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【古代の宮都巡り】飛鳥宮・難波宮・藤原京

わたしは最近、律令国家がめっちゃ気になる。
というのも、8月頭に大学院の院試(日本古代史)を受けたのだが、過去問で「律令国家について説明せよ」という問題が何度も出てきたのだ。ここ数ヶ月、毎日律令国家のことを考えすぎて、1周回って「律令国家ってなに??」となってしまった。恋かな。

↓ちなみにわたしがつくった「律令国家」に関する模範解答。

律令国家
律令とは、古代律令国家における基本法典である。「律」は刑法を、「令」は行政法や民法を指す。唐の律令制を模範としつつ、日本の国情に合わせて整備された。初の成文令は飛鳥浄御原令とされ、律と令を併せ持つ本格的な法典としては大宝律令が初めてである。
今日につながる「律令国家論」を構築した中心学者である坂本太郎は、「日本古代史」は「律令国家(律令制)」を中心に理解すべきであり、それ以前はその準備過程、それ以後はその変質・崩壊過程として理解できるとした。次いで石母田正は、マルクス主義歴史学の視座から坂本説を発展させた。石母田は、大化改新の歴史的意義を高く評価し、これを「律令制国家」の起点と位置付けた。

毎日律令国家のことを考えていたら、その舞台(都城)に行きたくなってしまった(単純)。というわけで、古代の宮都巡りをしたよ〜という記事になります。

↓ちなみに都城とは

古代の都城
天皇の住まいを「宮」と言い、宮のある場所を「都」という。都城は、宮を中心とした一定の空間を示す。古代の政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもあった。古代の都城の変遷には、古代国家の形成過程が反映されている。

平城京や平安京もだいすきなのだけれど、学生時代に何度も行きまくったので今回は割愛。でも平城京や平安京もほんとうにおすすめしたい…!



①飛鳥宮

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の飛鳥浄御原宮模型

奈良県明日香村に広がる飛鳥宮跡は、6世紀末から7世紀後半にかけて建てられた複数の宮殿遺構の総称である。発掘調査によって、現在は以下の三期に分類されている。

  • I期:飛鳥岡本宮(630–636年)

  • II期:飛鳥板蓋宮(643–645、655年)

  • III期:後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮(672–694年)

このうち、飛鳥板蓋宮(II期)は、645年に起きた日本古代史上の大事件──乙巳の変の現場となった。

乙巳の変は、中大兄皇子と中臣鎌足が主導し、蘇我入鹿を宮中で暗殺した政変である。645年、三韓(新羅・百済・高句麗)の使者が「三国の調」として来日し、その儀式が板蓋宮の大極殿で行われた。入鹿が必ず参列することを見越し、中大兄皇子と中臣鎌足はこの儀式を暗殺の機会とした。

入鹿は剣を手放さぬことで知られていたが、道化を用いて油断を誘い、剣を外させた上で宮門を封鎖。表文朗読の最中に中大兄皇子と配下の兵が突入し、宮殿内で入鹿を斬殺するという、計画的なクーデターが実行された。またこの政変の舞台となった飛鳥板蓋宮のすぐ近くには、蘇我氏の氏寺・飛鳥寺がある。

やがて、III期にあたる飛鳥浄御原宮では、天武・持統天皇のもと、律令国家体制の骨格が構築されていく。儀礼空間としての「エビノコ郭」も整備され、国家の制度化を支える政治空間が形成されつつあった。飛鳥浄御原令の編纂もこの地で始まる。

現在、この飛鳥宮跡を訪れると、当時の喧騒が想像できないほどに、静謐な田園風景が広がっている。

飛鳥宮跡

政変の血が流れ、法が起草され、王権が制度として形をとっていった律令国家の出発点は、この場所なのである。


②難波宮

難波宮は、大化改新後に出現した都であり、前期難波宮(難波長柄豊碕宮)と後期難波宮に大別される。

大阪歴史博物館の古代史階
  • 前期難波宮

前期難波宮は、乙巳の変ののち、孝徳天皇が遷都したもので、白雉3年(652年)に完成した。掘立柱建築、草葺屋根による宮殿は『日本書紀』に「その宮殿の状、殫く諭ずべからず」とあるほど壮大だったという。

政治構造面では、ここで「改新の詔」が出されたことが大きい。
内容は、①公地公民制、②地方行政・交通制度の整備、③戸籍・計帳作成と班田収授、④租庸調などの税制確立──と律令国家の原型を示すものだった。

しかしこの「改新の詔」には後世的潤色の可能性がある。たとえば「国・郡・里」という区分は、藤原京出土木簡にみえる「評」ではなく、「郡」が用いられており、後代の用語がさかのぼって記された可能性が指摘されている(いわゆる「郡評論争」)。このように『日本書紀』の信憑性から、前期難波宮に関して疑問視されていたが、近年、発掘調査(考古学の知見)から前期難波宮は再評価されている。

政治的には、孝徳天皇と中大兄皇子との対立が表面化。中大兄皇子は、先帝の母(皇極/斉明天皇)、弟(大海人皇子)、后や役人らを引き連れ、孝徳天皇を難波に残して飛鳥に戻るという異例の事態が発生した。孝徳天皇は失意のうちに翌年崩御。この宮は、政治改革の理念と権力闘争の現実が交差する場でもあった。

  • 後期難波宮

後期難波宮では、聖武天皇が神亀3年(726年)に再び都とし、礎石建・瓦葺屋根の本格的な宮殿が建造された。しかし天平17年(745年)には、難波京から紫香楽宮への遷都が発表され、難波の都としての機能は短命に終わる。

後期難波宮の大極殿正殿の復元
内裏を区画する回廊跡

しかしその後も、難波宮は平城京の「副都」として機能することになり、国家の複都制が採用されたと理解されている。

延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、難波宮の大極殿などの建物が「移築」され、平安京遷都(794年)にあたって、難波を副都とする体制を正式に廃止した。

この「副都制廃止」の意義については、当時の日本と唐の制度的差異を参照することができる。唐では、長安を正都、洛陽を副都とし、防衛(軍事)と経済の役割を明確に分担させていた。これに対し、日本における複都制はそのような機能分化が見られず、むしろ政治的・行政的機能を一元化する方向性が、制度の効率性という観点から望ましいとされたと考えられている。(山田邦和「複都制と移動王権」(『鷹陵史学』41、2015年)

すなわち、後期難波宮以降は「副都」という制度実験の舞台であり、またそれを経て、中央集権化と機能の一元化を指向する国家構想が確立されていく過程を示す場所でもあったのだ。

大阪歴史博物館から難波宮跡と大坂城が見える。たのしそうな我!

③藤原京

藤原京は、694年に持統天皇が飛鳥浄御原宮から遷都して成立した日本初の本格的な条坊制都市である。ここでは、天武朝で構想された国家像が、持統朝において実際の都市空間として具現化された。

藤原京朝堂院跡。思わず飛び跳ねてしまう!

藤原京は、南北約4.8km、東西約5.3kmにわたり、碁盤の目の条坊制が敷かれた巨大都市である。中心部の藤原宮は、ほぼ1km四方で囲まれ、南北600m・東西240mの朝堂院をもち、朝堂・大極殿などが整然と配置されていた。平安京や平城京をしのぐ古代最大の都で、発見当時は「大藤原京」と呼ばれた。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の展示。藤原京は規模が大きい!

また、ここからは多数の木簡が出土しており、「己亥年 上捄国阿波評松里」などの表記から、郡評論争に決着をもたらす実証資料が確認されている。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の木簡複製


藤原京は大和三山に囲まれており、山々に見守られている心地がする。

畝傍山
耳成山
香具山

持統天皇の和歌「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」の香具山!

香具山に白い衣がはためき、もう夏が来たことに気づく。その持統天皇の感性にきゅんとする!

おすすめ本

院試のために以下の古代史関連の本を読み直したのだけれど、ほんっっっとによかった!(そしてまんまと宮都巡りをしている)

①吉川真司『飛鳥の都』(岩波書店、2011年)

②倉本一宏『蘇我氏』(中央公論新社、2015年)

③義江明子『天武天皇と持統天皇』(山川出版社、2014年)

また、日本史学の最新研究史を知りたい場合は以下もおすすめ。

④岩城卓二・上島 享・河西秀哉・塩出浩之・谷川 穣・告井幸男(編)『論点・日本史学』(ミネルヴァ書房、2022年)

⑤佐藤信(編)『古代史講義』(筑摩書房、2018年)


さいごに

今回訪れた飛鳥宮・難波宮・藤原京は、それぞれが律令国家に向かう歩みの「途中」にあった。一代限りの宮から、制度として継承される都へ。

史料の中で見ていた宮都の、その場所に、自分の足で立てるということが、想像以上にうれしい。文献のなかの場所が、立体的な実在として立ち上がってくる瞬間が、何よりたのしい。

そして、発掘調査をしてくれた方々に感謝したい。今、古代の宮都について知ることができるのは、地中に埋もれた品々を掘り起こしてきてくれた人たちのおかげ。
何十年にもわたる発掘調査、地道な測量、破片ひとつひとつの解析──その積み重ねがあって、わたしたちはようやく、「律令国家のいた場所」に立つことができる。

文献史料と考古学の知見、どちらも大事だよなあと改めて思う。

難波宮跡。自分が思っている以上に笑っているね〜

たのしい夏の古代宮都巡りでした!日本古代史の勉強、もっとがんばります!


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