。
先にベンケイを休ませ、次にシュウが眠った。
タイマー仕掛けのように目が開くと、ベンケイが逆光に立ち両腕を廻していた。
「起きたんスか?」
「ああ、ぐっすり寝た」たった15分だが、10時間も眠ったようだ。「オマエも調子良さそうじゃないか?」
「左肩、回復っすよ。7割ってとこ」顔をしかめながらも可動域を確認している。やる気満々だ。
雲間から陽の柱が幾条も射している。雨は霧のように細かく、風の叫びは止んでいる。
全滅した兵士の亡骸は一つ残らず消えていた。まるで嵐が洗い流したように。いや、データに還元され消去されたように──
樹々のむこう、城の尖塔を中心に雲一つない空がある。雲海を丸く切り抜いて、そこだけ真っ青な円が城の上を飾っている。まるで目印だ。ここへ来い、とでも言いたげに。
招かれているわけだ。
濡れた草を踏み森を貫いて、ブーステッドマン二人は城に向かった。
「アリスの話がベースなのに、道案内のウサギは出ないんかい」ベンケイが言う。
変な双子やキノコに寝そべるイモムシ……そんなキャラも居た。おとぎ話を思い出す。さて、どの程度オリジナルをトレースしているのか。
──回答は間もなくやって来た。
突然の殺気。
斜め上からすばやく襲いかかるモノを紙一重で躱《かわ》した。頬がざっくり切れる。
「ベンケイ、敵だ!」樹の陰に飛び退いて叫ぶ。「見えないぞ!」
「見えないって」ベンケイは狙いを逸らすように動く。が、加速直前に左上腕をやられた。何かがぶつかって血しぶきが飛ぶ。そこには、抉られた咬み傷があった。
「ちくしょうッ。牙持ってやがる。透明な獣だ」加速状態で樹を盾に位置を変えながら、シュウに伝える。
見えない上にスピードがある。こちらの加速を上回る。
脚を激痛が襲った。スラックスの生地ごとふくらはぎを一口いかれた。損傷部が広いと単発の弾丸のように弾き返せない。ナノマシンが急遽、止血と修復に奔《はし》る。そのぶん戦闘力は削がれる。
(口のサイズが猫くらいの獣だ)
発声せずナノマシン通信に切り替える。至近距離なら可能だ。なんとかベンケイにリンクした。
(そうかい。じゃあ、人喰い猫ちゃんにエサやるぜ)
ベンケイは加速を解除し、木の陰から出て仁王立ちした。
(ばかッ。何やってる!)
咬まれた方の腕を前に突き出す。ベンケイは両目を閉じた。
強化ナノのアビリティを大きく聴覚に振っている。視覚情報を断ち、動体が空を切る音だけに集中している。
何かが突き出された腕に向いて突撃した。
ベンケイはカッ、と目を見開く。腕の傷口から血液のシャワーを扇形に放つ。傷口周囲の筋肉を引き絞ってわざと出血させたのだ。
真赤なスプレーを噴き付けられた透明な獣は、その姿を空中に晒した。
意図を察したシュウは既に跳んでいた。赤くマーキングされた塊をパンチで叩き落とす。
ブヒャッ、と呻いた獣はベンケイの足元でバウンドした。すかさず大きな両手が捕らえる。
シャーッ。血まみれの獣は逃れようと暴れた。
「これ、猫か?」
血を浴びた虎猫らしきモノは、吊り上がった金目とノコギリ刃の大口で威嚇する。
「ワニみたいな顔だ」猫好きでなくて良かった、とシュウは思う。逃がしてやれよ、と言わずに済む。
「おめえがチェシャ猫ってわけか?」ベンケイは捕えた手に怪力を込める。悲鳴。骨の砕ける音。「ネ~コは、コタツで、丸くなってろッ!」化け猫を丸め潰す。出来上がった猫ボールを、山寺の和尚のように森の奥へ蹴り飛ばした。
「無茶するヤツだな。大量出血だぞ」
「きっちり400ml。献血っすよ」
命が惜しくないのか。なかばあきれながらも、覚悟を見せられた気がした。
05 国を統べる者
闇色に赤い血管が脈打つ城壁。悪魔城の不気味さは間近に寄るほど際立つ。晴天の下、吹き抜ける風の爽やかさがチグハグだ。
外堀沿いに木立の陰を巡り侵入路を探っていたが、あっさり迎えがやって来た。
草むらから、すっくとウサギが立ち上がる。
「やっと出たかい、ウサ公」ベンケイは口を歪める。
蝶ネクタイもチョッキも着けていない野ウサギは、偉そうな口をきいた。「オマエたちの居場所はバレてる。コソコソせず正門から入れ」
取り囲まれていた。ナノセンサーにかからないほど隠密に。
伏せ置かれたカードがめくれる感じで、トランプ兵の大軍が背後の森に湧き上がる。幾層もなして退路を断つ。
敵兵数は52で済まなかった。トランプセットは無数に用意があるようだ。ブーステッド二人はため息をついた。
「いくらでも出て来い。ひねり潰してやる」ベンケイは息巻く。
(体力は温存しろ。ここでおっぱじめても、中までたどり着けない)
シュウは通信で《《ささやき》》、ベンケイをなだめた。
「お招きにあずかろう、ウサギさん」シュウは生意気な案内係に言った。
「早くしろ、女王がお待ちかねだ。ナギサの拷問ショーが始まる」
「テメエ!」
ベンケイの腕を押さえた。(今は相手に合わせとけ)
「ウサ公、後でテメエもミートボールにしてやる」
跳ね橋を渡り大門を通過する。前庭には槍を構えるトランプ兵が整列している。その間を抜けて城内へ。
兵士が立ち並ぶ通路をウサギは飛び跳ねて先導した。
敵の多さに辟易する。体力温存をベンケイは納得しただろう。
大扉に突き当たり、それが内に開く。3階まで吹き抜けの大広間《ホール》に出た。
広間の先で緩い階段が始まる。十数段のぼると広い壇になり、中央に黄金の玉座がある。玉座に納まって、ハートの女王が脚を組んでいた。
壁沿いに兵士、壇への階段両端には《《絵札》》の親衛隊が控える。
《《絵札たち》》は鎧兜を着けていない。カードの絵柄そのままの衣装だ。剥き出しの顔は、簡素な絵を3Dに変換したように、おそろしく作り物めいて不気味だ。
女王《クイーン》は不気味な顔に微笑みを浮かべて迎えた。
背後で大扉が閉じる。付き添う兵士が左右に3兵ずつ。向けられた槍先は命令一つで串刺しに来る。
階段の手前で停止を命じられた。
玉座までの距離──およそ20メートル。
圧倒的な自信がなければ、ここまで接近を許さない。
いつの間にか案内ウサギは消えていた。
「凪沙は何処だ」シュウは女王に問う。
「娘に何の用だ?」女王はしわがれた声で問い返した。
「保護しに来た」
「おやおや、本人の希望で預かっているのだがな」
「丁重に扱われているなら問題ないが、どうも違うようだ」
ククク。女王は袖で口元を隠して笑った。
「早く会わせろ!」ベンケイが焦《じ》れる。
槍先が寄る。
「そこのデカイの──」女王はベンケイを睨《ね》めつける。「怖いもの知らずは命取りだぞ」右手を挙げ、ひらひら振った。
広間を巡る大窓すべてが翳る。城の上空に黒雲が湧き、逆に遠方が雲一つない青空になる。空の色分けが逆転した。
雨粒が窓を打ち始める、まばゆい光が射すと同時に雷鳴が轟いた。闇に染まった大広間《ホール》に、燭台の灯りが次々燈る。
「これがワタシの力だ。ここはワタシの国。オマエたちが外の世界でいくら強かろうと、ここでは虫けらも同然」肘掛に頬杖をつく。
「違うな。ここは凪沙の国だ。オマエらはそこに生えたカビさ。きれいに掃除させてもらうぜ」
シュウの宣戦布告が終わらないうちに、ベンケイは音速の世界へ跳んでいた。向けられた槍など気にもしない。つむじ風が吹き荒れた後、包囲の6兵士が倒れていた。首や手足を逆方向に折られている。
怒りMAXだな、ベンケイ──シュウは舌を巻く。
頬に負った傷の血を親指で拭って舐め、ベンケイは女王に歯を剝いた。「オバハンよォ、さっさと人質解放しねえと、その首へし折るのに10秒かからねえぜ」
兵士たちが前進し、親衛隊はソードの鞘を払う。
「待て」女王の一声が広間の動きを抑えた。真っ赤に塗った唇が不敵に笑う。「脅《おど》かしたつもりかい、デカイの。オマエたちを潰すなどたやすい。でも、それでは面白くない。まあ、迷い込んできたアリス──ナギサとやらに会わせてやろう」
女王が命じると、壇の背後に垂れていた臙脂の垂れ幕が開いた。
角材で組んだ十字架が現れる。そこに鎖で吊られているのは、凪沙だ。
下腹だけが衣類の残骸で覆われ、丸い豊かな乳房は露わだ。鉄球の口枷に唇を割られ、鉄球を固定する有刺鉄線が顔を巻いている。刺に突き破られた頬から血の筋が流れ、口から垂れた唾液と混じって白い胸を汚している。有刺鉄線は縦柱に固定され、俯くことはできない。
スペードのQとK、二人の拷問吏がイバラ鞭を手に両脇に立つ。
縛《いまし》められた娘の虚ろな目が、シュウとベンケイを認めて動いた。涙が涸れた目には絶望しかない。
「躰は、今はまあきれいな状態だ。先ほど腕を斬り落として責めたが、再生は済んだようじゃ」女王は凪沙を見て嗤《わら》った。
横で空気が振動し相棒の姿が消えた。ベンケイはキレた。
太刀を受けながらも親衛隊を弾き飛ばす。掴まえて頭上に持ち上げ、立て膝に叩きつける。背骨を割られた絵札兵は、血ヘドを吐いて階段を転がる。
シュウも加速《ブースト》した。フルスロットル。抵抗が上がり空気は油のような粘度を帯びる。ねっとり躰に絡みつき、高圧の深海を移動するようだ。相対的に相手の動きはスローモションになる。
スピードで勝るシュウはベンケイを抜いて段を駆け上がる。遮る絵札兵たちを手刀ブレード──カマイタチで退ける。
玉座はそこだ。
「ベンケイ、道を開けたぞ!」
「おうよ」大男は全パワーを右拳にチャージ。女王めがけて身を躍らせた。
このとき、シュウは超高速の世界で疑念を覚えた。
女王に宿る余裕は揺るぎない。何故だ? 遅れているわけではない。女王はこちらの加速について来ている。
ビキイィン!
金属が割れるような音が響いた。
ベンケイは空中で静止していた。振り下ろした拳は、女王の顔30センチ手前で止まっている。止めたのは指一本。左で頬杖をついたまま、けだるげに立てた右手の人差し指一本で、大男の豪腕パンチを受け止めていた。
ぐっ。空中で金縛りになった躰を動かそうとするが、琥珀に閉じ込められたように自由が利かない。女王が拳から指を離しても、ベンケイは空中に固定されたままだ。
「念動力《PK》……」シュウは呻く。形の無いモノとは戦えない。
「PK……とはちょっと違うなあ。空気を固めただけだ」
女王が見せた力に畏れたか、兵士どもは立ち止まって傍観している。
シュウは迂回して凪沙に迫った。まずは人質の保護だ。
だが、行く手を遮るものが居た。それは吹き抜けの上階から降って来た。
真上からの攻撃を躱《かわ》し、跳び退いて距離を取る。
地響きをたてて壇上に降り立ったのは、黒メタリックな鱗で覆われた龍《ドラゴン》だ。ベンケイの倍もある巨体。手足に鉤爪を生やし、背にコウモリの翼を持つ。深海魚を思わせる顔が大口を開き、牙を剥いて咆哮した。
「ジャバウォック──可愛いペットじゃ。強いぞ。余興に戦ってみよ」
コイツだけは出てきてほしくなかった。シュウはうんざりした。
龍は両手の鉤爪で上段を、鞭のような尾で下段を狙ってくる。
力量は──攻防で測るしかない。
初撃を加速でいなし、懐《ふところ》に飛び込んだ。手刀で薙ぐ。
鋭い音をたててカマイタチが弾き返された。
「皮膚は鋼《はがね》より硬くてのぉ。その程度の剣では斬れぬわ」女王は嘲る。
疲労が蓄積すればブーストレベルは落ちる。加速も攻撃力も低下する。このタフそうな相手に長期戦は禁物だ。
宙に跳び、躰をひねって黒龍の背に取り付いた。長い首に腕を巻き絞めにいく。
赤く濁る目が細まった。
苦悶かと思った。が、違う。嗤《わら》ったのだ。何も効いていない。
ドン、と背中に衝撃を受けた。龍が尾を叩きつけてきた。
首から腕を解き離れようとしたが、尾に巻き取られた。そのまま龍の正面に運ばれる。大鮫のような口が目前に開く。
瞬時に、龍の腹部に溝がある事に気づいた。躰を屈伸させるために、硬い表皮にはジョイントが必要だ。しかも背面より硬度が低そうに見える。
渾身の右ストレートを溝に叩き込んだ。
溝を貫き、肘まで腹部に突き刺さる。
龍は声をあげる。苦痛の声ではなかった。今度も嗤《わら》いだ。
腹に埋まった腕が圧迫されて抜けない。そこに激痛が奔《はし》る。
女王は勝ち誇って言う。「残念だったな。ジャバウォックには口が二つある。オマエはもう一つの口に手を入れたのさ」
腹部の溝が唇のように上下にめくれた。トラバサミとなった牙がシュウの腕を咬んでいる。
ブチッ、と音がして肘から先を喰いちぎられた。鮮血が飛ぶ。
「腕はじきに消化される。30分もあれば充分だ」
苦痛に顔をしかめながらも、シュウは嗤《わら》いを返した。「30分か。それだけあれば、確かに充分だ」
「なに?」
シュウは目で照準する。龍の体表のあちらこちらを。
とつぜん龍は呻き、尾の縛《いまし》めを解いてシュウの躰を放り出した。両腕を振り両脚で壇を踏み鳴らす。奇妙なダンスを踊りだす。
「何をした?」女王の顔が強張る。
「悪いもの喰ったらしいぜ」床に倒れたままシュウは応えた。
腹にぶち込んだ右拳は握っていたのだ。葉巻型マルチツールアイテム、切り札──ジョーカーを。
龍の胃袋の中、ナノマシン通信でシュウの指示を受けたジョーカーは、あらゆる向きに回転しながら熱線を撃ちまくった。フル出力だ。鋼《はがね》の皮膚は災いした。熱線は貫通せず、発生したガスや水蒸気は逃げ道がない。龍の体内は圧力鍋状態だ。
耳をつんざく絶叫をあげて龍は踊り狂う。やがて、上下の口から紫の血を大量に吐き、音をたてて横倒しになった。しばらく痙攣していたが、間もなくそれも止んだ。紫の血溜まりには、バッテリーを使い果たしたジョーカーが転がっていた。
「トランプで勝つなら、ジョーカーの使い方次第だ」表情を無くした女王にシュウは言う。
女王は歯ぎしりした。音が聞こえたかと思ったほどだ。「そうだな。だが、手札は使いきった」
見えない巨大な手がシュウを掴んだ。ベンケイと並んで吊り上げられる。女王が力を使ったのだ。
「可愛いジャバを殺してくれたな。まあいい。また甦らせてやる。ワタシには何でもできるんだ。な~んでも。ここがワタシの国だからだ」
「それは違う、とさっきも言った」シュウは首を振る。「ここは、凪沙の国だ」
隣に並ぶベンケイの異状に気づいた。蒼白な顔で口をパクつかせている。
「ベンケイに何をした?」
「ふふ」女王はおかしそうに二人の男を見上げる。「空気の通る穴をとっても小さくしてやった。苦しいよォ。喋るなんてとてもできない。デカイのは頭に血が上ってるからな。話はオマエとしよう」
「何の話だ?」
稲妻が炸裂し、雷鳴が城を揺らす。雨が激しく大窓を打つ。
「娘はこの国で楽しく遊んでおった。だが、この国は有料でな。制限時間を過ぎると追加チケットを購入しなければならない。これまで娘はきちんとルールに従っていたが、今回の支払いがまだだ。だから、ルール破りのお仕置きをしているわけだ」シュウをじっと見る。「オマエを解放してやろう。片腕がもげて、もう戦えまい。元の世界へ戻してやる。娘にAliceを投与しろ。追加のチケットだ」ニヤリと笑う。「Aliceを躰に入れれば、楽しい日々が戻る。拷問の記憶もきれいに消える」
「現在《いま》をしのげたところで、服《の》み続ければいずれ廃人だ。同じ事だろ」
「先の事に目をつぶり現在《いま》の享楽に耽る。それは、オマエたちヒトの生きざまではないか。Aliceは人生の縮図だ。娘は、短くても極上の享楽を選んだ。さっさと廃人になるも人生。楽も苦も意識あってのこと。廃人こそ涅槃」
何を言っても無駄だ。相手はマシンなのだ。
凪沙が妹に重なる。あの時、何もしてやれなかった。
「まだ子供なんだ──」マシン相手に、祈るように言う。「赦《ゆる》してやってくれ」
ぷっ、と噴き女王は哄笑した。太腿を叩いて笑い続けた。
「おかしいのぉ。兵隊を何十人、可愛いペットまで殺しておいて、赦《ゆる》せと言うか。オマエのすべきは、元の世界に戻って娘にAliceを服《の》ませる事だ。それを確認したら、デカイのも無事に帰してやる。よいな」
「断る」
窓が光る。壇上が白く染まる。
女王は芝居がかったため息をついた。
「では、二人とも処刑だ。包んでいる空気を引き伸ばして躰を破裂させる事ができる。逆に、縮めて圧《お》し潰す事も。どっちがいい?」
シュウは唇を噛む。躰の自由は奪われている。右手を失い、強化ナノは止血と治療に奔走している。疲労と相まって戦闘力は半減だ。頼みの綱はベンケイだけだが……
女王は十字架の凪沙を蔑むように見る。「この娘が子供かのう? 国《ランド》には男と遊ぶアミューズメントがある。娘はよくそこへ出入りしていた。お気に入りのプレイは──」
「やめろ」シュウは呻く。ベンケイに聞かせたくない。
「──蜂蜜風呂さ。トロリとした湯でたっぷり温まって、そのあと美少年に全身の蜜を舐め取らせる。くまなくな」
ベンケイの表情が歪む。
「ヒトの意識とは矛盾だらけで業《ごう》が深い。なのに、自分の中で強引に折り合いをつけようとする。滑稽じゃ」
見えない万力が躰を締めつけてきた。
「オマエたち、雑巾みたいに一滴残らず搾りきってやろう──」
胸が圧迫され肺の空気が押し出される。骨格に凝集したナノマシンが懸命に支えるが、肋骨に亀裂が奔《はし》る。意識が遠のく。
潰される──
握りしめていた巨人の手が緩んだ。肺が解放され酸素が供給される。シュウは激しく咳込んだ。
「……どうした、殺さないのか?」
女王は眉を上げる。「思いついたのさ。ヒトは、時に、自分の苦しみより他人の苦しみに耐えられなくなる。オマエはそっちのタイプだな。考え直すかもしれないなあ、娘の拷問を見せてやれば。いずれどうなろうと、現在《いま》の苦痛を取り除いてやりたい──そう思うかもしれない」ふふ。愉快げに振り向く。スペードの拷問吏たちに顎をしゃくる。
スペードQが垂れ幕の奥へ入り、木組みのワゴンを押して戻った。
ワゴンに載る物を見て、シュウは背筋が凍った。苦痛を効果的に引き出すための禍々しい器具が、様々な形状を見せて並んでいる。
「よせ……やめろ!」
「心配するな。躰を切り取っても、また再生してやる。やり過ぎて殺しても、また生き返らせる。ここはワタシの国だからな。何でもできる。死んで逃げられるほど甘くないのさ」赤い大口を開けて笑った。
「そうそう。この娘にも他人の苦しみを見せてやらねば……母親だから他人ではないか」開いた両手を廻し、宙に円を描く。
広間の中空に大スクリーンが開く。たおやかな女性の姿が映る。やさしい目をした美しい女性。ひと目で凪沙の母親とわかる。目鼻立ちがそっくりだ。
凪沙の虚ろな目が見開く。
「自殺した、娘の母親だよ。自殺の様子を娘は知っているが、ナノマシイン治療とやらでボカシている。ということは、何かある。ホホ。それをまず掘り起こしてみよう」
「なんてヤツだ。オマエは悪魔以上に邪悪だ!」
「褒《ほ》めるなよ、テレるじゃないか」女王は立ち上がり、凪沙の正面に立つ。
「なあるほど。ふうん。これはおもしろい。娘の母親はある男にたいそう気に入られた。父親のボスである中国人」
劉《リウ》だ。酷薄な顔が浮かぶ。薄い唇を歪めて嗤う男。
「ボスは娘の母親を欲しがった。そして父親は、出世と引き換えに母親を差し出した」女王は凪沙を見つめている。その目は脳髄の、鍵の掛かった記憶領域をスキャンしているのだ。
「だが、ボスを愛するフリができなかった母親は、自死を選んだ。母親はバラバラ死体で発見された。顔は潰されていた。ボスの怒りを買ったのだ。不幸なことに、現在《いま》は子供でも情報を得られる時代だ。母親に棄てられた娘は、カネを使って母親を探した。知らなくてもよかった真相を知って、娘は壊れた。ふんふん」
凪沙の躰は小刻みに震えている。涸れたはずの瞳から涙がにじむ。
「おやおや、懐かしいのかな。まだ涙が残っていたかい」
「殺してやる」シュウは呻いた。「絶対に殺してやるぞ、キサマ」
女王は小ばかにしたように鼻を鳴らした。「さあ、娘は充分に絶望したろう」拷問吏たちに目配せする。「前回とは別な責めをしてやれ。同じでは娘も退屈だろう」
スペード二人は器具選びを始めた。
シュウはもがくがどうにもならない。目を転じれば、ベンケイも真っ赤な額に血管を浮かせている。だが、空気の縛《いまし》めはビクともしない。
スペードKがペンチのような物を手に凪沙に寄った時、その声が広間に響いた。
《ナギサ、目を覚ましなさい。そんなクスリが何です》澄んだソプラノ。やわらかな女性の声だ。
女王が目を剝く。辺りを見廻す。シュウもベンケイも声の源を探す。
唇を動かしているのは、スクリーンに映った女性──凪沙の母だ。
《しっかりなさい。心を強く持つのです》
「なぜ喋る? 誰が喋っていいと言った」女王はブーステッド二人に不審の目を向ける。すぐに二人の能力ではないと知り、空中のスクリーンを睨む。閉じよ、と命じた。
スクリーンは閉じた。が、映像が消えても声は止まない。凪沙の母は娘への語りかけを続ける。
突然、締めつけていた空気の縛《いまし》めが解けた。透明な万力から力が抜け、シュウとベンケイは床に落ちた。
「戦えるか」ベンケイに訊く。「オレはこのザマだ」先の無い右腕を示す。
「ああ。まかせとけ。アニキはジャバなんとかを殺《や》ってくれた。それで充分!」
束縛が解けた二人に女王は驚愕する。「なぜ解けた?」凪沙に目を転じる。「まさか……娘がやったのか?」その目が大きく見開く。「他に誰か居るのか?」
少女の輪郭が光を帯びている。何かが、確実に変わりつつある。
《ママがついている。ママはいつだってそばに居る。さあ、目を覚ますの。ここは誰の国でもない。ナギサの国よ。アナタが女王サマよ》
「奥さまの声だ。まちがいない」ベンケイが呟く。
ハートの女王はスペードKの腰から大剣を引き抜くと、十字架上の凪沙に斬りつけた。
ベンケイは動いていた。女王と凪沙の間に身を投げて楯になる。振り下ろされた大剣を躰で受けた。力量が段違いの相手から護《まも》るには、それが確実な方法だった。大剣は肩口深く斬れ込んだ。
壇上に兵士が殺到する。シュウが援護するが、落ちた戦闘力では捌《さば》ききれない。兵士の槍は次々とベンケイの躰を貫いた。
「ベンケイ!」シュウは絶叫する。
「へへっ。上等だぜ」すべて受けきって、それでも大男は笑った。
鉄球で封じられた凪沙の口が絶叫する。拘束から逃れようともがく。兄と親しんだ大男に駆け寄ろうと。
キイィーン。凪沙の全身から高周波音が響き渡った。
全員の動きが止まる。
凪沙の口に嵌っていた鉄球が、有刺鉄線を引きちぎって前方に飛び出した。それは砲弾となり、正面にいたスペードQの頭部をトマトみたいに潰した。
凪沙の手足を繋いでいた鎖が砕け散る。顔を巡っていた有刺鉄線が吹き飛ぶ。宙に浮いた少女の躰は、重力を無視し、ふわりと羽毛のように壇上に降り立った。
全身から蒼い炎が立ち昇っている。
雷光が大窓を照らし、束の間、大広間《ホール》を真っ白に染めた。
あの女王が後ずさる。
「ベンケイ……ツトムにいちゃん」倒れて虫の息の男に言う。「ありがとう」掌をかざすと、躰に刺さった槍が次々抜け落ちた。傷口が閉じ始める。「アタシが死なせやしない」
「何故そんな事ができる?」女王の声は震えを帯びている。
凪沙は女王に目をやる。「ここがアタシの国だからさ。だから、何でもできる。な~んでも」
「殺《や》れ!」
女王の命を受け、兵士たちが凪沙に襲いかかる。だが、少女は指一本動かさない。全身を包む炎が少し明るさを増しただけだ。
敵兵の躰は次々に内側から破裂して、血煙と共に飛散した。
「ひっ」女王の顔が引きつる。宙に浮き上がり、大扉へ向かって飛んだ。
「待てよ、ばばあ」
女王は扉手前で飛行能力を失い、手足をばたつかせて落ちた。四つん這いになってムカデのように逃げる。いきなり躰が持ち上がり、反転して、背中から床に叩きつけられた。
もがいても起き上がれない。見えない力が、今度は女王を床に貼り付けたのだ。
「逃がしゃしねえよ、ばーか」凝った首をほぐすように廻す。コキッと音をたてる。「あー、かったりぃ」壇を下りようと歩を進め、思い出したように振り向く。「おっと、忘れるとこだった」
玉座の陰で、スペードKが身を縮めていた。
凪沙の目が吊り上がる。唇が残忍な笑みを作る。悪鬼の表情だ。
クン、と顎をしゃくる。拷問吏の足が床を離れ宙吊りになる。
「アタシの腕、斬り落としてくれたよなあ。あれ、痛かったぞ」
吊られた男は声も出ない。
「アタシを斬った悪い手は、これか」
見えない刃が拷問吏の右手首を切断する。ボテッと床に転がった。
「あー、これじゃおもしろくないなあ。アンタ、何回も再生させてアタシを切り刻んだよねえ。アンタの刑は、そうだ、てっさみたいに薄造りの刑~。モチ、足先からネ」
見えないフグ引き包丁は拷問吏の足先へ切れ込みを入れる。
履いた軍靴ごとスライスされた肉片が、ペタペタ床に積み上がった。そこへ赤く濃厚な追いダレ。
けたたましい悲鳴があがった。
「うっせぇなあ」
有刺鉄線が浮き上がる。ほどけて長い鉄線に戻り、わめく男の口を縫い合わせた。
《やめなさい、ナギサ。アナタは国を取り戻した。もういいの。そんな事を続けたら、あの人たちと同じになってしまう》
母の声に凪沙は反応しない。
扉からなだれ込んだ城外の兵士たちが、女王の前を護《まも》って整列した。その数、ざっと200。
「ソイツら三人、みんな首をはねてしまえ!」女王は金切り声をあげた。
ふん。凪沙はゆっくり壇を下る。
敵の前列が突撃してくる。
「はじけろ」
近づく兵はみな水風船のように破裂した。返り血を浴びて進む少女は赤いモンスターだ。
凄まじい力だ。シュウは舌を巻く。凪沙がブーステッドである事を再認識する。
女王は一つだけ間違った。母親の映像を見せるべきではなかった。押してはならない禁忌のスイッチを押したのだ。
凪沙はぶっとんだ。比喩ではない。強化ナノマシンを制御するリミッターが外れた。少女の内なるナノマシンは鎖を解かれた狂犬のように暴走する。あろうことか、形のない憎悪まで増幅《ブースト》している。
抑えなければならない。でないと、凪沙の自我はナノマシンに喰われる! 自我の統制を無くしたナノは戦闘に突き進み、自爆する。現実世界の病院まで吹き飛ばしてしまうだろう。
《ツトムちゃん──》母が大男を呼ぶ。《ナギサに声が届かなくなった。あの子の中にケモノが居る。ケモノが吠えてワタシの声を消してしまう》
「ケモノとは戦闘強化ナノマシンの事だ」シュウがベンケイに言う。「暴走してるんだ。凪沙と喋るなら、ナノ通信を併用しろ!」
《ナギサを止めてちょうだい。止めないと、あの子は悪魔になってしまう。ワタシたちを苦しめた人と同じになってしまう》
「奥さま……」
《止められるのは、ツトムちゃんだけ。これが、ワタシの、最後のお願い……》
ベンケイは起き上がった。凪沙の力で生命《いのち》を繋いだものの、傷口からは血がしたたる。だが、目は輝きを失っていない。
少女はまっすぐ女王に迫る。遮る兵士の群に死の言葉を投げる。
「どけよ」
パン、パン、パンッ。スターマインの破裂音が連続する。凪沙と女王を結ぶ直線上の、兵士数十人が破裂し四方へ飛散する。肉片は大広間《ホール》2階の高さまで届く。血と臓物の雨となって降る。
赤いどしゃ降りが晴れると、道ができた。
凍りつく兵士たちを両脇に、女王まで続く血みどろの道。
大海を割ったモーゼのように、凪沙の素足がジャブジャブと進む。
やって来る者から逃れようと女王はもがく。だが、床に貼り付いた躰は微塵も動かない。
ベンケイが追いすがって呼ぶ。凪沙は応えない。
「ママの事なんか思い出させやがって──」女王を見下して少女は言った。「オマエには虐《いじ》め方を教えてもらった。復習の時間だよ、センセイ。復習と復讐。シャレてんだよ。笑えよ」見下す目はギラギラと光る。「ひと月、いや一年かけて殺してやる」身を包む蒼い炎が勢いを増す。ゴオゴオと唸りをあげる。
凪沙は自分の国の支配を取り戻した。だが、報復の意志だけになった少女にブレーキは無い。
凪沙を跳び越えて、ベンケイが前に立った。
「姫の勝ちだ。元の世界に戻れる。こいつらは幻だよ。どうでもいい──」言い終わらないうちに、殴られたように躰が横転した。
「うっせえよ。黙って見てな」
兵士たちは動こうともしない。新しい王の所業をただ見つめる。
「とりあえず焼いてやる」凪沙が右手を女王にかざす。身を包む炎が掌に集まる。まばゆい光の渦が巻く。
女王の顔が恐怖にひきつる。
ベンケイが再び立ちはだかった。凪沙と女王の間に。
「お願いだ、やめてくれ」両腕を拡げて女王の姿を隠す。「気持はわかる。でも、これ以上はダメだ。悪魔と同じになっちゃダメだ」
「邪魔すんなら、ベンケイでもただじゃおかない」
「ああ、いいさ。殺《や》るなら、先にオレを殺《や》れ」
凪沙の表情が動いた。不思議なものを見るようにベンケイの目を覗いた。
「──そしたら、姫が悪魔になるのを見ないで済む」ゴツい顔に穏やかな笑みが浮く。「ナギちゃんに殺されるなら、それでいいや……」
凪沙の殺気が突然緩んだ。張りつめた風船から空気が抜けるように。蒼い炎は勢いを弱め消えてゆく。
力を出し尽くした躰が揺らいだ。
倒れ込む凪沙をベンケイが抱き留めた。
忘れていた呼吸を再開するように、シュウは息を吐き出した。
ナノの暴走はギリギリで止まった。凪沙の自我は保たれ、最悪の事態は回避されたのだ。
「何故だ……」女王がうわ言のように呟く。「ワタシを殺すのを、何故とめた……解答不能」躰が痙攣を始める。「報復をなぜ中止した……解答不能」自問自答をくり返す。
「ヒトの心がマシンごときにわかるかよ」シュウは吐き捨てた。
「圧倒的な優位をなぜ放棄した……」、「達成率99%のタスクを何故キャンセルした……」両目が上転し痙攣がひどくなる。全身から黒い煙が上がり始めた。「解答不能、解答不能、かいとうふのう……かい、と、う──」
得られない解への演算で過負荷になり、論理破綻した麻薬ナノマシンは崩壊を始めた。ナノより小さなピコへ、フェムトへ。
女王は昇華する。黒く立ち昇って消えてゆく。
殉死するように、兵隊たちも同様の黒煙と化した。大広間《ホール》の高みに吸い込まれて消えてゆく。
血の海にひざまずいたベンケイの腕の中で、凪沙は口を半開きにし、子供のように寝息をたてていた。
雨音は弱まる。
まもなく雲が割れて、陽の光が射すだろう。小鳥がさえずり虹も架かるに違いない。
そうだ。おとぎ話はいつだって、こんなふうに終わるのだ……
*
シュウはベッドで目覚めた。
出発した部屋だ。壁時計の日付表示は丸一日の経過を示している。
凪沙とベンケイは隣で寝ていた。凪沙の頭からはコードが外され、グレーのニット帽が被せてある。
傍らで作業していた女性看護師が、シュウの動きに気づいて微笑んだ。「ご気分はいかがですか」
やさしい、ヒトの笑顔にホッとする。
急に思いついて右手を上げた。
肘から先は付いていた。指もちゃんと五本揃っている。
「何も問題ありません。隣の二人はどうですか?」
「何も問題ありませんよ。Aliceを克服するなんてスゴイ。感動しました」看護師の目尻に光るものがあった。
今回は救出対象がブーステッドだったという特殊事情がある。誰でも救えるわけじゃないだろう。だが、得られたデータはナノマシン麻薬──VRDの治療に寄与するはずだ。
「じきに医師《せんせい》が来られます」機器の点検を済ませ、クリップボードを胸に会釈して、看護師は部屋を出た。
シュウはベッドを出て衣類を身に着ける。ドアに向かうと背後で音がした。
患者衣の凪沙がベッドから下りていた。
「行ってしまうの?」
「ああ、さよならだ」
「行かないで!」命令口調で彼女は言った。裸足でこちらへ踏み出す。「好きなの、アンタが」
「オマエは勘違いしている。オレは仕事をしただけだ」仕事ではないが、そうとしか言えない。妹に重なったなどと言えない。
「ずっと一緒に居て。アタシ、ECHIGOYAの社外役員なの。ウチへ来たらお給料は三倍、いや五倍──」
「救いようのないバカだな。オマエを助けたのはオレじゃない。後ろで寝ている男だ」
「ベンケイ? アイツはボディガードだもん。アンタが好き。タイプだし」
パン、と高い音がした。娘の頬を張っていた。
凪沙はポカンと口を開けた。親にも手を上げられた事がないはずだ。
「当たり前のように近くに居るから、わからないだけだ。オマエは心の底でベンケイを想っている。アイツが串刺しになったときキレたろう。リミッターが吹っ飛んだ。あれが証拠だ」
茫然とシュウを見ている。「アンタも、好きだよ」消え入るような声になる。
「オマエに興味はない。好きになるのは勝手だが、オレは人を愛せない」愛する者を二度と失いたくない。だから感情を凍らせた。そんな説明はする気もない。
「なあ、お嬢ちゃん。後ろで寝ている男は、ボロボロになってオマエを護《まも》ったんだ。いいか。全部手に入れるなんてできない。何かを得るためには、何かを棄てなけりゃならない。選ぶんだ。好きな男か、好いてくれる男か」
両の目に水玉が浮き、見る間に膨れ上がった。まだ子供っぽい曲面を伝い下りる。
何も言わずに背を向け、ベンケイのベッドに駆け寄った。膝をついて大きな躰に顔を埋める。肩を震わせて、えっ、えっ、と泣きだした。
「ごめんよ、ベンケイ……ごめんよぉ……」
気がつくと、大男は目を開けてシュウを見ていた。情けないような表情で微笑んでいる。
アイツ、聞いてやがった。
シュウは口の端を上げて応え、部屋を出た。
06 海辺のテラス
インド洋。クリスマス島。深い蒼に染まる海。張り出した土地に白い家が建っている。
海風が撫でるテラスにテーブルが置かれ、ブロンドヘアの痩せた男が椅子に背を預けていた。イワン・スミルノフ博士。共産圏から偽装亡命したナノマシン学者だ。
もうじき、視界いっぱいに壮大な夕暮れが始まる。宇宙が贈るパノラマだ。
そういう意味なら、250年後に太陽系を呑み込むブラックホールもまた宇宙の贈り物なのだろう。そこにどんな意図があろうと、博士には興味がない。どうせ死んだ後のことだ。
テーブルには、ノートPCとワインボトル、それに宝石箱を思わせるレザーケースが載っていた。
彼は機嫌が悪かった。本来ならシャンパンを飲むはずが、そうはならなかったからだ。秘蔵のシャンパンが普段飲みのシラーに変わったのは、先ほど受信したレポートのせいだ。発信元はKINKIメディカルセンター。6日前、Alice対ブースッテッドマンの対決があった闘技場《アリーナ》からだ。
中国人のボスと賭けをしていた。イワンが当然のようにAlice勝利に張ると、じゃあその逆、とボスはブーステッドに張った。確実な負けに賭けてボーナスをくれる気か──そう思っていた。
ところが賭けはボスの勝ち。大金を支払うか、最低でも半年はタダ働きをするハメになった。
賭ける時にボスはこう言った。戦闘において、復讐心こそが最高のポテンシャルだ、と。
復讐心がAliceをねじ伏せたとでもいうのだろうか。そんなに強い復讐心があの三人にあったのか?
添付された脳波データを変換したポリゴン映像で、おおまかな戦いの様子はわかる。人間たちは反撃に転じ勝利した。にもかかわらず、とどめを刺さなかった。その〈結果の未確定〉が原因でAliceは論理破綻をきたし自壊した。
データから起こした映像以外で、何かが起きていたのだ。
音声が構成できないから映像は無音だ。よって、やりとりは不明。だが、あきらかにもう一人、四人目の人間が居た。映像に捉えられない四人目にAliceは反応している。アルゴリズムから少女を解放し、形勢逆転のトリガーになった人間。その者は、信じられないことに、せっかくの反撃を中途で止めている。
意味がわからない。
その者は誰なのか。何処から現れて何処へ消えたのか……
謎だ。時間をかけて考察する必要があるだろう。
イワンはグラスに血の色の液体を注ぎ足す。
それにしても、データだけのレポート提出になぜ6日もかかった? 何度問い合わせても結果の回答さえ拒否された。仕事のできない黄色《イエロー》い猿《モンキー》どもめ!
データ映像をまた再生し直す。何度見ても負け戦は変わらないが。
シラーの重い渋みは自分への罰に思えた。
卓上のレザーケースを引き寄せて蓋を開く。緩衝材に包まれたホルダーには点眼剤様の小瓶がひと瓶収まっている。瓶の中身はAice原液だ。淡緑を帯びる5mlの液体には、数万のナノマシンが泳いでいる。希釈すれば1000人分ができあがる。自らの頭脳と手が創り出した、愛《いと》しい我が娘《こ》だ。
イワンは頬ずりしそうなほど小瓶に顔を寄せた。
「Aliceちゃん、負けちゃったね。くやしかったろう。パパが改良してもっと強くしてあげるよ。ブーステッドなんかに負けないようにね」
ワインの渋みにチーズが欲しくなった。呼び鈴を持ち上げて鳴らした。
「つまらんところを突かれたものだ。今度は、自壊など起きないように論理構成の曖昧値を広めに取るか…… なにしろ人間というヤツは、何をしでかすかわからん──」ぶつぶつ我が娘《こ》に語りかける。
イワンはしばらくの間気づかなかった。背後に立つ死神に──
*
「だよな。人間というヤツは何をしでかすかわからん。オマエみたいに」シュウは呟くように言った。
背後の声に振り向いたイワンは目を剥いた。
「ブ、ブーステッドマン……オオサカの……」
「マッチポンプだな。Aliceを造ってばら撒く。一方で中毒者の治療にアドバイザーとして参加する。麻薬の効果も改良点も、欲しいデータが手に入る。なるほどな」
博士はベルトのバックルをさりげなく触った。
「誰も来ないぜ。人相の悪い用心棒とジャーマンシェパードは、ガレージでグルグル巻きにしてある。ついでに料理も届かない。メイドは早退した」
「そ、そうか。まあ、掛けないか。ここから見る夕陽は最高なんだ。グラスを用意しよう。シラーは好きか?」
「こんな処に隠れてたか」
「隠れてるわけじゃないさ。この島はいい塩ができる。食事に欠かせなくてね。特別なラグーンで作らせてるやつだ。キミにも分けよう。テンプラに合うぞ。舌鼓《したつづみ》を打つ、と言うんだな、ニッポンでは」
「くわしいんだな」
「ニッポン通なんだ。友人さ。何度も行ったよ。キヨト、ホッカイド……」
「そのレポートは──」画面に表示されたKINKIメディカルのデータを顎で指す。「島に着いてからオレが送信させた。ここまで来る時間が必要だったからな」
「ああ……ああ、そうか。ありがとう。仮想現実麻薬《VRD》の治療にきっと役立つ」
「ベラベラ喋って時間を稼いでも助けは来ないぞ。匿名のリークがあった。売られたんだよ、オマエは」
イワンの顔は見る間に青ざめる。
「待て。ボスと話をさせてくれ。何か誤解がある」あわててPCを操作する。
あるサイトのログイン画面が表示される。だが、何度パスワードを打ち込んでも無効だ。数回拒否された後、画面はロックして入力不能になった。
イワンは茫然としていた。が、どこに隠していたか、いきなり拳銃を向けてきた。
引き金を引く間はなかった。速さでブーステッドに勝てるわけがない。シュウに掴まれた手首は逆向きに骨折し、銃口は自身に向いていた。
激痛に悲鳴をあげる男をロープで椅子に縛り付けた。
「警察へ連れて行け。ワタシには裁判を受ける権利がある!」
「そうだな。だが、裁判長はもう決まっている」シュウはAlice原液の小瓶を取り上げた。「オマエを裁くのはハートの女王だ」
「な、何をする気だ」
「データなんか取るより実体験の方が早いだろ」額を押さえ片目をこじ開け、原液を点眼した。「もうこっちへ戻って来れないがな」
「やめろッ。1000人分だぞ!」
「そりゃいい。一回で中毒だ。すぐに天国と地獄を往復できる。Aliceは娘なんだろ。ニッポンでは、目に入れても痛くない、って言うぞ。それも知ってたか?」
応えはない。目は上転し口は泡を噴いている。
もう飛んで行った。不気味の国の、とりあえずは天国面へ。
「女王によろしく言ってくれ」空の薬瓶を開いたままの口に押し込んだ。
PCディスプレイには、ロックされた某サイトのログイン画面が表示されている。
webカメラのレンズは冷たくこちらを睨んでいる。
見ているんだろう? そのレンズから。
睨み返す。レンズのむこう、回線の先に居るはずの男と対峙する。
オレを覚えているよな。あの時、死にそこなった小僧だ。
ぎり。思わず歯を噛みしめる。
いつかオマエの前に立つ。そのときオレは、誰も止められない悪魔に成る。
待っていろ、劉《リウ》──
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