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川に浮かぶ駅で、私は記者になった。

くじけそうになるたびに、思い出す駅がある。
川をまたぐように架かっている北赤羽駅だ。

JR埼京線の各駅停車しか停まらない、小さな駅。
ホームの真下を新河岸川が流れ、改札を出ても、遊歩道を歩いても、いつも川がそばにある。

赤羽口と浮間口、ふたつの改札に分かれた駅の周囲には、団地や住宅街が広がっている。人々の日々の暮らしが息づく街だ。

華やかでもなければ、観光スポットが充実しているわけでもない。
でも、近くまで来たら、つい立ち寄ってしまう。
この駅は、私の「記者としての原点」なのだ。

噴煙が空を覆った夏

20代半ばで楽器メーカーの営業職から新聞社に転職したのは、「書くことで、人と人をつないでいけたら」という漠然とした思いからだった。

記者になれば、さまざまな人に会い、話を聞き、それを言葉にして世の中に届けられる。そんな理想を描いていた。

けれど私は、この仕事を誤解していた。

2000年夏、三宅島が噴火した。
東京の南約175キロに浮かぶ、山手線の内側ほどの小さな火山の島。

同年6月から始まった噴火活動は次第に激しさを増し、
8月には噴煙が上空1万4000メートルに達する大規模噴火へと発展。火砕流も発生した。

そして9月、全島避難が決定する。
約4000人の島民が、生まれ育った故郷を離れることを余儀なくされたのだ。

当時、ジュニア向け紙面を担当していた私に、編集長から指示が飛んだ。
三宅島から本土に避難してきた、子どものいる家族を取材しろ。きちんと話を聞いて、シリーズ記事として掲載しよう」

向かった先は、東京都北区にある都営アパート。約200世帯が避難生活を送っているマンモス団地だ。
その最寄り駅が、北赤羽駅だった。

取材対象の家族が暮らす住宅の玄関先で、「取材させてください」と頭を下げた。
ドアが数センチだけ開く。
疲労と警戒の入り混じった表情の、40代くらいの女性が顔を出し、私を一瞥してこう言った。

「こっちは大変な思いをして、何とか暮らしているんです……。何も話したくありません。帰ってください」

ばたん、とドアが閉まる。

当然だと思った。私が当事者でも、同じように拒絶しただろう。
早々に編集部へ戻り、「取材を断られました」と報告した。

すると編集長は、あきれたように言った。
「1回断られたくらいであきらめるな。話が聞けるまで、何度でも足を運べ」

いや、でも、無理ですよ。あんなに迷惑そうにしているのに……。
そう反論しかけて、言葉を引っ込める。
日頃から「足で書け」を信条にしている編集長が、一歩も引かないことはわかっていた。

翌日、気は進まなかったが、再び北赤羽駅へ。2度目の訪問だ。
その後も3度、4度と都営アパートを訪ね、取材のお願いを続けた。

そのたびに玄関ドアは数センチだけ開き、「話したくありません」という女性の言葉が返ってくる。

——ほんとに、私は何をしているんだろう。

あの女性の言うとおりだ。
ここに来るたび、何度そう思ったかわからない。

「迷惑だから来ないでくれ」と意思表示している人に、話を聞こうとする仕事って、いったい何なんだ。
私はなぜ、楽器メーカーから転職してまでこの仕事を選んだのだろう。

とはいえ、手ぶらでは編集部に戻れない。八方ふさがりだ。
肩にかけた一眼レフの入ったバッグが、鉛のようにずしりとのしかかる。

行き場を失った私は、10分ほど歩いて北赤羽駅に戻るしかなかった。

今、ここで何が起きているのか

駅の周辺を、あてもなく歩き回る。
高架下を流れる新河岸川を眺め、遊歩道を行ったり来たりしながら、
「どうしよう…私には無理だよ…」とつぶやく。

川はただ静かに光を反射し、穏やかに流れていた。
その水面を眺めながら、ふと考えた。

——何のために、メディアは存在するのか。

他人のつらい体験を記事にすることで、記者はごはんを食べている。紛れもない事実だ。
けれど、もし誰も被災者に近づかなかったら、どうなるのだろう。

「かわいそうだから」「迷惑だろうから」と、全員が遠巻きにしていたら。
世の中の人たちは、「今、ここで何が起きているか」を知る機会を失ってしまう。

三宅島で何が起こったのか。避難してきた人たちが、どこで、どんな思いで暮らしているのか。
それを社会に共有するには、誰かが現場へ行き、声に耳を傾け、言葉で伝えなければならない。
そのために、私たち記者がいる。

気づけば私は、再び都営アパートへ向かって歩き出していた。

5度目の訪問。
いつものように門前払いをされながら、私はドア越しに言った。

三宅島で何が起こっているのか。避難された方々が、どんな思いで暮らしているのか。いま、何が必要なのか。
多くの人に理解してもらうには、誰かが取材して真実を伝えなければならないと思います。どうか、私に話を聞かせてください」

しばらく、沈黙が続いた。

「……どうぞ」
静かな声とともに、ドアが開いた。
今度は数センチではなく、私を受け入れるように大きく。

小学生と中学生の子どもが2人。
母親(いつも対応してくれていた女性)と父親、そして祖父母。
6人家族で、小さな3DKに肩を寄せ合うように暮らしていた。
父親は仕事で不在、中学生はまだ学校から帰っていないという。

「あなたも、何度もここに来て大変ですね」
そう言って、母親はお茶を淹れてくれた。

外を歩き回ったあとにいただいたそのお茶は、体中に染み渡るほどおいしくて、温かくて、グダグダな背筋がしゃんとした。

母親と祖父母は、重たい口を開き、少しずつ語り始める。
噴火の恐怖。
家財道具や家族の大事なものを置いてきたこと。
島に残してきたペットへの気がかり。
子どもたちの進学不安。
先の見えない未来。

ときおり黙ったり、怒ったり、目を潤ませたりしながら、胸の内を明かしてくれた。
取材の最後に、母親がこう言った。

「たくさん話したんだから、ちゃんと多くの人に事実を伝えてくださいね」
その言葉は、いまも心に刻まれている。

記者になってよかった

聞いた話をもとに、全5回の連載を組んだ。
「三宅島噴火でいま起きていること」を多くの人に伝えたくて、さまざまな角度から記事を書いた。

後日、掲載紙を手に、再び都営アパートを訪ねた。
あらためて取材のお礼を伝えると、母親は少しだけ笑顔を見せてくれた。

「私たちも前を向いてがんばるから、新人記者さんもがんばって」

帰り道、北赤羽駅のホームで新河岸川を眺めながら、
「記者になってよかったかも……」と初めて実感した。
そして、彼らが島に帰れる日まで、必ず見届けようと誓った。

それから4年5カ月後の2005年2月、ついに避難指示が解除へ。
多くの島民が、三宅島に戻ることができた。

あれからもう四半世紀が経つ。
行き場を失った私を黙って見守ってくれた駅舎と、新河岸川の流れは、今も私の揺るぎない「原点」だ。
歩く方向を見失い、立ち止まりそうになるたび、あの日の川の風景が脳裏によみがえる。

駅舎がまたいでいた新河岸川は、隅田川に流れ込み、やがて東京湾へと届く。

サワサワとゆるやかな流れも、ゴウゴウと激しい流れも、ちゃんと誰かに届くのだ。
そんなことを考えながら飲んだペットボトルのお茶は、やけにおいしかった。

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