神だった人が、審査対象に落ちるとき②「イタさ」の正体
気づいてしまった意外なこと
「老い」を受け入れないマドンナについて、前回のnoteから考え続けて気づいた、意外なことがある。音楽シーンの巨大カリスマの彼女が、実は
ディーバではない
ってこと。
この発見に、一人で膝を打った。
ディーバ、つまり歌姫。
声・歌・存在の様式を持つ女性。
極端に言えば、そこに立って歌えば成立する。
圧倒的な声
歌い上げる力
ドラマ性
運命を背負った感じ
女王性
過剰な感情
「私は私である」という様式美
私が思うアメリカのディーバを決める一番わかりやすいものさしは、NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の優勝決定戦「スーパーボール」で国歌を歌う人。声で国家的儀式を成立させる人。
歴代の国歌歌唱者を調べてみた。ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリー、ビヨンセ、レディー・ガガ、シェール、ピンク、グラディス・ナイト。
ここに呼ばれる人は、「この人に歌わせる」という信頼がある人。マドンナの名前はない。マドンナがパフォーマンスしたのは2012年のハーフタイムショーだった。
そう、マドンナは“ディーバ”ではない。
ディーバは動かなくてもいい。
踊らなくてもいい。
更新し続けなくてもいい。
出てきて、歌って、客席を支配する。
あるいは、立っているだけで「型」が成立する。
さらにディーバは「過剰さ」が芸になる。わがまま、大袈裟、感情的。これらも「まあ、ディーバだから」で回収される。
そしてディーバは比較的老いに強い。すでに「型」があるので、声やキーが変わっても、人はその人の「型」を見にいく。なんなら、老いることで威厳になることもある。マリア・カラスとか…。
マドンナは直立だけでは成立しない。型を固定しない更新型が彼女の仕事だから。踊り続けなければいけないし、動き続けなければいけない。
「マドンナ」というビジネスモデルは「老い」込みで設計されていなかったのだ。若さ、挑発、性、肉体、変身、最前線性によって成立していたため、老いを含んだ完成形に移行しにくい。
マドンナのパフォーマンスはスポーツ科目
例えば50代の私が今、
「これからサッカー選手になる!」
と言ったらどうだろうか。間違いなく他者の不安と嘲笑を同時に生む。
マドンナのパフォーマンスは歌唱よりも、鍛えた身体、ダンス、露出、持久力、支配力が核。実は、競技寿命のある表現。
現役スポーツ選手は一線を退き、監督・育成者になるし、ダンサーは演出家、振付師、プロデューサーに河岸を変える。
マドンナはそこへ行かず、ずっとピッチに降り続けているように見える。
本人は真剣でも、観客は「無理すんな」と感じてしまう。
過激な整形が、伝説を壊す
人の過去、それはその人のもの。でもスターの顔や身体はみんなの文化財。伝説は公共物。本人が過激な整形や自己更新でそれを壊してしまうと、観客は不安になる。
10年前に亡くなったピート・バーンズをご存じだろうか。
私の年代以上で洋楽ファンであれば、ピート・バーンズは絶世の美貌を持つ男性シンガー。デッドオアアライブというバンドで歌う、別格の「美形」の姿が心に刻まれているはずだ。
しかし晩年は過剰な整形を繰り返し、原型をとどめない姿になった。
ピート・バーンズ、という名を検索して現れるのは、整形後の顔。
若い世代に「あの人は絶世の美男子だったんだよ」といくら私が力説しても、誰も信じてくれない。つまり現在の本人が、過去の伝説を証明してくれなくなってしまうのだ。
老いた顔には「若い頃は本当に美しかった」という証拠能力がある。
今のマドンナを見ても「・・・あれ?」と戸惑うのはそのせい。
よく言われるが、美容整形は実は知的戦略。どこで止めるか、どこまでやるか、いつ直すか。マドンナほどの知性の持ち主が、そして周囲にいるであろう知的な参謀が、どう行動したかが可視化される。
その結果を見るとき、どうして、と、私は考えてしまうのだ。
前の時間を見るか、残りの時間を見るか。
このたび、サブリナ・カーペンターとのコラボライブを観た。先日のタイムズスクエアのライブも観た。
サブリナとマドンナが左右の階段を下りてくる。妖精のような軽やかさで歌いながら降りるサブリナ。ずらりと並んだバックダンサーに手をあずけて一歩一歩階段を踏むマドンナ。
「介助」
という言葉が心をよぎる。
どうしてもレオタードじゃないとだめなの?
どうしても厚底ヒールじゃないとだめなの?
下着が見えそうなミニじゃないとだめ?
私は心の中で問いかける。
前の時間を見る人は、どうしてもこうなる。
• 昔の自分を維持する
• 昔の勝ち方を再現する
• 昔の身体を取り戻そうとする
• 昔の市場でまだ勝とうとする
• 「まだ終わっていない」と証明する
残りの時間を見る人は、別の問いに移る。
• 私はここから何を残すか
• 私の経験を誰に渡すか
• 自分の名前を何のために使うか
• どの戦場から降りるか
• どの庭を育てるか
• どの花を咲かせるか
これは、若さを諦めることではない。
時間の向きを変えること。
マドンナは、残りの時間を「前の時間の防衛」に使っているように見える。
ジェーン・フォンダは、残りの時間を「次の意味の創造」に使っているように見える。
マドンナも後年、楽曲提供・演出・育成・プロデュースに行けたら強かった。若い女性アーティストに武器を渡す側になれたら、「女帝」として伝説を増殖できたはず。
でも本人は裏方や監督席より、まだ現役プレイヤーでいたい人に見える。
老いとは、前の時間をどう守るかではなく、残りの時間をどう使うかの問題になる。
そして大切なもうひとつ。「よろこび」が見えにくい。
では老いた身体で舞台に立つことは本当にイタいのか。
日本バレエ界の大御所・森下洋子さんの『白鳥の湖』を観に行ったのは、森下さんが60代半ばの公演だった。77歳の現在も踊り続けていることに驚かざるをえないが、私が観た公演も、『白鳥』を観に行くというより、「その年齢で踊る」のをみんなが観に行くという雰囲気だった。
チュチュで出てきた森下さんは、群舞のバレリーナと比べてしまえば確かに年齢を感じさせた。その代わりにプロットが完璧に身体に落とし込まれているかのような熟練の「型」のようなものを感じた。
そして何よりも、
ご本人が「踊るよろこび」に満ちていた。
「バレエが大好きだから踊っている」が伝わる。
それを観て、観客はハラハラが、尊敬や祈りに変わる。
老いた身体で舞台に立つこと自体が痛いわけではない。
マドンナには「好きだから踊っている」が見えにくい。
見えるのは「まだ負けていない」「まだ若い」「まだ現役」「まだ支配できる」という闘争。だから観客は感動よりも心配になる。
老いた身体に必要なのは、証明ではなく喜びの可視化。
若い身体は勝つことで成立する。
老いた身体は、愛・軽み・芸への奉仕・人生の蓄積で成立する。
マドンナの痛ましさは、衰えそのものではない。
衰えを「愛」や「芸」や「継承」に変換できず、ずっと「闘争」として舞台に載せてしまうことかもしれない。
「イタさの正体」、そして私の「憧れの後始末」
かつて「マドンナになりたい」と思っていた。
今は「こうなってはいけない」と思っている。
だから私は、マドンナについて書いている。
マドンナ本人だけが、老いたマドンナを想定してこなかったのではない。
観客である私たちも、老いたマドンナを想定してこなかった。
だから今、戸惑っている。
イタさの正体とは要するに、
前の時間にフォーカスしすぎて、残りの時間を設計していないように見えること。
これは自分にも跳ね返る。
知識がある。
戦略がある。
美意識がある。
若い頃はうまく勝った。
でも、だからといって老い方まで自動的にうまいわけではない。
むしろ、若い頃の勝ち方が鮮やかだった人ほど、その勝ち方を捨てられないことがある。
私がマドンナに失望しているのは、彼女をただのポップスターだと思っていなかったからだ。
彼女は知的な人だと思っていた。
時代の欲望を読み、自分の身体を思想に変え、禁忌を商品にし、男たちの視線を逆手に取る人だと思っていた。
だからこそ、老いに入った時、彼女なら残りの時間の使い方も発明すると思っていた。
けれど今の彼女は、残りの時間を、前の時間を守るために使っているように見える。
そこが悲しい。
老いたからではない。
時間を読み違えたように見えるから悲しいのだ。
