何者でもない人たちは自分の言葉を持たない
しばらく非公開のTwitterに書き溜めていたのでそろそろnoteにまとめていこうかと思う。
「ひとつの事を極められない人間は、何者にもなれない。」
これは私が尊敬する方に電話先で言われた言葉で、今でも活動の糧にしている。私はこの言葉を生きているうちに、誰かに伝えることが何度もあるかもしれないが、「尊敬する人からの言葉」ということも合わせて伝えていくつもりだ。
人の言葉のツギハギを行う人間がいる。
まるで自分で生み出したかのように、他人の言葉をパクる。自分で思考し言語化することができる私(ほとんどがそういう人だろうと思うが)には全く理解不能だが、それをしないと考えが何も出てこないのか、繰り返すことを辞めない。
人からの言葉を「この人が言っていた」と引用するのは、その人への敬意だ。誰かに心が動かされた言葉を伝えたい時には、私は必ず敬意を表するために引用した事実を伝える。人の言葉をそのまま使うのはただのパクリであり、教えを伝えてくれた人に敬意がない。
揉め事に発展することもある。なんの許可もなく自分の言葉をさも思いついたかのように持っていかれる側の人間は、不快な気持ちになるからだ。それは盗作にもなり得る場合もあるし、あまりにも続くのならば著作権を侵害しかねない危うい行為でもある。
引用しかできない人がそれならばと、敬意を示してこれをしてばかりいると「また人の引用か」と感じられ、この人は自分の意見を言語化することができないのだと読み手は失望する。まして、ひとりの人からの引用なら、最初からその引用元の言葉を見に行けばいいのだから。
何かを学び、感激し心動かされたとする。だけど、丸々その言葉を使えばそれは学んだ先の人のオマージュでしかなく、自分の言葉ではない。
心動かされたならば、自分の言葉で言語化し、吸収できるようにならないと意味がない。
オマージュしかないということは、それが出来ないと言っているようなもので、ひとりでひっそりとしているのなら何の問題もないが、例えば上に立つような人間であるならば、とても恥ずかしいことなのだ。
出来ないものは出来ない。それならば偉人の格言を集めて言ってみよう。
それならばいいかもしれない。でも私個人の感想としては、その人のありのままの言葉を、稚拙なものでもいいから聞いてみたい。
文法は学べば誰にでも学べる。ちょっとした物語はAIにだって作れる。でもあなたが感じるその揺さぶられた気持ちは、あなたにしか書けない。
高校時代から色々な人にオマージュとして使われてきた私の言葉や文章。喋り方や、よく使う顔文字がブームになった時もあった。それはそれでいいのだが、全く文章を丸パクりする人間もたびたびいた。
そのたびに私は「もっと自分を持てばいいのに、どうして真似ばかりするんだろう?」と不思議だった。
私の文章は以前にも書いたが学生時代に習った文法と、ライター時代に学んだ構成の知識。それから日々を過ごしていくうちに色々な言い回しを覚え記憶したもの。経験。あとは感覚で作り上げられている。
小説や人の文章を自分の中に入れることが共感覚とディスレクシアで困難な私には、文章を書く際に必要なものはこれくらいしかない。パクりたくてもパクれないのだ。
と、いうかそもそも人の言葉を使うという思考回路になどならない。なぜなら人からの言葉を使わずとも、自分の言葉を持っているからだ。
何者でもない人たちは自分の言葉を持たないのか?
常に人からの「名言」を探し、使ってやろうと企んでいる。
色々な人の言葉をツギハギする人の存在は、ただのアンソロジーでしかない。一貫性があるようでないのだ。なぜなら色々な人は個々に考えがあり、それぞれ違うから同じようなことを持ってきてもそれは「よく似たものをかいつまんできた作品集」となるだけ。
他人の言葉しか言えない上に敬意を払うことすら出来ない人は、人の心を動かすことは一生ない。
そして心からの敬意を払えない人間は、次第に自らも敬意を払われなくなり自滅する。
言葉の違和感に気づくようにならなければ、本当に良いものを良いと気づくことすら難しいのだ。
山口葵


いいなと思ったら応援しよう!
文章を楽しく書いている中で、
いただくサポートは大変励みとなっております。
いただいたサポートは今後の創作活動への活動費等として
使わせていただこうかと思っています。
皆さま本当に感謝いたします。