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30年後に初めて綴る震災の記憶

1月17日5時46分
兵庫県南部地震
あの日の全てに黙祷を捧げます。


「下から突き上げるドンって音がした。」
当時、地震を経験した人からはこの言葉をよく聞く。



当時、私はまだ子供でしたので大人とはまた違う子供ながらに感じた事や、薄れゆく感情。
それでもまだ忘れられない記憶をここで綴っております。

あの日から30年

人の心を癒すには十分な時間かもしれない。
悲しみの道中のまま、亡くなった方も多いだろうし、未だ呪縛のようにその記憶から逃げられない人も沢山いると思う。
土地やその他の問題に頭を悩ます方もいると思います。




私も、震災がきっかけで人生観が変わったうちのひとり。

当時、私は西宮というところ。トップ画像は借り物ですが、ちょうどこの高速道路が倒れてた付近に自宅がありました。
実際に新聞や書籍で記録として残っている物は沢山あるので、私の記憶程いい加減なものは無いかも知れないけれど、当時こんな子供も居たんだと思って頂ければ幸いです。



1995年1月17日午前5時35分頃

いつも6時に起きて学校に行く準備をする私は、何故かセットした目覚まし時計より少し早く目が覚めた。

「もう少し寝れるな…」

寒い室内。
布団の中の生暖かさが恋しくて、ゆっくりと瞼を閉じ布団の中に潜り込りこもうとしたその瞬間、ぐらっと天井が動いた気がした。
「あっ」
と思った時にはすごい勢いで感じる揺れ。

「え?なに?これ…」

まるで遊園地のアトラクションのように、雑に部屋中が揺れている。

訳がわからず、その時に唯一出来た事はぎゅっと目を閉じ布団を頭から被って身体を丸くするくらいだった。

当時私の居た場所は鉄筋コンクリートのマンションの1階。

4.5畳ぐらいの子供部屋を与えられていて
家具は少なく机とベットと、古くなったTVぐらい。

自分の部屋の物は何も倒れなかったが、揺れがおさまっても布団から出るのが怖かった。



地震…やんね?


扉の向こうから母が私を叫び呼ぶ声が聞こえる。

廊下を出て扉を開けるとリビングからはいつも見る光景とは変わり果てた姿があった。

一階のベランダの植え込みから窓を破って木が倒れ込み、床は割れた食器が散乱している。倒れられる物は全て床に落ち金魚も床で跳ねていた。

足の踏み場もなく、急いで玄関まで靴を取ってくる。

歳の離れた弟はまだ1歳で母は臨月。年子の子供をお腹に宿していたが、皆でタンスの下敷きになっていた。
幸い重厚な作りの物でもなく、ちょうど母親達がいたところは物が少なったので、私1人でも助け出す事が出来た。


何が何だかわからず、とりあえず玄関から表へ出た。



え?





日の出前。夜明け前の青い世界に染まった景色は、何だか小さくなっている…
暗くてはっきり見えない。


何?



違和感を感じながら近寄ると向かいの長屋のアパートの一階部分が全て押しつぶされて建物の高さが半分になっていた。


この時、この違和感が地震の規模の大きさを動物的に感じ取っていた。


パジャマのまま慌てふためく大人達。
当然ながら電気もつかないからテレビも見れない。
当時はインターネットもあまり普及しておらず、今のようにスマホなんて無かった。皆何が何だかわからない様子で、目が合う人と声を掛け合っている。
「家が崩れてる!」
「懐中電灯もってる人はいないか?」
「ガス漏れてるぞ!」などと叫びながら話している。

「何や今の!何があったんや!」と声を荒げる人もいる。

「誰か来て!」泣きながら叫ぶ声も聞こえる。


家にあった懐中電灯をパジャマ姿の裸足のおじさんに渡すと、崩れた家屋の方にむかって走って行った。


目を見開いても、わからないのだ。
いったい何が起こって、どうなっているのか…



きっとあの時隕石が落ちたって言ったって誰も疑いはしなかったかもしれない。


吐く息が白く濁る中
どうして良いのかわからなったけど、家に居ては危険な気がして母と弟を家から出す。幸い誰も怪我はしていない。
自分もとりあえず着れる服を着て通りに出た。

水道管は破裂して勢いよく水が吹き出し丘を作って辺りを水浸しにしている。



漏れたガスで顔が歪む。



だんだん陽が登り始めた




光が






差した光が変わり果てた世界を無情に映し出す。

いつも登下校している道がそこらじゅう地割れして

たわみ

アスファルトの硬さを忘れさせる。

まるで地中に大きい蛇が通ったかのような大きな亀裂もあった。

地面が動いたんだなってわかるような家の傾き方。
滑り落ちている瓦の山。
知っている道なのに、両サイド家が傾き崩れ 道幅が2/3程になっている。
至る所で家屋がぐちゃぐちゃになっている。


電柱も傾き 倒れ 電線が複雑に絡み合っていた。



昨日迄の私が知ってる世界が変わってしまった。



言葉を失うとは、きっとこの事だったのだと後で思う。



最近、近所の古いアパートに引っ越してきた当時の母親の再婚相手の義父母。
私の祖父母にあたる人は一階部分に住んでいた。
生き埋めになっている。
母にその事を告げる。
出張か何かで家をあけていた再婚相手は電話が繋がらないので、連絡が取れない。


母はお腹を摩りながら、弟をベビーカーに乗せて、微かに聞こえる祖父の居所を泣きながら探す。


勢いよく揺れて地面が動いているから、部屋があったであろう場所からずれている事がわかった。


当たり前だけど救急車はおろか、救助はまだ来ない。
泣いたって叫んだって、動ける人は助けられる人から助ける。
皆んな着の身着のままなのだ。



そこの隙間から声が聞こえるのに余震で危ないから近づかない方が良いと言われる。

近所の人達は声を掛け合って出来る事をしている。


泣いている母を、話した事の無いおばあちゃんが背中をさすってなだめていた。


私は人の無力さと優しさを同時に感じていた。


祖父母の心配をしているが、友達の安否も気になる。

当時1番仲良しだった友達はアパートに住んでいる。


祖父母と同じ状態だったらどうしよう…
いつも一緒に学校に行っている子は無事だろうか?
あの子の家は傾いているけど、全員逃げ出せたのか?


様子を見に行きたいけれど、最悪の事態も安易に想像出来る。
すくむ足を叩いて母にはすぐ戻るからと告げて、たわんでグニャグニャになった道を進んだ。


友達も同じ事を考えていたのか、道々で出会った。



生きていた




「よかった…」
互いに一言交わす



それだけで、安堵の気持ちが込み上げてきた。


そして他の友達を探す。


徒歩で行ける範囲の子達は皆無事だった。



その後、私はマンションに戻り母がこっそりしていた500円の貯金箱を無理矢理壊し、近くのコンビニへ食料と水を買いに走った。お腹の大きい母の普段の買い物は私がしていたので、なんと無く家にある物は記憶にあった。


運良くお店は空いていて、何故かその時コンビニの店員さんも普通に売ってくれた。そして頼み込んで、電気ポットのお湯を分けてもらった。弟のミルクを作る為のものだった。

優しい対応をしてくれてたのは、お店の中の物が倒れていなかったかもしれない。

私の部屋もそうだけど、もしかしたら何かの角度などがあるかもしれない。
この差は運なのかなんなのか。
そんな事をぼんやり考えていた。



今思うと自分でも冷静だったなと思う。



母の元に戻ると、離れた時と同じように祖父母に声をかけ続けている。

私に「声が小さくなってきている」と、ぐしゃぐしゃの顔で言う。


あれからどのくらい時間が経ったのか…
身体も冷え切っている
母の冷たくなった手にカイロを握らせた。



不安も、恐怖も誰に言って良いのかわからない。



ただただ、目の前の事を理解して今出来る事を探すしか無かった。




私も祖父母に声をかけたが返事は無かった。




近くの公民館が避難所だと聞き、家から持って来れる毛布やらを運びこんだ。



夕方頃だったろうか…
冷たい白いおにぎりが1人ひとつとカンパンが配られた。


この時「被災時にカンパンって本当に食べるんや」とぼんやり思いながら初めて食べるカンパンに口の中の水分を全部持っていかれたのを覚えてる。



余震に避難所の天井にぶら下がっている大きい吊り下げ式のライトが揺れる。
揺れる度にフロア全体に緊張感が走る。



私はアレが落ちたら死んじゃうなと思いながら、硬い床の上で何度も見ていた。



思春期の心には、死とは何かを考えるのには状況が過酷過ぎた。
こんなにも、一瞬に世界が壊れたのに不思議と涙の一つも流れなかった。



避難所には3日か4日程居たと思う。
広いフロアには家に帰れない人で溢れかえり、毛布を敷いた所が自分の許されたスペースだった。
どうやって寝ていたかは、覚えていない。

写真お借りしています。
場所は違うけど、同じ様な状態でした。
此処が好きでは無くて、止められていましたがこっそり自宅で過ごしてた時もあります。


トイレに行くにも、水を汲むのも何をするのも並ばないといけない不自由な生活。
それでも、炊き出しで温かい豚汁か、味噌汁が配られた時はとても嬉しかったのを覚えている。


翌日か、翌々日だっただろうか
祖父母は変わり果てた姿で暗い瓦礫の下から発見された。
ガスのせいなのか圧死のせいなのか顔が腫れ上がって面影を失っていた。
母は崩れるように謝りながら泣いていた。

救助隊の話によれば、祖父が祖母に覆い被さるようにして見つかったそう。

母と弟がタンスの下から出てきた時と同じやなって思い出しながら聞いていた。


祖母は沖縄出身の陽気な人で、よくお酒を飲んでは踊っておちゃらけていた。
祖父は長男の嫁の連れ子の私を初孫だと可愛がってくれていた。

近所のアパートに引っ越して来たのも、弟とこれから生まれてくるお腹の赤ちゃんの為だと聞いていた。


とても寒かっただろう。
2人は暗い瓦礫の下でどんな会話をしていたのか。
最後の言葉は何だったのか…


ただ思うのは、最後まで2人一緒で良かったと。



私は、母の再婚で急に出来た家族のようなモノに戸惑い、ずっと馴染めずにいたのです。

最後迄おじいちゃん。おばあちゃんと呼ぶ事が出来なかった。
当時は、それを子供ながらに悔やんでいた。
何というか…その言葉を言うと全てを受け入れないといけない気がして嫌だった。再婚相手が好きでは無かったのだ。

本音の気持ちを手紙にしたため火葬の時にお櫃に入れた。



思えばこの時から、故人との最後の別れになる時に私は手紙を書いている。


バイト先の友達
親戚のおばちゃん
従兄弟
職場の先輩
おじいちゃん
おばあちゃん


生前に伝えられなかった思いなどを一晩2人で会話する様に。
誰にも読まれないのはわかっているのだけど、コレが私なりの「さよなら」の仕方になった。




私が住んでいたマンションは半壊だったので、まだ家の物を持って来れるだけマシだった。

友達は目が覚めたら天井が目の前にあったと話していた。
崩れた瓦礫の隙間を這って、ガラスを破って自力で出て来たらしい。
埃を丁重にはらって着ているソレが彼女の全てだった。
7人兄弟の確か三女の彼女は、それでも全員無事だった事が運が良かったと話す。


大阪にある母の実家に帰る事になった。

友達に「学校が始まったら大阪から通うから」そう告げて、この壊れた【被災地】を後にした。

おじいちゃんの家迄は再婚相手が車で連れて行ってくれたが、渋滞過ぎて何時間かかったのか覚えていない。
夜の暗い道路に赤いブレーキランプの列が、ぼんやり目に入る。
後ろに座っていたが暖房の風が暖かくて瞼を重くさせる。
車の中でだいぶ眠った。
きっと、とても疲れていたんだと思う。


おじいちゃんの家に着いて、テレビを見て初めて震災の規模がわかった。避難所で新聞も見たが、いまいちピンと来てなかったというのが正直なところ。

時間と共に増える死者の人数。
カウンターの数字がテレビに意識もって行くたびに数字を変えている。

火災で画面の中で黒煙が立っているのを覚えている。
ガス臭かった夜明けを思い出す。
もしあの中で火事が起きていたら…と怖い思考が頭を通り過ぎる。


おじいちゃんは、「苦しんでいる人が沢山いる。ちゃんとそれを見ておきなさい」とニュースの震災のチャンネル以外は見せてくれなかった。


娯楽も許されず 正直、窮屈な生活だった。
でもここには、暖かい布団もあるし、毎日お風呂にも入れる。ご飯もちゃんと食べることができる。
それが幸せなのだと刷り込まれている気がしていた。





暫くして学校が始まった。
おじいちゃんの家から学校迄片道1時間以上かかる。転校の話も出たが私が頑なに断った。
皆んなともう一度会いたい。その気持ちだけだった。


JR大阪の環状線
通勤通学時間はかなり混み合う。潰されてそうになりながら毎日乗った。

しばらくして痴漢に狙われる様になった。
今思うと、確実に狙われていた。
乗り込む所から端に押されて逃げ場の無い所に追いやられ、身体中を触られた。怖くて声が出ない。車両を変えても無駄だった。


弟は生まれたばかり。
母に相談する事が出来無かった。
大阪に友達は居ないし転校は絶対嫌だった。
学校に行って友達と過ごしている時間が、唯一私の日常を取り戻す時間だったのだ。電車に乗っているわずかな時間を我慢すれば…と誰にも言えず、しばらくの期間されるがままにされていました。


生活が落ち着き、引っ越しも済ませて電車通学も無くなったけれど、ひどい潔癖症が残った。触られる事が極度に怖かった日々が続きました。


自分が母親になって、もし娘が同じようなことをされていたらと思うと身震いする。

当時、家が全壊した友達はあの避難所で過ごしている。もっと大変な思いをしている人は沢山いるんだから。と歪んだ感情の殻で自分を閉じ込めていたのだと思う。
そして子供ながらに遠慮していたのだ。口に出してしまったら、大人を悩ませてしまう。自分さえ我慢すれば良いのだと。




私の記憶が色濃く残るのは、この辺りぐらいまで。

不思議な事に30年も経ったのに鮮明に覚えているけれど、その後の事はほとんど覚えていない。



色んな場面で被災された方達とあの日の話をしました。
やはり思うのは同じような経験をした人にしかわからない気持ちがあるなと言う事。


「大変だったね」で終わる話ではないのだ。



阪神淡路大震災の経験を、行政や企業等沢山の人達が尽力されている。耐震構造や津波被害の対策など。同じ悲劇を繰り返さない努力をされている。
それによって救われた命もあるだろう。とてもとても素晴らしい事だと思う。



それでもあの日 あの時の光景を目の当たりにして思う。



自然の力の前では人間は、なんて非力だと。

自分が今ここに居るのは、運が良かっただけ。


だからこそ





「当たり前」とか「平穏な日々」に感謝出来る心を忘れないでいたいと思う。


毎日を悔いのないようにとか、亡くなった方の分まで精一杯生きるとか、そんな大それた事を言いながら毎日を送れない。



残された方が辛いのは
知っている。




いつが最後になるかなんてわからない事を学んだからこそ、人と別れる時は笑顔でいたいなと今でも心がけています。
そして毎夜、目を閉じるその時に「大好きだよ。ありがとう。」と娘が生まれた時から伝え続けている。
それが、私に出来る精一杯のことだから。



長い話を最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。


そして各震災や天災で被災された方々。
思うところは、それぞれあると思います。
無くしたモノの大きさも人それぞれ。

それでも人の温かさや優しさもたくさん貰えたと思うのです。



毎年灯る蝋燭の火

空から悲しみの雨が降ったとき

それを受け取り、思い出して泣いていいと思います。

悲しみはずっと持っていたら辛いから
沢山泣いたら空に返しましょう。


空に投げ返す時に一歩踏み出す。

そうやって私達は、確実に前に進んでいると思うのです。 


【あとがき】

性被害の事は実際に各避難所で、あっておかしく無いと思ったから避難所での性被害の報道を聞いた時は、何というか勇気ある告白をしたと凄く凄く感心した。

壊れた町は実際に治安が悪い。
私も火事場泥棒的な不審者も何人も見かけた。


テレビや新聞の報道は、真実なんだろうけど、やはりまだまだ隠れた部分があると思う。
大抵そうゆうものは、女性だったり子供だったりの問題だっりする。デリケートな内容で公にもしにくい。
混乱に紛れて弱いものが狙われる。

そんな方々に、私には持てなかった強い心を持って欲しいと願うばかりです。





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