降り注ぐ針の雨に満開の、涙ざくら
日の目を浴びていないブログを、こちらに持ってきています。noteの空気感が丁度良いので。
ある春の日に仕事も恋もがうまくいかなく落ちまくっている日記をもってきた。
暗いけど、自分が暗い時に書く言葉は、その時しか書けなくて、それを私は嫌いではないので、消さずに残してある。
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先週の水曜日に立ってるのもやっとなくらいネガティブシンキングに負けそうになっていて、こっから飛び降りてやろうか、くらいの思考回路しか湧いて来ず寝て落ち着かすことしかできず。
その状態から生み出す自分の言葉や態度って、碌なものがないなと改めて思った。
言い聞かせるように何度も軌道修正を試みているが、そのたびにまた飲み込まれての繰り返し。
闇雲に歩いても霧ばかりで、どこに落とし穴があるのかも見えないまま、立ち止まる。
生きていくというのは、こんなにも痛みを伴うものなのか。
ここ数年毎日が針の雨のように痛みが降り注ぎ続けている。
恋愛という括りではなく、人生とは、自分らしさとは、ということを問い続けてここ数ヶ月踠いてきていて
他人にもたれかかることなく、自分を幸せにできるようになった。
1人でも楽しさを見出すことができるようになった。
それでも何度もまた苦痛が広がっては、傷口に手を当てる日々。
「人のために何かをする」だけでもなく私は誰かに幸せにしてもらいたいと幸せの定義すら人任せにして、自分という軸から大きく外れていた。
色々な手放しの作業を行い本来の自分らしく戻るように。
幸せを感じるのは私自身なので、私を幸せにするのは他の誰でもない自分なのだということに気づいていった。
これはこの過去ブログの冒頭だ。
誰かの中に幸せを見つけるのはやめよう、と見つめなおして歩んでいった結果、
「目の前にいる人たちすべてを愛して幸せにしたい」と思うようになった。
蔑ろにしていた自分自身と向き合えば向き合うほどに不思議と家族や他人、自然、そして地球に感謝の気持ちや愛情が溢れて、そしてそれは朽ち果てることはないということにも気づいた。
注いでも無限に溢れてくるものだと。
だけど自分の精神性を高くしていないと、簡単に昔の自分に戻ってしまう。
どうしてこんなつらいんだろう?っていうのは昔から感じてきていた。
幼い頃からえもいえぬ生きづらさがずっとある。
周りの人たちがとても眩しく、自分だけいつも底なし沼の住人みたいで足掻いてる、ように見えた。
何も考えず揺蕩うことができれば、きっと人生まろやかに楽しめるだろうなと思う。
でも眩しく見えるその人だって、実際はとても辛い想いをしてきてるかもしれないし、とても辛そうにしている人が意外と世渡り上手だったりする。
他人を見て決めつけたところで、自分は何も変わらない。
見つめるのは自分と、今。
わかってるけど、すこしくじけてる。
他人に迷惑をかける自分になるのが怖い。不快な思いをさせるのが怖い。結局まだ人と向き合える状態ではないのだろう私は。
こんなにもまだまだ自分というものが確立できてない渦中にいる私を、誰かに好きになってもらおうなんて烏滸がましいのよ。

今年見た最初で最後の満開の桜は雨の中の、涙ざくら。
痛みを伴う針の雨に、私の心と一緒に散ってゆく。
山口葵
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