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自分を語るうえで欠かせないもの

皆さんこんにちはあおちゃんです!閲覧いただきありがとうございます!

今日は題名の通り、これまでの人生において自分を語るうえで欠かせないものとそれを通じて得た自分のスタンスについてお伝えしたいと思います。

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この欠かせないものから得たものは今でも自分の支えになっている一方で、ほとんどつらいことしか思い出せませんが、これがなければ本当に今の自分はないと思っています。

この欠かせないもの――それは「野球」です。

私の中での「野球」は人生の中で「試練」と「成長」の両方を象徴する存在です。本記事では、その歩みを振り返りながら、私の経験を共有したいと思います。

少し長くはなりますが、これから私にとっての野球と野球が何をもたらしてくれたかについてお伝えしていきます。




私の野球経歴

まずは、私の野球経歴について書いていきたいと思います。

ここでは、時系列的な経歴と私がどのような野球をしてきたか、人生のターニングポイントはどこだったかを書いていきたいと思います。

まずは概略の経歴です。
小学校3年生ごろ野球を始める

小学校4年の冬に近くの少年野球チームへ入団

まともに野球のできない暗黒の中学時代

野球の超名門高校へ進学し、挫折を味わう

大学はサークル&草野球で「楽しい野球」に没頭

ここからは詳細です。
とても長くなりますが、読んでいただけると嬉しいです。


<小学校3年生ごろ>

父親の影響もあり、半分嫌々ながら野球をはじめたのがこのころでした。

地域の野球教室的なところに通いだし、野球をスタートしました。当時所属していた教室はいわゆる野球という感じではなく、小さい子ども向けの体操教室の野球版みたいな感じのものだったと思います。

<小学校4年生冬頃から小学校卒業まで>

私の競技スポーツとしての野球人生はここからスタートしました。

地元の少年野球クラブに入部し、本格的に野球を始めました。

明確な理由は覚えていませんが、学校に野球部がなく、近くでちゃんとした野球ができるところを親が見つけてくれたことで入部することができました。

チームは正直言えば強くありませんでした。いや、非常に弱いチームでした。入部当初はどれだけ試合をしてもコールド負けという散々なチームでした。
5年生からはスタメン(最初のメンバーとして)出場できるようになり、冬からはキャプテンを務めました。

ポジションとしては、内野手から入り、最終的にはキャッチャーを務めました。ここでのキャッチャー経験はその後も主にキャッチャーとして野球人生を歩んでいくことにつながります。細身ではありましたが、背は小学生時代から高く、肩が強かったので抜擢されたのかなと思っています。

また、当時は野球選手としての能力は体格にも恵まれたことで高い状態で、チーム内では頭2つ程度抜けていましたが、それに対して天狗になることはなく、誰に対してもフラットに接していたと思います。むしろ下手なチームメイトほど同じレベルに引き上げたいと思っていました。これは今も変わらない私の性格だと思います。

<中学校卒業まで>

一言でいえば、私にとっての「暗黒期間」でした。

小学校のチームメイトの親の方で中学硬式野球のチーム関係者がおり、その方からチームへ来ないか誘われていたと後から聞きましたが、所属していたチームは中学まで持ち上がりのあるチームだったこと、兄弟がいること、親の負担度からチームに残ることに決めました。

小学生時代は人数もそれなりにいましたが、他の中学校区から来ていたチームメイトは中学の野球部に所属することとなり、チームを離れました。その結果、チームの人数は激減し、野球ができるかギリギリの人数となってしまいました。
中学2年時には9人を切ってしまい、指導者のつながりがあった別チームとの合同チームが組成されることになりました。皮肉にも、そのチームの活動地域は小学校卒業時に誘われたチームと同地域で活動しており、私の仮説は残念ながら外れてしまいました。

合同チームへは、主体となっていたチームに合流という形であり、合流先の後輩がキャプテンになるという形でした。

このチームでは、選手個々の技術はある程度ありましたが、チームとしてはバラバラで弱いチームでした。

しかしながら、何とか乗り越えようとしていた中学2年生の冬に当時流行したマイコプラズマ肺炎をこじらせてしまい、2週間ほど離脱。ケガではないものの、その2週間でボールを投げることに違和感を覚えるようになってしまいました。
それでも、何とか乗り越え、一つ上の先輩が特待生レベル待遇でいった県内第2郡の私立高校からスカウトを得ることができたものの、学業のレベルが低く、当時の私は大学進学も視野に入れていたため、そちらをお断りしました。

そのような状況下で転機が訪れました。これは人生初の分岐点だったと思います。

<高校野球ー人生のターニングポイント①>

本章のタイトル通り、最初の人生のターニングポイントは高校時代でした。

小学生時代にテレビで見た夏の高校野球。放送されていたある高校を見て、「こんなところで野球がしたい」と思ったことは今も思い出せます。

中学時代は野球人生におけるどん底だったので、一般入試を覚悟しながらその高校(以降A高校とします。)への進学を夢見ていました。その中で、たまたま縁がありA高校からのスカウトを受けることになりました。

当時はとんでもないチャンスを得たので、何とかものにするぞと息巻いていました。これが地獄への入口とも知らず、、、

進学した高校は、建学の精神がスポーツと結びついており、スポーツへの熱はすごく、野球はその中でもトップに君臨している部活動と位置付けられていました。これは、野球が一番古い部活動であることや全国の中でも戦績がトップクラスという先人たちの積み重ねたものがあったからでした。私の親世代には相当な不良高校だったと聞きますが、私の時代ごろからは地元の中でも人気の高い高校であり、偏差値もそれなりに高く、非常にクリーンなイメージがありました。

そんな中で入部した硬式野球部は、私にとってはカオス以外何物でもありませんでした。「日本一」を合言葉に、ある意味洗脳的な生活が待っていました。寮生活はなかったのが唯一の救いでしたが、もし、寮生活だったら今の私はなかったと思います。
中でもこれを強調するのは、見た目的な激しいいじりを執拗に受けたことと、表現が下手(あまり言葉に出せない)ことによって謎にキレられるという出来事でした。
前者は私が重くとらえていませんでしたが、一歩違えばいじめととらえることもできるレベルでした。
それよりも後者は今でも忘れられません。この出来事は確か、2年生の秋~冬ごろ新チーム体制になって、最上級生のみで集まった時のことだったと思います。どんな流れだったかは覚えていませんが、「お前は覇気がない」とチームメイトから言われました。普段から口数は少なく、淡々と動いてしまう姿が「覇気がない」ように移ったのかもしれませんが、当時は本気で「日本一」それも単純な甲子園優勝ではなく、野球人としても「日本一」になるんだと思っているチームメイトにかけられる言葉ではないだろうと感じた記憶があります。言った本人は覚えていないと思いますが、言われた側は強烈でした。
しかしながら、私の野球の技術は大したものではなく、残念ながら公式戦だけでなくいわゆる1軍チームの試合には1度も出ることができずに高校野球生活を終えました。

<大学野球サークルー人生のターニングポイント-②>

強烈な高校野球生活を終え、大学進学へ向けて動いていました。野球部では目立った成績を残せず、甲子園に出場することはありませんでした。私立高校でしたので、付属の大学に上がる選択肢も存在しましたが、私はそんな気は全くなかったので、県大会敗戦後速やかに大学受験の準備を開始しました。

当時は野球部の活動もしながら、勉学もある程度していたので成績としては上位に位置していました。その中で、たまたま行きたいと思っていた大学の指定校推薦を見つけ、ダメ元で校内選考への応募をしました。その大学以外への興味はなかったため、単願で応募したところ運よく通過し、目標の大学へ進学することができました。成績やそのほか要素をもとにした校内基準点による選考を行うのですが、最終候補に残った際には全く同点のライバルが残り、一押しになったのは皮肉にも「野球部」であったということだったと聞きました。

大学進学後は野球をしないと思っていました。しかし、ここで柄にもなく出しゃばってしまい、野球サークルで実力を見せてやろうと思い冷やかし的に体験入部をしていました。サークル野球では、高校野球経験者も一定数いましたが、そうではない人も多く、当時の私にとっては物足りなさを感じました。その中で、1チームだけ「リーグ優勝するには君が必要」と言ってくれたチームがありました。野球で必要だと言ってもらえるのがあまりにも久しかったので、その一言でそのチームに入りました。これが、私にとっての2つ目の転機でした。

サークルといっても派手な人が皆無で純粋に「野球少年」が集まるチームでした。上手い下手関係なく野球好きが集まったチームでしたが、入部当初は弱小チームでした。そんなチームに入部し、ずっとチャレンジしたかったピッチャーにチャレンジすることになりました。大学2年の前半ごろまではいわゆる「無双」状態でかなり天狗になっていたと思います。

そんなころに縁があり社会人もいるような草野球チームに入らせていただくことになりました。そのチームは強豪チームでそこでも当初はピッチャーをやらせてもらいましたが、四球の多さから次第に機会を失っていきました。改めて、自分よりうまい人はたくさんいるということを痛感することになった経験でした。

鼻を折られたことで改心し、どうせやるなら「楽しく」やろう。「楽しい」のは勝つから楽しいと感じられるけれど、みんなで楽しまなければ意味がないと思うようになりました。そこからは、どうしたらみんなに「俺もできる」と思ってもらえるかを意識してプレーや行動をするようにしながら、自分以外の価値観を寛容に受け入れることができるようになりました。その結果、大学のサークルではリーグ戦の優勝や野球を通したつながりが広がることにつながりました。


野球がもたらしてくれたもの

ここまで読んでいただいている皆様、本当にありがとうございます。
脈絡もなく思い出したことをつづっていたら4000文字を超えました。

大きくはこのパートで最後です。

ここまで私の野球経歴をお伝えしてきました。
正直他の人から見れば、とても地味な経歴だなあと感じられると思います。
ですが、10年ほどの競技としての野球と趣味としての5年ほどの野球が私にもたらしてくれたものは今の私を構成する重要な糧になっています。

高校までの野球経験からは

  • 自分やほかの何かを信じてやり切ってみること

  • 持たざる人に周囲は優しくないということ

  • ダメなことは割り切ってほかの道に進むということも「アリ」だということ

大学からの野球経験からは

  • 人と自分は全く違うということを受け入れられると人生の幅が豊かになるということ

  • 共感や「楽しいと思う気持ち」は人を動かす原動力になるということ

そしてこれまでの野球経験からは

  • 何かを突き詰めることは成否を問わず自身を成長させてくれるということ

  • 理解はできなくても認識することは自分の心の余裕につながるということ。そして、「そういう考えや見方もあるよね」くらいに留めるといいということ

本当に野球を通じてたくさんのことを学ぶことができたと思っています。


これからの私と野球

これで記事としては最終章ですが、前章が実質最後なのでおまけ的な感じです。

野球はこれからも私の人生にとってないことにはできないものの一つであり続けると思います。

野球は私のすべてではありませんが、間違いなく人生の一部を構成しており、野球を通して得られたものが今の私の骨格を作っているといっても大きな間違いはないと思います。

今は育児もあって少し野球からは離れていますが、何らかの形でかかわっていきたいと思いますし、誰かに私の経験を通して何かを伝えられるといいと思いこの記事を書いている節もあります。

初めての記事がこれほど長いものになるとは思いませんでしたが、最後まで見て頂いた方本当にありがとうございます。

今後の記事を書いていくにあたって、まずは私という人間の成り立ちを振り返ってみました。振り返ってみるとますます私にとっての野球は非常に大きな存在であるということを痛感しました。

今後は自己紹介記事(自己紹介| noteはじめました|あおちゃん)で挙げた

  • 自分の経験から見えてきたキャリア観

  • これまでの人生における思考の移り変わり

  • 子どもを育てる中で得られたもの・学んだこと

を主要テーマに発信したいと思っています。

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