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連載恋愛小説-「秘密」⑯


続きです  
               (2329文字)

僕がまだ五十歳になっていない年だった。
地域のお寺の役に当たった僕は、随分古くなったお寺に向かう。
お寺の下の公園は少子化の波もあり遊ぶ子どもはおらず、柵は錆び、すっかり寂れ淋しい佇まいになっている。唯一、一本の桜の木だけが今年も満開で、誰も来ない公園を見守っている。


珍しく公園のベンチに一人腰掛けているおじいさんがいる。帽子を深く被り、脇に杖を置いている。見かけぬ人だと少し気になり、近づいて行った。僕が近づくとふぁっと、その人は顔を上げて目が合った。


「和かぁ......」

「おじさん!トキオおじさん!元気にしてたの?」
聞きたいことや、話したいことは山程あるけれど、何から聞いていいのかわからない。
「......相変わらず、ここの桜は綺麗だなぁ....」
おじさんは呑気そうにそう言った。


「おじさん......突然居なくなって、僕、悔しかったんだよ。何で相談してくれなかったんだって。」

「......色々迷惑かけて悪かったなぁ。俺のポンコツ頭では.....なぁ。」っと言って、泣き笑いのような顔をした。青白い顔に深く刻まれたほうれい線と細かな皺。無精髭、帽子からほんの少しはみ出た白髪、何年も着古したような毛玉のついた紺色のカーディガン、薄汚れた安物の靴。服の袖から出ている手はシミが浮き出て骨ばっている。全身が妙に痩せていて痛々しい。

杖を見ながら僕は聞いた。
「おじさん、体、どこか悪いの?」

「あぁ、もう長くはないみたいだから最後に、桜見ようと思ってな。親父やお袋のお墓も朽ちたままだ......逸子さんは元気か。和は結婚したのか。」
「......いっちゃんは元気だよ。僕は結婚していない。」
「......いっちゃんか。そぅか。そぅか.........じゃ、あっちにタクシー待たしてあるから、行くわ。」

「......おじさん!おじさん、いっちゃんのこと、好きだったんだよね。」

「......あぁ、好きだったよ。遠い昔の話だ。」
「何で、何で父が亡くなった後、交際申し込まなかったの?」
「ばーか。何の取り柄もない俺が言える訳ないだろ。側で見ているだけで良かったんだよ。それなのに俺は........じゃあな。逸子さん、大事にしろよ。」
おじさんはそう言って、杖をついて、とぼっ、とぼっと、後ろを振り向かず歩いて行った。

哀しいぐらい小さな背中は、苦労を背負いこんでしまったけれど、生きてきたよと言葉を残し、春の風に紛れて消えて行った。


おじさんは幼少期にはきっと無邪気にこの公園で父らと駆け回っていたんだろう。淡い恋もしたかもしれない青年期を迎え、親を思い家業にほとんどの人生を費やし、友を亡くし、老年期を迎える......真面目に生きてきたからといって全てがうまくいくわけでもなく、幸せかどうかもわからない。

僕は、僕といっちゃんの心の幸せは、誰の目にも見えないけれど、二人にとっては当たり前でとても誠実なことだった。僕らは誰よりも強い絆で結ばれ、ひっそりと、でも、朗らかに毎日を過ごしている。


桜だけが知っているか。
僕は満開の桜の木にそっと手を添えてみた。



父の二十三回忌の法事の日がやってきた。
縁側から見える雨上がりの紫陽花は青々とし、葉から雨の玉を一粒、一粒、転がしている。清々しくもあり、新緑のムッとするような匂いを立ち込めているような気もする。今年も小さな蕾を隠すように、新しい葉が生き生きと輝いて、鮮やかな緑の葉の重なりが出来ている。遠い昔の法事の日にも確か僕は縁側からこうやって紫陽花を眺めていた。あの時と同じように紫陽花といっちゃんが重なって見える。

紫陽花の花言葉はたしか、辛抱強さ、家族団欒、仲良し、移り気、浮気、無常......

お父さん、今もムッとした顔で僕を眺めていますか。それとも、もう好きにしてくれと呆れ果てていますか。

毎年、同じ姿形を見せてくれる庭木は、僕らも変わらずここで生きてきた事実だと僕は感慨深くなる。


仏間にそれぞれ高齢になった叔母さんたちが、腰や足が痛いと言いながら入って来た。
貴子叔母さんのご主人は三年前に他界し、今日は下の叔母さん夫婦と一緒に来てくれた。
「まぁまぁ、逸子さん、和くん、お久しぶりね。元気にしてた?私もそろそろあの世が近くなってきたわ。」
久しぶりに出会う叔母さんは腰が曲がり、一回り小さくなったようだ。 

「叔母さま、よく来て下さいました。」
「逸子さん、いつも家を守ってくれてありがとうね。」

久しぶりの会食で話しが弾み、貴子叔母さんがつい、本音を言う。

「和くん、今からでも結婚は遅くないわよ。いい人いないの?いいかげん逸子さんを楽にさせてあげなくっちゃ。」

僕は「参ったなぁ。」っと頭を掻き、いっちゃんと目を合わせる。いっちゃんの目はどこまでも楽しそうに笑っている。


その夜、いつものように二人枕を並べて寝る。いっちゃんの湯上がりの匂いが鼻腔をくすぐり、僕はいっちゃんの首筋に顔を擦り寄せ匂いをかぐ。いっちゃんはくすぐったそうに笑い、僕の頭を包み込む。柔らかで緩やかな体はいつだって僕だけのもので、そのことに安堵し、小さかった頃の自分に戻りいっちゃんの体温に安心をする。そうかと思えば、いっちゃんのうっすら開いた口から漏れる吐息は全てを忘れ壊しにいく。そしてまた、あまりにも頼りなくか細い腕が妙に悲しくて、僕は切なくて愛おしくて守ってあげたくなる。
もう激しい熱は夜の闇に必要ない。

いっちゃんが笑顔になるたびに出来る目尻のしわが僕に安らぎをもたらす。あぁ、ずっと一緒に生きてこれたんだと、僕の目尻のしわも優しくなる。

静かで確かな温かさに僕たちは包まれ満たされていた。


続く

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