兵士が人口とほぼ同数に?戊辰戦争の裏側で青森の町に起きた5つの驚きの出来事
序文:読者の興味を引く導入部
戊辰戦争や箱館戦争と聞くと、多くの人々は榎本武揚や土方歳三が最後の戦いを繰り広げた、函館の五稜郭を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、その主要な戦場から海を隔てた青森の町が、実はこの戦争に深く巻き込まれ、大きな混乱と変化を経験したことは、あまり知られていません。
今回は、歴史の表舞台では語られることの少ない、戊辰戦争のさなかに青森の町で起こった、5つの衝撃的な出来事をご紹介します。
1. 兵士の数、ついに人口に並ぶ
明治元年(1868年)10月25日、青森の町は予期せぬ出来事に見舞われます。箱館の五稜郭が旧幕府軍に攻略される前日、新政府軍の兵士800人が突然、箱館から青森へ逃げてきたのです。町中がこの事態に大騒動となる中、翌日にはさらに1,000人もの敗走兵が到着しました。
しかし、町の混乱はこれで終わりませんでした。新政府軍は五稜郭奪還のために援軍を派遣し、彼らもまた青森に駐屯することになったのです。その結果、12月の段階で町に駐留する兵士の総数は、実に9,500人以上にまで膨れ上がりました。当時の青森町の人口が1万人を少し超える程度だったことを考えると、町の人口とほぼ同数の兵士たちを抱え込むという、まさに異常事態でした。
当然、宿舎は全く足りず、お寺も宿所として使われました。記録によれば、正覚寺だけでも680人が収容されたといいます。兵士たちの生活も過酷を極め、冬を越すための布団は3人に1枚しか割り当てられなかったと伝えられており、兵士と住民の双方が直面した困難の大きさがうかがえます。
2. 敵艦の出現で、町中がパニックに
このように兵士で溢れかえり、緊張状態にあった町に、さらなる衝撃が走ります。明治元年11月7日、旧幕府軍の軍艦2隻が突如として青森湊に入港したのです。
この軍艦の来訪目的は、新政府への「願書」を渡すことでした。しかし、その意図が正確に伝わる前に、「艦砲射撃で焼き討ちにされる」という噂が町中に広まり、人々はパニックに陥りました。家財道具を近隣の村へ運び出し、必死に避難を始める人々で、町は大混乱となりました。
この事件は、町の防衛体制にも大きな影響を与えます。いつまた旧幕府軍の軍艦が来襲し、砲撃を仕掛けてくるか分からないという緊迫感から、急遽、海岸3ヶ所に砲台(台場)が設置されることになりました。当時の緊迫した空気が、町の風景を大きく変えたのです。
3. 戦争がもたらした、予期せぬ「見物ブーム」
しかし、このような緊迫した空気のなか、当時の青森には全く別の光景も広がっていました。蒸気船や、箱館から避難してきた外国人といった、当時の人々にとって「珍敷(めずらしき)」ものが次々と現れたのです。特に、外国人の女性や子どもたちには多くの見物人が集まり、また、イギリス船が船上でヴィクトリア女王の誕生会を催し、弘前藩主らを招待したという記録も残っています。
ある人物の記録は、当時の人々の好奇心を鮮やかに伝えています。彼はどうしても蒸気船に乗りたい一心で、現在の平川市あたりから青森までやって来ました。そして、石炭を積み替えるための船に乗り込むという機転を利かせ、ついに念願の蒸気船への乗船を果たしたのです。船内を見物した彼は、その感動を「其美麗なる事、言語に絶たり」—その美しさは言葉では言い尽くせないほどだ—と記しています。
やがて新政府軍の艦隊が出航する際には、近隣の村々からも人々が見物に集まり、当時の記録は「誠に未聞の賑わい」であったと伝えています。動乱の時代の中にあっても、人々は新しい時代の到来を告げるものを目の当たりにし、その変化を肌で感じ取っていたのです。
4. 戦争が終わっても、町の負担は終わらなかった
明治2年(1869年)5月、箱館戦争は新政府軍の勝利で終結します。しかし、それで青森の町の役割が終わったわけではありませんでした。
まず、戦いで負傷した新政府軍の兵士たちが次々と青森に送られ、町の塩町の「遊女屋」(遊郭)やお寺に収容されて治療を受けました。彼らがようやく町を去った後、今度は降伏した旧幕府軍の兵士数百人が送られてきたのです。彼らもまた、お寺や市中の家々で受け入れられることになり、戦争が終わってもなお、町の負担は続きました。
すべてが終わったのは、明治2年10月25日。降伏兵を乗せた蒸気船が青森湊を出帆した、まさにその日でした。奇しくもそれは、新政府軍の敗走兵が最初に青森に到着してから、ちょうど一年後のことでした。この日をもって、ようやく青森にとっての長く苦しい戦争は終わりを迎えたのです。
5. 地図に残された、戦争の「痕跡」
この戦争は、人々の記憶だけでなく、町の物理的な風景にもその痕跡を残しました。かつて青森市内には、この戊辰戦争で亡くなった人々を弔うための「戊辰役墓地」が存在していました。
市の歴史資料室に残る地図を調べてみると、この墓地は昭和13年(1938年)以降のある地図にはっきりと描かれています。しかし、それ以前の地図にはその存在が見られません。では、この墓地が描かれる以前、同じ土地には何があったのでしょうか。古地図を紐解くと、そこには師範学校(明治44年)、呉服店(大正10年)、そして県立病院(昭和2年)といった、町の暮らしを支える施設が次々と描かれています。
この事実は、戦争の記憶が、時を経てから町の公的な地図の上に「痕跡」として刻まれたことを示唆しています。しかもそれは、空き地ではなく、教育、商業、医療といった市民の営みの記憶の上に、いわば上書きされる形で現れたのです。一枚の古地図が、歴史がどのように町の風景となり、そしてまた時と共に変化していくのかを静かに語りかけてくれます。
結び:未来へと思いを馳せる
今回ご紹介したように、歴史の大きな出来事は、主役として語られる人々だけでなく、その周辺にいた数多くの人々の生活にも、計り知れない影響を与えます。青森の町は、戦争という大きなうねりに翻弄されながらも、その負担を背負い、たくましく乗り越えていきました。そして同時に、混乱の中にも新しい時代の息吹を感じ取っていたのです。
歴史は、有名な戦いや英雄の物語だけでできているわけではありません。あなたの住む町には、まだ語られていないどんな歴史の物語が眠っているでしょうか?少し視点を変えてみるだけで、足元から意外な歴史の扉が開くかもしれません。
