『蒼』 第9話
第9話:夢の轍(わだち)
竜尾山のうっそうとした山道を歩きながら、逢坂結愛(あいさか ゆあ)はふと、ずっと心に引っかかっていた問いを陽菜とヒョヌに投げかけた。
「あのさ、この時代に来る前、ロッテマートにいたんだけど……。その時に、私に女性の『いや、離れたくない』という声と、男性の『ごめん。俺のことは忘れてくれ』という声が聞こえたの。……ひょっとして二人が発した言葉が、時を超えて私に届いたのか確かめたくて」
結愛はそう問いかけつつも、内心では(二人の姿と重なって聞こえたけれど、本当に本人たちだったのかしら。もしかすると全く別の誰か……)という疑念を抱いていた。
結愛の問いに、陽菜とヒョヌは足を止め、きょとんとして顔を見合わせた。 「え……? 結愛、何を言っているの?」
陽菜は困惑したように首を横に振る。
「そんな言葉、言ってないよ。どうしてそんなこと聞くの?」
ヒョヌもまた、眉を寄せて結愛を覗き込んだ。
「ああ。俺たち、結愛が来る直前までずっと二人でどうしたらいいか混乱していただけで、そんな言葉は言ってないよ」
陽菜とヒョヌの声ではなかった。
結愛は言葉を失い、喉の奥が熱くなるような感覚に襲われた。
あの切実な声の主はいったい誰だったのか――。
結愛は、背後の茂みや木々のざわめきに神経を尖らせ、周りを警戒しながら歩を進めた。
その時だった。
「君たちは誰だ?」
不意に背後の死角から、低く硬質な声がかけられた。
(見つかった!)
結愛が反射的に目を瞑った直後、その男は何かを見つけたかのように大きく指を差した。
「……君か? いや、そんなはずは……」
男は陽菜の顔を凝視し、動揺を隠せない様子で言葉を継ぐ。
その瞳は驚きに大きく見開かれていた。
「昨日、我が夢に現れた娘と、瓜二つだ……。まるで生き写しのように」
恐る恐る目を開けた結愛の目に、その人物の姿が飛び込んできた。先ほど結愛が竜尾山の上から見た、連れて行かれる朝鮮人の女性を見ていた男性だ。
結愛は、その着物の紋、帯に差した刀の鞘の細工を覚えていた。 男が指を差している先――それは、陽菜だった。
「娘、名は陽菜と言ったよな?!」
あまりの事態に、陽菜はもちろん、結愛とヒョヌも相当驚き、その場に釘付けになった。
現代からこの時代に飛ばされたばかりの、右も左も分からない自分たちの名前を、なぜこの時代の男が知っているのか。
陽菜は震える唇で、どうにか絞り出した。
「ど、どうして私の名前を……?」
男はひどく動揺した表情を浮かべ、切実な眼差しで陽菜を見つめる。
「お前が昨日夢の中で、『ジュヒ』のことをあきらめないでと言ったんだ。俺もそうしたかった……そうしたかったが……!」
男が何かを言い募ろうとした、その時だった。
背後の茂みをかき分けるように、別の男三人組が近づいてくる気配がした。
男は鋭く周囲を見回し、顔色を変えて結愛たち三人を急かした。
「……話は後だ。ついて来い!」
男の誘導に従い、三人は家と家の間を縫うようにして駆け抜けた。
息を切らして立ち止まった場所で、男は三人を厳しい眼差しで見つめる。
「改めてお前たちの身なりを見ると、普通ではないな。私も聞きたいことは山ほどある。ひとまずはウチへ来るんだ」
導かれた先には、圧倒的な威容を誇る武家屋敷があった。
この時代の身分制度において、明らかに上位にある者が住む場所だと、その門構えだけで理解できた。
「まずは湯を浴びなさい。着物も用意させてある」
男の配慮と温かさに、三人は張り詰めていた糸が切れるような安堵感を覚えた。
三人はそれぞれに湯を浴び、用意された質素な着物を、慣れない手つきで身に纏い、男の待つ部屋へと戻った。
そこは時代劇でしか見たことのない、畳敷きの厳かな和室だった。
現代とこの空間。あまりに乖離した現実を、脳が必死に整合させようとあがいている。
男は静かに、しかし威厳のある声で口を開いた。
「三人とも揃ったな。失礼仕った」
男は正座をし、居住まいを正してから、まっすぐに結愛たちを見据えた。
「私は、田口宗一郎(たぐちそういちろう)と申します。この草梁倭館(チョリャンウェグァン)の大目付の役を任せられている」
その名前が告げられた瞬間、陽菜は息を詰めた。まるで胸を突かれたかのように、信じられないものを見る目で男を見つめ、全身を硬直させた。
(第10話に続く)
