短編小説|愛してるのワルツ【後編】
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「どうして、キラ子は妊娠したんだろう」
言ってしまった。キラ子が、おれから顔をそむけた。
場違いな発言で、キラ子を慮る言葉でないことはよくわかっている。だけど、どうしても気になった。だって、おれたちはいつだって避妊していたのに。それに──。
「外れてたよ、あのとき」
キラ子は言った。
「王ちゃんはなにも見てないから気づかなかったと思うけど。いつだって自分のことに集中してて、あたしのことなんて見てない。ちゃんと見てたらわかるはずだもん。ゴムが外れそうなのが気になって不安になってるあたしの顔とか」
グラインダーは甲高い音で叫び続ける。おれは殺気立つそれが怖くて仕方ない。だけどグラインダーはおれの体にかすりもしない。それなのに、怯えるおれの体のどこか、わずかに血が滲んだ。
こわばった体はなにかに固定されているように動かすことができない。おれの内側でかり、かり、と音がする。下腹部がしくしくする。痛い。
想像の中でおれは、あるはずがない子宮の内部を何者かにスプーンでえぐり取られる。痛い。痛ぇよ。
おれはただただ情けない。頼むからこれ以上痛みを与えないでと、心の中でキラ子に懇願した。実際、痛かったのはキラ子なのに。一人で手術に耐えて泣いていたのは、おれでなくてキラ子なのに。だけど、申し訳ないけど、おれは元来血を見るのが苦手だし、痛みに弱くて臆病なんだ。キラ子には本当に申し訳ない。だけど、本当に許して。これ以上強い痛みを与えられたら、おれは永久に勃たなくなりそうだ。
「覚えてなくてごめん」
互いにしばらく黙っていたけれど、何かしらおれから謝罪の言葉を述べる必要があるだろうと思って、まずはその日の詳細を覚えていないことを詫びた。キラ子から、すん、という音がしたが言葉はなかった。
「その日……結構酔ってた?」
確認したかったのはもちろんおれ自身のことだ。キラ子は酒を飲まない。
「そりゃあ酔ってたよ。王ちゃん、うちに来る時はいつも飲むじゃん。どんどん飲んじゃって、話ができないくらい酔っ払って。それで次の日には全部忘れちゃう。何を話したかとか、何をしたのかも……。だから今日はこうしてコーヒー片手に歩いてるの。あたし、王ちゃんとちゃんと話がしたいから」
そうなんだ。キラ子の言う通り、おれは酒を飲めばなにもかも忘れてしまう。それくらい飲まないと酔えないし、そのくらい酔わないと忘れられない。
いつからか、おれの中でキラ子と酒がセットになった。
キラ子の家に行くときには大量に酒を買って、キラ子がつまみを作ってくれている横で早々にストロング系缶チューハイのプルタブを引く。それがルーティンになっていた。
空きっ腹で飲む酒は、たまらない浮遊感と安らぎをもたらし、瞬時におれの体を支配した。そんなとき、おれはキッチンに立つキラ子に後ろから抱きつきたくなる。もちろんそれは、キラ子の機嫌がいい時に限るのだけれど。
おれはキラ子の華奢な体を包み込むようにして抱きしめて、キラ子の髪の匂いを嗅ぐ。キラ子の髪は短いから、鼻を押し当てるとキラ子自身の匂いがする。さっぱりした、グレープフルーツみたいな匂いだ。
そのあとは、キラ子の両腕を抑えて耳にキスしたり、柔らかい尻の肉を揉んだりする。そうするとキラ子は、ちっとも嫌そうじゃないのに嫌がるふりをする。そんなキラ子がかわいくて、おれはその気持を素直に言葉にしたくなる。
「キラ子、かわいい」
「はいはい」
そう言って顔を逸らすキラ子が好きだ。そう強く思ったら、おれはまたそれを言葉にしたい。
「好きだよ、キラ子。大好き」
そのころにはだいぶ酔いが回り始めていて、呂律があやしく視界も悪い。
小さなちゃぶ台にキラ子が作ってくれた料理が並べられる。キラ子と向かい合い、おれは相変わらず酒を飲む。キラ子は食事をしながら、その日あったことをなんでもおれに話してくれる。
キラ子は話の途中ずれ落ちる眼鏡を、その白くて細い指で押し戻す。そんなキラ子の繊細な先端部を見ていると、途端に欲情して、おれはまたキラ子を後ろから抱きしめたくなる。
ずりずりと絨毯を這ってキラ子に近づく。キラ子はそんなおれの行動を気に留めることなく話し続けている。こういうとき、キラ子はどんな話をしていただろう。思い出せない。
キラ子の背後に回り込み、足の間にキラ子を挟むようにして座る。おれはちゃぶ台をそっと足先で押して遠ざける。ちゃぶ台とおれたちの間に空間ができると、おれはキラ子をしっかりと抱き寄せる。するとキラ子もおれに体を預けてくる。
おれはキラ子のあらゆる部位を愛撫する。大切な割れ物を扱うように優しく。決してキラ子に触れることを恐れているわけじゃない。ただキラ子に、このときばかりは尽くしたいと願う。キラ子が気持ちよくあるようにと。
キラ子に触れるとき、おれは密かにワルツを意識する。頭の中で三拍子をとり、三角形を描くように手をすべらせる。キラ子の滑らかな肌の上で、おれは優雅にトライアングルを描く。それは指一本だったり、手のひら全体を使ったりして。
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おれの目はほとんど閉じかけている。酔いつぶれる寸前で、目を開けるための機能がうまく働かない。だけど、どうしてもキラ子にイッてほしいから、意識が続く限り、丁寧に時間をかける。そうでないとだめだから。ここでキラ子を満足させることができないなら、きっとおれたちは終わってしまう。おれはそれが怖い。だから酒を飲む。飲んで飲んで、飲まれてしまう。そうしたら最後は、全部酒のせいにできる。
こんなにキラ子のことが好きなのに。もう二年ほど満足に勃たない。勃つときもなくはないけど、そんな日に限っておれの記憶にはなにも残っていない。キラ子が密かにつけている手帳の存在に気づいているおれは、手帳に記された秘密の記号でその事実を知る。どうやらおれは半年ぶりに勃ったらしい、という具合に。
そろそろ付き合って五年になる。今年おれらは三十路を迎えた。それが何を意味するのか、どんな意味を持ち始めているか、おれだってわかっている。わからないふりをするのもそろそろ限界だってこと。こんなおれでも、わかっている。
キラ子には結婚願望がある。付き合い初めたころにキラ子自身がそう言った。いつとは言わなかったけれど子どもだって望んでいる。おれはといえば、何となく時期が来てそういう話になったときに、そのとき一緒にいる人と結婚するのだろう、それがキラ子である可能性もあるし、そうなったらいいかもな、くらいにしか考えていなかった。
キラ子とはときどき衝突はあってもすぐに仲直りできた。一年に一度くらい本気の喧嘩もあったけど、たいていはマンネリを防ぐための、意味のある痴話喧嘩だ。三年はそんなふうに、どこにでもいるカップルのようにうまくやってきた。それなのに、あるときからおれはセックスが下手になった。まだまだ中盤だというときにキラ子の中でぐったりしてしまう。挿入に至らないことが多くなった。ふにゃふにゃになってしまったことを悟られたくなくて、一生懸命キラ子に腰を打ち付けるときの、パン、パン、という音は余計におれの焦りを煽った。努力も虚しく、やがてキラ子の喘ぎ声が途絶えて、いよいよ部屋の中がパンパン音だけになったとき、おれはキラ子の足を広げてそこに顔を埋めると、がむしゃらにキラ子の濡れている部分を舐めた。セックスのあいだも外さない眼鏡は顔にくい込んで痛い。ついには外れて、危うくキラ子の尻に敷かれそうになったとして、おれはキラ子を舐め続ける。辞められない。キラ子がイッてくれるまで、気まずさから顔をあげられないのだから。
キラ子は、そんなおれとのセックスに文句を言わなかった。いつだっておれに主導権を握らせ、身を任せている。キラ子はおれの問題に気がついているはずで、そんな状態が二年も続いているというのにおれを見放さない。おれの施しで得られるいっときの快楽なんて、キラ子にとって今後はなんの意味もなさないのかもしれないのに。生産性のないセックスだとわかっていながら、キラ子は優しいから、全部わかった上で、核心をつくような、おれを傷つけるようなことを言わない。そんなことをしたら、ますますおれのへなちょこなモノに悪影響だって思うのだろう。だから待っている。待ってくれている。
───そう、思い込んでいたけど。
近頃はグラインダーの音が近い。その音は不快だし、俺を不安にさせる。だけどキラ子は、絶対におれのことを傷つけやしない。どうしてか、それだけはわかるんだ。
ときどきはキラ子とおれが互いに怪我をしないように慎重に火花を散らすときはある。それは暗黙の了解で行われることだから、多少派手に火花が舞ったって大したことはない。だけど、いつかそのグラインダーがキラ子自身を傷つけやしないか、おれはそのことが気がかりで仕方ない。もしもそうなったとき、キラ子が傷ついたとして、おれはその傷を癒やすことができそうにない。
「王ちゃんに言いたいことがあります」
キラ子が足を止めた。そして繋いでいた手を離した。
「王ちゃんはずっと不安そう。実際、不安なんだよね。その不安がどういう類のものなのか少しは知ってるつもり。だけど、その一部は杞憂でもある」
キラ子がおれの正面に立った。キラ子の背後には街灯があって、光の輪がキラ子を包んでいて、まるで天使だ。
「王ちゃん、あたしとの関係に悩んでない? この先どうしたらいいのかって、困ってるよね。それね、じつを言うとあたしも同じなの。この先、王ちゃんといっしょにいてもいいのかって、すごく悩んだよ」
キラ子はそこで言葉を切った。言葉をつまらせたのではなく、意図的に切ったようだ。毅然と話し、キラ子はまっすぐおれを見ている。ただまっすぐ、おれに視線をよこす。そして、一歩、二歩とおれに近づいてきた。おれもキラ子の顔をじっと見つめた。キラ子の小顔も、ぼやけるとややふっくら見える。表情はあどけなく、まるで幼子だ。もしもキラ子に子どもがいたら。きっとこんな顔をしているに違いない。
「悩んでたよ。あたしは王ちゃんを満足させる魅力がないんだって」
キラ子がぶるっと体を震わせた。体が冷えたのだろう。今すぐ抱き締めて温めてやりたい。だけど、そうすることはキラ子が話したいことの邪魔になるかもしれない。そう思ってこらえた。
「王ちゃんはあたしが相手じゃなければ、きっと最後までいけるんだろうなって思ったの。だから、あたしが王ちゃんを引き止めていることは罪だなって思った。だけど、王ちゃんはアプローチの仕方を変えて、あたしと向き合ってくれてたでしょう? その努力をいつも感じて、あたしは、王ちゃんを諦めようと思った自分を恥じたよ」
すん、すん、とキラ子は鼻をすする。
「あたしは王ちゃんのことが本当に大好き。王ちゃんがあたしにしてくれることも。いつもすごく……嬉しい」
どんな顔をしているんだろう。今、キラ子はどんな顔だ。
おれはキラ子を右手で抱き寄せて、キラ子の顔に近づいた。
「あ……」とキラ子が小さく吐息を漏らした瞬間、おれはキラ子にキスをした。それは今までで一番キラ子に近づいたキスだった。眼鏡を外してするキスはこんなにも気兼ねないものなのだと知った。
「王ちゃんが好き」
息継ぎの合間にキラ子が言う。おれは呼吸を忘れてキラ子の唇を貪った。
「あたし、王ちゃんのへな太郎のことも好きなんよ」
へな太郎? いったいなんだ。へな太郎って。
そのうち、キラ子がくすくす笑い始めた。
「王ちゃんが酔って寝ちゃったあと、あたしはへな太郎と遊んでるんだよ」
「へ?」と間抜けな声が出た。
「だってさ、王ちゃんってば、いつも自分のムスコをしまわずに寝ちゃうから。だからあたしがトランクスの中に戻してあげてるんだよ。戻す前に手のひらに乗っけて遊ぶの。こう、よいよいって」
キラ子は手のひらを上にして、お手玉を低く放るように上下にその手を動かした。
「ぽてっとしててね。今まで誰からも見つけられなかった秘密の生物みたいなの」
「は、はずかし! なにしてくれんの」
おれはキラ子に弄ばれる無防備なムスコを想像して顔が熱くなった。
今更はずかしがるなよ〜とキラ子が冷やかす。
キラ子はしばらくくすくす笑いを辞めなかったが、やがて落ち着くと言った。
「へな太郎のことをかわいく思ってるのは本当だよ。だけどね、ときどき、本当に稀にだけど、へな太郎が猛々しくなる時があるの。その規則性については不明なんだけど、そのラッキーデーに出くわしたときのときめきって言ったらないよ。あまりにも立派になっちゃうへな太郎に怯むときもあるんだけど、これが本来の姿なのかもって思ったら、親心なのかな、涙でそうになって。だからね、ゴムが外れそうって思ったけど、止められなかった。止めたくなかったんだよ。
いけーーーーー! へな太郎ーーーーー! って」
「ぶっ」
おれは笑った。キラ子も笑っていた。二人で、腹を抱えて笑った。
なにが〝へな太郎〟だ。人をおもちゃにするのもいい加減にしてくれ。おれの真剣な悩みをそんなふうに笑い話に変えるだなんて。どうかしてるよ。最高だよ。キラ子は本当に最高な彼女だ。
二人して笑っていると思っていたが、いつの間にかキラ子だけが泣いていた。赤ちゃん、いなくなっちゃった、と声を震わせて泣いた。
大丈夫だよ、とは口が裂けても言えないおれは黙っていた。キラ子は、
「王ちゃん、あたしに謝るのだけはやめてね。そんなのって悲しすぎるから。あと、赤ちゃんがだめになったことに意味を見出すのは、今はやめて」
何も言わないで、と結論を出したキラ子をしっかり受け止めようと、おれは足元にあった平らな石の上にキラ子のコーヒーカップを置いて、それから両腕でキラ子を抱っこした。しっかり体を密着させると、キラ子はおれの肩を涙で濡らした。おれの目にも涙が滲んで、見えている世界のすべてのものの境界があやふやになった。もう、なにもかもよくわからないのに、光だけは更に眩しさを増している。
「おれたち年取ったら、今よりもっと目ぇ悪くなってさ───」
おれは下がってきたキラ子の尻の位置を上げようと、「よっ」と掛け声をつけてキラ子を持ち上げた。首に巻き付くキラ子の腕の力は思ったよりも強い。まだ涙は止まらないみたいだ。
「将来、もっと目ぇ悪くなったら、眼鏡を外した世界は今より更にきれいに見えるのかな。その頃はLEDよりすごいものができたりしてさ。それがどういうものなのか、全然想像できないけど」
キラ子が、ふふと笑った。キラ子は泣きながら、細い指先でおれの背中に小さな三角形を描いた。
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「そういうの、キラ子と一緒に見たいよ。絶対きれいじゃん、そんな世界って……」
言いながら声が震えた。キラ子はまだおれの背中で三角形を描き続けている。整った三拍子だ。おれがキラ子に捧げてきた、愛してるのワルツ。ちゃんとキラ子は感じていてくれたんだ。心を撫でるように優しいキラ子の指のタッチに涙腺が緩む。
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キラ子はおれの肩で涙を拭うと、少しだけ顔を上げた。おれがこのまま歩き出すと思ったのか、片腕を地面に向けて伸ばし、コーヒー、と言った。
「大丈夫、忘れてないよ。ちゃんと、覚えてたよ」
コーヒーのことだけじゃない。今この瞬間からは何一つ忘れたくない。
いつからか、おれはキラ子との親密な時間に怯えるようになって、グラインダーの音ばかり探すようになっていたんだ。キラ子が奏でていただろう、もっと耳を傾けるべき音に気がつきもしないで。
これからは、キラ子から発せられるネガティブな音だけじゃなく、キラ子が幸せなときに奏でる音を聞きたい。さらに欲を言えば、二人が調和して心地よいリズムを生みだせたら。そうできたらもう、最高だ。
キラ子をしっかり抱きかかえたおれは、慎重に腰をかがめた。
了
四百字詰め原稿用紙、四十一枚
