The Grass Pillow 〜草枕〜
山道を登りながらかう考えた。とかく人の世は住みにくい。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて絵ができる。などと、分かるような分らんようなことを分かったふりして書く気はない。全く余は漱石が考えを理解しうるほどに頭の出来が良くないのである。さらには山にも登っておらぬ。
余は台北空港の便所に入った。個室の扉を閉めた時、ふと目の端に何か黒きものが映じた。
これから英吉利へ発つ。余が人生初なる欧羅巴旅行である。台北は飛行機の中継地である。乗り継ぎの十時間余り、余らは冷蔵庫のようなラウンジで丸まって寝ていたが、ちっとも寝付かれぬ。何しろ寒すぎる。日本の弱冷房の懐かしきかな。
さうして余らは英吉利へ発つ飛行機の搭乗口へと向かった。待合には色の白い、毛の色の薄い、顔の彫の深い巨人が沢山居た。中にハリウッドスタアかと見まがうほどの美しき夫婦が実にかわいらしき女児を連れたのがあったので、余らは思はずノオトを出して密かに彼らがスケッチをとった。

で、先程の場面である。余は個室の扉に掛かる奇妙なものを見た。よく見れば黒きパンツである。そう、下着のパンツが、扉の荷物掛けに掛かって揺れて居るのである。
余は覚えず目を瞬いた。次には笑いが込み上げてきた。これは何としたことであるか。想像するに、余らが如き旅行者の、長き夜をこの空港で明かして、この個室で服を替えたるが、つい脱いだパンツをそのままにして出てきてしまったものと見える。おそらくはこのパンツの持ち主は余が今行李を置いてきたあの待合にいるに相違ない。余は努めて平気の表情で待合へ戻った。
元居た席に戻りて、ふと、余があのパンツを取りて、我がパンツを置いてきたら面白かったらうかと思ひ出した。無論真面目の考えではない。面白半分さう考えたのである。さうして、次にあの個室を使う人物は、余がパンツを取りて自らのパンツを置いていく。その次の人物も同じことをする。これぞpay forwardの精神である。このやうなあたたかく優しき心なる関係にて世界が埋め尽くされれば、天下はさぞ平和になるに相違ない。平和になれば飛行機は露西亜の上空を飛べる。さうすればフライトは短くなり、余はヒースローで嘔吐せずに済む。良いことずくめである。ただ余はトイレの個室にパンツを置いて来さえすれば良いのである。
などということを、繰り返すが本気で考えていた訳ではない。無論、余は一時間かそこらうとうとしただけで、あとは冷蔵庫のようなラウンジで震えていたのである。要は徹夜である。脳みそは少々おかしい、いつも以上におかしい。

@ヴィクトリア&アルバートミュージアム
しかしながら、平和というのは元来さういうのほほんとした馬鹿々々しいものではないかと思う。平和とは暢気という意味である。それを、黒き背広の厳めしき政治家どもが、鹿爪らしい顔して難しく議論するから、本来の意味を見失うのである。国家が前に出れば必ず衝突が起こる。これは一種アナキズム的であるやもしれぬ。日本にいれば実に平和で暢気なものだが、同時に日本国家の存在は滅多に意識しない。意識にのぼらぬような国家を持つ国は平和である。然るに、国家はひっそりしているのが平和というのである。

倫敦は平和であった。また寒かった。さうして美しかった。その中に余が居るということ、誠に奇跡のやうな感がした。古く美しき街並み、涼しい異国の風、一体どこを歩こうとも、ああ倫敦とため息をつかずにはおれなかった。

大通りを外れた街角の教会、ゴシック様式の壮大なる城のやうな博物館、歴史と美を隅々にまで凝集した倫敦を、からりとした空気を通った軽き柔らかな陽光が照らし、さやさやと鳴る欧羅巴の樹木が涼やかな影を朱い煉瓦の古き建物の上に落としていた。


さらには、そこに居る人々である。無論観光客も多かったが、あちこちから仏蘭西語だの、伊太利語だの、西班牙語、亜剌比亜語、ヒンディー語、中国語、韓国語、偶にちらりと日本語も耳にした。そのように実に様々な色の多種多様の人間どもが勝手気ままなほうへと歩き回っている。さうして皆好きな恰好で好きに生きているという感でのびのびしている。さすがは自由の気風の発祥の地である。

余らはまたキューガーデンという庭園に足を伸ばしてみた。たいそう広大な庭である。あらゆる土地のあらゆる植物が整然と方々に、青々と枝を伸ばしておる。花も葉も大変美しい。中心のほうには池のある広場が、城のように豪奢な温室の前に広がっている。そこは弁当を広げて談笑する家族でごった返している。パン屑を狙って彷徨く鳥どももいる。家鴨はあほうあほうと鳴く。彼等は阿呆を以って自ら任じているようである。いや、或いは、阿呆を以て余らを呼んでいるのかも知れぬ。おそらく後者であろう。



絵を描くためにコップを洗った。と言えば多少奇異に響くやもしれぬ。余が如く雑な人物はもしや分かったかもしれぬ。先だって紅茶を飲んだ湯呑の茶渋を落として、それをそのまま筆洗として用いようという魂胆なのである。
三日前に撮った写真を横に据え、前には旅先で入手した画帳を開いて、最後に使ってから三年も経った水彩絵具をパレットに載せて筆を構えた。何ということはない、余は影響され易き人間である。ただ旅先でそれに包まれてホットチョコレイトを呑んだ、そのうるわしき光景を絵画にするという行為が実に風雅でよろしかろうという気まぐれを起こしたまでのことである。


描いてみれば甚だ不味い絵である。写真のほうが、いやもっと言えば本物の光景のほうが遥かにうつくしかった。ただ北方の地の軽やかな光、からりとした空気のさざ波の満ちる明き青き空、周囲で談笑する蒼き眸の人々。安らかで優雅な涼しき午前。そして何よりも大切なことは、余がその中に居たということである。


帰ってきてまずこの暑さと湿気とにむわんと包まれ安堵した。家へ帰って味噌汁を啜ってまた安堵した。余は矢張り日本の人間である。しかし旅は好である。また英吉利も気に入った。余はまたいつか彼の地を訪れる積りでいる。その時は、ヒースローで嘔吐せずに済むと良いと切に願う。さうして帰ってきて味噌汁を啜るのだ。それが平和である。
漱石気取りの下らん文章でしたね、ええ。十四時間のフライトで草枕とそれからを読破したら、影響され易い私はつい真似をしたくなりました、はは。読んでくれた優しいあなたが今日も平和な日常を楽しめますように!
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読んでくださってありがとうございます!