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連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑪


続きです          
              (3563文字)

電話の向こうの低い声が、暗い井戸の底みたいに私の中に落ちてくる。主人が火災に巻き込まれ、病院に搬送されたと。
歯がカチカチと鳴り始め、それに合わせるように全身も小刻みに揺れ、私は震える両手を強く合わせる。
「拓也……」と声にした途端、涙で視界が滲む。
拓也は大丈夫だろうか。
私は何かがもう戻らない場所へ、転がり落ちているのではないかと、浅く息を吸うことしかできない。

私を乗せたタクシーは静かすぎる山道を下っていく。運転手が何か話しかけてくるが、何を話しているのかわからない。声が私の耳を素通りした頃、運転手も諦めて黙り込む。
ライトに照らされたガードールが一瞬だけ白く浮かび、すぐに闇へ沈んでいった。


ほんの数時間前ーー
真昼の熱を引きずった時間にも、私は同じようにタクシーの中にいた。あの時も、何かに急かされるように乗り込んだ。それでも車内でふと拓也の顔が浮かび、LINEを送った。
ーー今夜は職場の人とご飯食べてくるから、少し遅くなるかも。
ーー珍しいね、由香里が外で食べてくるって。わかった。楽しんで。僕も外で食べてくるよ。

山の木々は暗い闇の奥で少しずつ輪郭を失っていく。私もまた、そこへ沈みかけている。


タクシーが停まった救急病院は私の知らない街に白く浮かんでいた。受付の明かりだけが、夜の底で濡れたように滲んでいる。
自動ドアが開くと冷たい空気が足元をさっと通り抜け、消毒液の匂いが後から追いかけてくる。

廊下の端にいた、黒い手帳を開いた男性が静かに頭を下げた。私も薄く頭を下げながら、救急受付のカウンターで主人の名を告げる。
名前を書こうとして手が震え、何度も呼吸を整える。ボールペンの黒い字が、白い紙の上で小さく揺れた。
少し待つ間にも肩と足に力が入り、私は固く結んでいた唇を薄く開き、時折息を吐き出した。

「ご家族の方ですね。現在処置を進めています。状態は安定していますので、少しお待ちください」
看護師が一瞬だけ目を伏せたように見えたのは、私がそう思うだけなのだろうか。

拓也の無事を聞いた途端、張り詰めていた肩から少しだけ力が抜けた。
硬い長椅子に座っていると、今度は制服姿の男性が近づいてきた。
「奥様ですか」
連絡はとれていましたかーー警察はそう聞いた。
携帯は繋がる。
でも私は、今夜も、外泊していた夜も、拓也がどこにいたのかわからない。拓也もまた、私がどこにいるのかわからない。

同じだ。

警察が告げた◯◯町のマンション火災。
その住所を私は知らない。
現場にはもう一人いたらしい。

遠くでカチャカチャと金属の音がする。
空調の効いた院内の冷たい空気が私の衣服の中に流れ込み、まだ残っていた嫌な汗を撫でていった。胸の奥に沈みかけていた錘が、さらに深い場所へ落ちていく。


「お待たせしました」
若い看護師に声をかけられ、私は慌てて立ち上がる。
案内された白いカーテンの奥で、拓也は疲れ切ったように目を閉じていた。
焦げたような匂いが乱れた髪から漂っている。
汚れた顔は拭いてもらったのだろうか。
唇の辺りに白い絆創膏が浮き、鼻には細い酸素チューブが入っていた。
手の甲に貼られた白いテープの下で、冷たい液がゆっくりと落ちている。

私に気づいた途端、拓也はほっとしたような、申し訳ないような、気まずい顔をした。

拓也は大丈夫だった。
良かった。
今はそれで十分だった。

「拓也……無事で良かった……」
声にした瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩み、私はそっと目頭を押さえた。
「ゆっくり休んでね。また明日くるね」
そう言い残し、私は静かに白いカーテンの外に出ていった。

外に出ると、夜なのに空気はまだぬるかった。
アスファルトは昼の熱を残している。
肌にまとわりつくのは、生ぬるい夜気なのか、今日一日の出来事なのかわからない。
月はまだ雲に隠れたままだ。
私も隠れたままで良かったのかもしれない。


私は今出てきた病院を振り返る。
拓也と同じ、あの大きな白い箱の中に、きっと私の知らない女性もいる。
拓也の荷物には知らない匂いみたいに、見覚えのないものが紛れ込んでいた。
冷たくなった私の指先は、その見覚えのないものを摘んでするりとゴミ箱に落としたーー
つもりだった。
私の指先から離れなかったそれは、拓也の荷物に戻っていった。

これは、拓也に心も体も開ききらなかった私へ返ってきたものかもしれない。

夏の夜風が私の頬を撫でていく。
ふと、アトリエの彼の指先を思い出し、私は涙が溢れてくるのを止められず立ち尽くしていた。


あの日から一週間、私は毎日拓也の顔を見に行った。
病室の影から視線を感じるような気がするのは私がそう思うからだろう。
拓也が退院するまでは何も聞くつもりはない。
「さっきこの下のコンビニに寄ったら、また新しいスイーツが出てたよ」
「今日お店にきたお客さんがね……」
私が何も触れないから、拓也は少しずつ元の顔に戻っていく。

私はマンションに帰り、小さな灯りの下で、美濃焼きのエメラルドグリーンの皿をテーブルの上に置いた。ゆらゆら揺れる緑に吸い込まれそうになり、私はいっそ、吸い込まれてしまいたかったと思いながら、白い布でゆっくりと包む。
もう、使うことはない、使わない。
チョコレートももう買わない。

あの夜背中で感じた彼の涙を思い出し、私はぽろぽろ涙を溢した。

私の心の奥に初めて触れた人。
私が初めて触れてほしいと思った人。
もっと触れてほしかった……

「いてほしい」
そう言った彼は、私に何を求めていたのだろう。
明日、拓也が退院してくる。
あの夜、私は彼じゃなく、拓也を選んだ。
赤茶けた髪も、コーヒーの香りも、あのアトリエもーー
もう、淡い夢の中へ沈みかけている。


退院した夜、テーブルに二人で向かい合って座っていた。
「退院おめでとう」
私は拓也にやんわりとした表情で言った。
「ありがとう……ごめんね、心配かけて……」
拓也は喉に何か貼り付けたように次の言葉が出てこない。
「……病院にも毎日、ありがとう……」
拓也はそこで止まり、咳払いしながら空になった湯呑みに手を伸ばす。

「……もういい」私は独り言のように呟いた。

「えっ?」拓也は小さく驚いて私の顔を見上げた。

ガタッと私は椅子をひいて、飲みたいわけでもないのに水を飲みに行く。

「今日はもう、休もう……疲れたでしょ」
喉に落ちていく水は何だか少しぬるかった。

「話はまた……そのうち聞かせて」

拓也は小さく「おやすみ」と言って、先にもぞもぞとベッドに入っていく。その背中が頼りなく、妙に悲しくなってくる。

拓也の寝息を聞きながら、私は暗い天井を見上げていた。
退院したら、ちゃんと聞こうと思っていた。
でも少し痩せて、嫌な汗をかいている拓也の姿を見たら、まるで自分を見ているようで息が苦しくなってきた。どうしても何かが胸につかえ、声に出来ない。そうして言葉は喉の奥に沈んでいった。私は拓也を責められない。

本当のことを聞きたいのか、聞きたくないのかわからない。聞けば繕っていたものが音を立てて崩れてしまいそうで怖かった。私たちはまた、何もなかったように朝を迎えるのだろうか。

私たちは似ているのかもしれない……


次の日もその次の日も、私たちは同じ朝を繰り返した。
外で花火の音を聞いても、火事の話はしなかった。拓也は仕事が終わると真っ直ぐ家に帰ってくる。今の私のように足取りは重くならないのだろうか。
真夏の商店街のアーケードの下はむっとするような熱が溜まり、肌にまとわりついてくる。
錆びたシャッターが音をたて、夏休みの子供たちの声は天井に跳ね返り、夏祭りの準備をする大人たちのTシャツは汗で背中に張り付いている。
あちらこちらから音楽が流れていた。
目が回るようだった。
その渦の中で私は立ち尽くしていた。
私はどこへ向かえばいいのかわからなかった。

もう少し先にチョコレート専門店が見える。
その手前から、コーヒーの香りがふっと流れてくる。

突然私は前によろけてしまう。
小学生ぐらいの女の子が、後ろから走ってきて私にぶつかった。
女の子は小さく膝をついたまま、顔を上げた。
私は慌てて「大丈夫?」と声をかけ、手を差し出した。女の子は恥ずかしそうに一人で立ち上がる。前を行く友達に早く行こうと声をかけられ立ち去った。
カバンのキーホルダーが揺れながら遠ざかって行った。しばらく、その揺れだけが残っていた。

次の日の朝、拓也がつけたテレビに私は吸い寄せられていく。まるで暗いトンネルの穴に落ちていくように。

「速報です。◯◯県◯◯市女子高生殺人事件で、容疑者とみられる男が、先ほど身柄を確保されました」


タクシーから見たあの風景ーー
あの丘へ続く道ーー
テレビから目が離せない。
背中の奥が冷たく泡立っていく。

拓也が何か話している。
私の耳には何も届かない。


続く




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