見出し画像

生きている意味とか。

わたしは、与えてもらうことばかりを求めているような気がする。
無意識なんだけど、気づいてしまったから、もう無意識とは言えないのかな。

満たされたくて、でもどうやったら満たされるのかわからなくて、ただそこに、なにかが欠けているような漠然とした感覚だけがあって。
それを埋めないと、こころが痛んでしかたないから、どうにかしたいと欲しがる。
いや、どうにかしたい、ではなくて、どうにかしてほしい、なんじゃないのかという気づきである。

満たされないこの感覚を、じぶんで満たすのではなく、ひとに満たしてもらおう、、ではなくて、ひとに満たしてもらいたい、という気持ちなのかなと思う。

良く言えば、わたしはきっと、対人関係の中で、社会的なつながりの中で、こころの穴を埋めたいんだと思う。
悪く言えば、というのか、このわたしの願望は、ある側面からみれば、他者に依存的であると捉えられるのかもしれない。

すこし話はずれるが、わたしは自分の存在価値とか生きている意味とか、そういう取り留めのないことを考えがちで、そういうことを考えてしまうために苦しんでいるところがある。実は、生きている意味なんて、みんなそんなに深く考えていないらしい。少なくともわたしは考えすぎの人間なのだと、慰めのように何回も言われてきた。でも、わたしはきっと存在するであろう、同じように、そういうことを考えて、悩んで、葛藤している人に思いを馳せてみたりするのだ。孤独はつらい。

そういう人に思いを馳せると、話は戻って、自身が満たしてもらいたいという、ある種の依存的な考えがスっとなくなる気がするのである。それどころか、わたしもその人のために何かできないか、満たす側の人間になれないか、と考えるようになるから不思議だ。同情とかわかった風とかでは決してなくて、ただ同志よ、ともに生き抜く術を考えようじゃないか、、というような感覚になる。
うーん、これってよくわからないけれど、なんか悪いことでもなさそう。まあそれも結局じぶんのためなんだろうけどな。

何が言いたいのかまとまらないのだけれど、
与えてもらうだけじゃなくて、なにか与えられる人間にわたしもなりたいと思った、ということ。
そういうところから、生きている意味の端くれが見つかるかもしれないという淡い期待もあるかもしれない。

それと、
わたしは、時に、生きている意味とか考えて考えて、苦しみも持って、それでも考えながら生きている人のことが、きっと好きです。

いいなと思ったら応援しよう!