連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑨
続きです
(2701文字)
肌を刺す陽射しから、逃げるようにアーケードの影に潜り込み、一瞬ほっとする。
色が変わった古い屋根の下には、逃げ場のない熱と、行き交う人の汗や靴についた土の匂いが閉じ込められているようだ。
店先に置かれた湿った段ボールから、くたびれた七夕の短冊が覗いている。私は熟れた果物の匂いが漂う店先や、生臭さの残る魚屋の前を通り過ぎ自宅に向かう。
「ただいまー」拓也がそう言いながら帰ってくる。
「おかえり。今日も暑かったね」私はキッチンから顔を出す。
先にシャワーを浴びた拓也は、冷蔵庫を開け缶ビールを手にした。
「いい匂いがする。今夜のおかず、何?」テーブルの上を覗き込む顔は、あの日までと何も変わらない。
あの夜から拓也は外泊をしない。
私の気のせいだったのだろうか。
温かい拓也の腕の中で、頭の奥で鳴っているカカオニブの砕ける音だけが、やけに遠くで響いている。
あの日から絵は止まったままだ。季節だけが進んでいる。
いつかまた進むのだろうか。
それでも私は、いつまでも完成しなくていいと、頭のどこかで思っている。
仕事をしていても、ドアが開くたび反射的に顔を上げ、違う客だと知って小さく息をつく。
彼は私の店に現れない。
落ち着かない気持ちで日々を過ごしていた私は、とうとう拓也が帰って来るまでに戻ればいいと、アトリエまでタクシーを走らせた。
丘の上は風が強かった。
背の高い草がざわざわと揺れ、お前はそれでいいのかと囁かれた気がした。
遠くで蝉が鳴いている。
ぽつんと置かれた自転車が視界に入った。
あの子のだ。
銀色のハンドルが西日にきらりと光り、私はあの黒目がちな目を思い出し、気が重くなる。左右に揺れる「CLOSED」の札を無視して、そのまま扉を押してみた。鍵はかかっていなかった。
カラン、カラン、カラン。
店内の灯りは落ち、空気が静まり返っている。
「こんにちは」と、私は奥に向かって声をかけた。
なぜ、自分がこんなに大胆になっているのかわからなかった。
金色のドアノブがついた扉が少し開き、彼が顔を覗かせる。
「ちょっとカウンターの方で座って待ってて」そう言うと、すぐに奥へ引っ込んだ。
しばらくすると、彼の代わりに、少し膨れたような顔をしたあの子が出てきた。
今日は夏休みか。
ショート丈の白のトップスに、淡い水色のシアーシャツ。素足に短いプリーツスカート、サンダル。
すらりと伸びた足と、張りのある肌の質感が眩しすぎて、目を逸らしたくなる。
シャツの片方の襟が、内側に折れ曲がっていた。
遺体で見つかった子も、この子と同じ女子高生だった。
「なんだ……じゃあ今日は帰る。またね、修さん」私を一瞥し、彼女は甘いシャンプーの匂いを残し帰っていく。
「あの子、シャツ、歪んでたね」
「……暑いからって、脱いでたんだ」
「そう。今日もとても暑いものね」
「由香里さん、久しぶりに来てくれたんだね……」
「修一さんは私の店に来なくなった……」
「来てくれて嬉しいな……」
私は彼に何を求めているのだろう。
何かから解放されたがっている……
扉の奥は、いつもの乾いた空気に瑞々しさが混ざり、焦茶色の床に青さを見た気がした。ぽつんと置かれた椅子もオレンジ色に染まり、そこにあの女の子の残像を見た気がして、胸の奥がざらついた。
彼はそんな私の心を見透かすように、左の壁際の閉じていた扉を開けた。
一瞬、私はどきりとする。
彼に導かれるままにその前で、足が止まる。
整った白いシーツが掛かったベッドが目に入った。
正面の小さな窓から入る陽ざしに、少しだけ安心する。
「ここに座って。今日は近くで見ながら描きたい」
彼は私の手を取り、ベッドへ腰掛けさせた。
私は頭がぼうっとして、操り人形みたいに何も考えられない。
彼が準備をしている間、そろりと視線を移す。
どうやらここで彼は生活をしているようだ。
ベッドの向かいには、背の低い焦茶色のチェストが置かれている。その上の古いガラス瓶からポトスの葉が静かに垂れていた。
隣には、ハンカチの上に置かれたキーホルダー。
そこに目が止まる。
なぜだか、しばらく視線を外せない。
どこかで見たようなーー頭の中に靄がかかったようで、少し気持ちが悪くなる。
チェストの奥にはまだ、知らない扉がついている。キッチンへ続いているのだろうかと、別のことを考えた。
「由香里さん」
私の隣に座り、ゆっくり私の手をとった。
「今日は由香里さんの手を描かせて」
「いや」
反射的に手を引っ込めた。
彼は「なぜ?」という顔をしたあと、力を抜いたようにふっと笑う。
「じゃあ、ここは?」そう言って、私の髪を優しく掻き上げ、耳にかけた。
「ピアス、似合ってるね」
彼の指がそっと耳に触れる。
私は呼吸が浅くなる。
その日、私は拓也にマルシェで買ってもらった青いピアスをつけていた。
彼の視線は、赤く染まった私の耳を見ているのだろうか。うなじに滲む汗を描いているのだろうか。
私はだんだん隠さなくなる。
見てほしくなる。
聞いてほしくなる。
……触れてほしくなる。
隣でカリ、カリ、と音がする。
私は少しずつ仕事のこと、家のこと、主人のことを話し始めた。
「私……子どもの頃……
友達の手を離したんだと思う。
だからその子は死んでしまった……」
ガリッ。
彼の視線と手が止まった。
一瞬、小さく口元が動いた気がした。
帰りのタクシーの中で、私は目を閉じる。
彼の姿が浮かんでくる。
私だけが話し、彼は黙って耳を傾けながら、鉛筆を動かしていた。
ときどき手を止め、紙へ視線を落としていた。
なぜだか、彼も辛そうに見えた。
あれは小学校三年生の、今日みたいに暑い夏だった。
大人しいまりちゃんと、活発な私はなぜか気があって、二人でよく遊んだ。
「ずっと仲良しでいようね」まりちゃんはそう言ってくれていたのにーー
まりちゃんの家は裕福で、その頃には珍しい三階建ての白い壁の家だった。
あの日もいつものようにまりちゃんの家の裏山へ遊びに行った。
当時は今よりずっと自由で、山の斜面を削ってできたそこは、「すべり山」と呼ばれていた。
近所の子どもたちだけが知っている、秘密の遊び場だった。
まりちゃんは運動が苦手で、みんながすべり山を駆け上がる横で、いつも草の生えた脇道から登っていた。
けれど、二人だけで遊んだその日は違った。
珍しく、私の後ろを両手をつきながら登ってくる。
「あっ」
私は小さな声に振り返る。
まりちゃんの体がふわりと浮き、こちらへ手を伸ばしている。
私は慌ててその手を掴む。
掴んだ、はずだった。
タクシーが信号でブレーキを踏むたびに、私は現実へ引き戻される。そうしてまた、ずるずると深い闇に沈んでいく。
続く
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