【彼岸花・書籍化労働記】ハードコアマンガのブック・デザイン/反骨精神に「帯」はいらない!?
ブックデザインとはパッケージ・デザインである。「ナカミを反映させるソトミをデザインせよ」だ。
書籍のデザインで、わたしが忌み嫌うパーツのひとつが「帯」である。「腰巻」とも言う。日本特有の文化だ。
レコードにもCDにも日本盤には帯が巻かれる。日本のレコ屋で掘る外国人の音楽マニアたちにも、"OBI"は通じるらしい。クールジャパン、なんだろうか?
「帯」は、なんのためにあるのか。「購買意欲を高めるため」=「客を釣る」ためだ。
客を釣るための餌は何か? 有名人のレコメンドコメント、なんとかランキング○位とか、○○賞受賞、売上○万部だとか。
「世間が認めているものをわからないアナタは、流行に取り残されますよ」という圧もあれば、「○○が○○する話」的な、ナカミをサクっとまとめてくれるタイパ・コスパのよい文言も踊る。
帯とは「権威づけ」であり「商業主義」だ。何としてでも売らんがな。脅迫してでも売りつけるし、騙してでも買わせる。宣伝宣伝宣伝は消費社会のデフォルトだ。
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自作『彼岸花』に帯は必要か?
『彼岸花』の読者は「権威」におもねりたい人達だろうか?カルチャーにまで「コスパ・タイパ」を重視するタイプだろうか?
わたしのマンガは、コシマキの煽りを嘲笑う人に読んで欲しい。アンダーグラウンドの反骨精神をもつ仲間たちに、届けたい。
『彼岸花』の読者は、わたしと目線を交わすひとだ。両思いになれるひとたちを見つけるのが表紙の役割で、騙してまで売るためではない。
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「商業主義を使って反・商業主義を表現する」
それは、パンク・ムーブメントに大きな影響を与え、思想の土台となった「シチュアシオニスト・インターナショナル」がとなえた戦略である。
「シチュアシオニスト・インターナショナル(SI)」は、フランス・イタリアなどのヨーロッパ諸国の知識人、芸術家、理論家たちによる、前衛的なアート集団である。1957年に結成され1972年に解散した。
彼らは、大量消費社会やブルジョワ的な私的所有を批判し、商品の奴隷になることから生を解放する「状況」を意図的に作り上げようとした。その思想は1968年パリの五月革命の起爆剤となり、思想を可視化したアート表現は、パンクに大きな影響を及ぼした。
SIの思想をわたしなりにことばにするとそれは、<労働によって植民地化された日常>を、欲望の全面的な実現、つまり「遊び」のために取り返す、それこそが「日常生活の革命である」ということだ。
ここでいう「遊び」とは何なのか。
それは、専門家に独占されていた芸術、哲学、学問を、庶民の目線から語り、打ち捨てられて当然だったエネルギーを解放することだ。経済の論理から離れ、いかなる不合理も許容される「遊び」の実現を通して、自由になるってことだ。資本主義世界における自由とは、すなわち商業主義・拝金主義から解放されることである。わたしたちを縛るのは「カネ」だからだ。
SIは、商業化されてしまった芸術も否定した。そして資本主義を否定する芸術を、資本主義世界に投下された商品を使って創造しようとした。引用と転用である。コラージュ(切り貼り)やブリコラージュ(器用仕事)だ。「デストロイ&ビルド」だ。語られるべきものはすでにわたしたちのまわりに「ある」。0から1を生み出すのでなく、100から1を、1万から1を創る。寄せ集め再構築することで新しい視点を示せるという信念である。わたしがマンガでやっているようなことだ。
しかし、商品を否定して何かを創造すると、同時に、自分たちや自分の創造物もまた商品にもなってしまう。その矛盾は、資本主義に生きる以上避けられないことだ。
『スペクタクルの社会』の著者、ギー・ドゥボールは自死した。パンクスも自死ばかりしている。ドゥボールがしばしば使用した「転用」あるいは「引用」という手法は、ゴダールにも確実に影響を及ぼしているが、そのゴダールも結局自死した。
SIの思想に影響されると、自分の「死」という状況すら、意図的に創り上げてしまうのではないか。その誘惑をひしひしと感じながら、わたしは日々を過ごす。
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『彼岸花』のキャラクターたちは、資本主義というシステムの負け組である。構造(システム)にのみこまれ、労働に日常を植民地化され、引き裂かれていく人たちだ。
わたしが『彼岸花』に描いたのは、奪われ奪われ奪われていくパンクスの姿だ。なにもかも失った先に何が残るのか、という話だ。
『彼岸花』は、何かの専門家でもない<持たざる>わたしが、なんとか日常生活を革命しようと格闘した結果のブツだ。不合理で無駄な<遊び>である。
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『彼岸花』には、反商業主義を標榜してきたバンドを、これでもかと引用している。その精神に触れ、暴力的に変えられてしまったキャラクターを描いている。
パンクを大事に聞いてきた人たちに、「この作者はわりとわかってる」と思われることだけが、担保になる物語なのに、帯にエモい中年の恋愛ポエムなんぞ書かれて売られたら、作品の強度が減じるだけではすまない、土台から信頼を失う絶望的状況だ、それだけは阻止したいとずっと思っていた。
わたしが耳をすませていたグランジやライオット・ガールなど、ハードコアに影響された90年代のパンクシーンで「反商業主義・反拝金主義」は、デフォルトの価値観だった。だからこそ、アンダーグラウンドで支持されたポストパンク、ハードコアバンドの多くが、メジャーからデビューするだけでファンから「セルアウト」と罵られた。
90年代は、そういう反骨精神がまだワカモノの内にあったのだ。売れ線なんて、猛烈にダサかったのだ。今はカネがすべて。なんと貧乏くさい世の中になったものか。
『彼岸花』は、カルチャーまでカネにレイプされたこの社会に対する「違和感」でありたい。本屋に置かれた時、「帯のない黒い本」が異物のように見えてほしい。「帯」をとる自由もないってか?くだらないことでも、わたしだけは反抗していたい。
黒という色は、常に「悪」と結びつけられきた。システム外の者たちは、いつだって悪にされてきた。だからパンクスは、いつだって悪人ヅラで吠えてきた。
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わたしは、カバーの裏表紙(表4)に<シャワーを浴びるヒロシの裸体>を描いた。『彼岸花』のバーコードは、社畜であるヒロシの背にTatooが彫り込まれているように見せたい、というアイデアを実現させるためだった。

流通の都合上、バーコードを削除できないなら、「商業主義を使って反商業主義を」表現し、システムをおちょくろうと思ったのだ。
日本の書籍にISBNコードがついたのは、1981年からだといわれている。1991年からは、書店での流通を効率化するため、ISBNコードと価格情報を組み合わせた「書籍JANコード」が導入された。
表4にバーコードを配置することが必須となった時、和田誠など著名なデザイナーたちが「装丁デザインの仕事を冒とくしている」と批判した。
それは、効率性を重視するために美を犠牲してよいのか、という問いだった。デザインの自由を合理追求のために奪われることに、抵抗していたのだ。
書籍のバーコードは通常、表4とよばれる裏表紙の背表紙側の上部にある。パンク的「遊び」のために位置をずらしたいが、果たしてそれが可能なのかが、わからない。
編集長に質問をなげたら「できますよ、やったことがあります」と返ってきた。
彼の話を聴きながらわたしは、バーコードの位置が変な本を日本で一番多く手掛けてきた編集者に相談しているのかもしれない、と思った。
「帯なし」が実現できたのも、システムのナカにいながら当たり前を疑い、自由を渇望し、日頃から洞察を重ねていた人が決定権をもっていたからだ。
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わたしにはカネがない。だからこの資本主義社会で、選べることはない。しかも、真面目にパンク・スピリットをたぎらせればたぎらせるほど、カネのある未来など開けるわけがない。
だけどカネのないわたしにだって、自由に遊ぶことができると励ましてくれるのは、パンクの反骨精神だけなのだ。
わたしは、わたしを暴力的に変えた人たちから受けた恩に、報いることができたんだろうか。彼らが全身全霊でで見せてくれたかっこよさを、裏切らずに模倣できただろうか。
多くの人の尽力を経て、「帯」を巻かない黒い本、『彼岸花』が書籍化される。トーチコミックスで、はじめて「コシマキ」がない、剥き出しの本(ブツ)である。
パンクロックはいつだって草の根活動だ。
口コミでひろがってほしい。
1冊売れれば10冊売れる。10冊売れれば100冊売れる。100冊売れれば1000冊売れる。1000冊売れれば10000冊だ。
風変わりなブックデザインが実現できたのは、度胸のある中川編集長の決断と、パンクロックや映画に知識と教養と愛のある、デザイナーの市川夕太郎さんのスゴ腕があったからだ。関わった人全員が、反抗心に満ちた「個」でしかなかったから実現できた「遊び」だった。
イアン・マッケイは言っていた。
「メジャー(王道)に影響されることなく、自立した存在(インディペンデント)になれれば、俺らの勝ちだ」

★ISBN-10 : 484586987X ★ISBN-13 : 9784845869879
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