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連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」②

続きです
               (2167文字)

足早に商店街を通り抜け、右に折れた先にマンションがある。近づくにつれて、足取りは重くなる。

主人の拓也は土日が休みだ。今日は代休で家にいる。外泊は決まって休日前夜だった。

自宅から商店街を抜けて地下鉄に乗り、五駅超えたところに拓也の会社がある。

「後輩と飲んで帰るよ」と夜遅く連絡をしてきたまま、昨夜は帰ってこなかった。

今日もいつもと同じような言い訳をするのだろうか。「終電に間に合わなくてカプセルホテルで寝て帰ったよ」と、何度聞いたことだろう。付き合う人の名前が、後輩から先輩に変わり、友達に変わるだけのことだ。

最初の頃、拓也は饒舌だったと思う。
「後輩の伊藤が仕事で悩んでいてね。落ち込んでいたからカラオケに付き合ってきたよ」
等と話しながら、最後には、「ちょっと疲れたな」と、付け加えることを忘れない。

体を壊さないかと心配をしていたはずなのに、回数が増えるたびにそれは苛々や不安に変わっていき、やがて私は「そう」としか言わなくなった。
私が「そう」としか言わないので、拓也の言い訳も、とりあえずお水を一杯飲むようにだんだん簡素化する。

胸の奥が冷たくなる一方で、拓也が家を空けることに、今夜はこれで断る理由を探さなくていいと、少しほっとする自分もいる。


今頃ソファで、くつろいでいるだろう。

「ただいま」
「おかえり。昨夜はごめんね。また終電間に合わなくて、カプセルホテルで寝て帰ってきちゃったよ」
「そっか。いいよ。寝る場所があって良かったね」

そう言いながら、流しの上をちらりと見る。
昨夜ラップにくるんだお皿が洗って伏せてある。もうそろそろ、作らなくても良いのかもしれないと思う気持ちがまた、揺れる。

思った通り、拓也はキッチンに続いたリビングのソファに、ルーズなスウェット姿で寝転んでいる。
「昨夜のおかず、お昼に食べたよ。ありがとう。ごちそうさま」
携帯を触りながら、拓也が話を続ける。

「ねぇ、由香里。今日のニュース見た?体の一部が見つかったって」

私はまた胸が、一瞬、キュッとする。

「うん。怖いわ。」

「やっぱり、行方不明になってる子なのかな〜」

「うーん。どうだろう」

私は話を終わらせたくなって、洗面所に向かう。
今朝のゴミ置き場での会話もする気はない。
ハンドソープを思いっきり泡立てるが、ぞわっとした気持ちは早々に消えそうにない。昨夜見た夢も思い出し、ざわざわした気持ちも一緒に落ちるといいなと思い、手をこすり合わせ続ける。



「ねぇ、由香里」
「うわぁ!」
不意に背後から声をかけられ驚いた。
「びっくりした〜。何?」
「……戻ってこないなぁと思ってさ」
「……そう?丁寧に手を洗ってるだけよ。すぐ、夕食の準備をするわ」
「僕も何か手伝うよ」
手伝うか。
私が無言でいるから、問いかけるような顔をして、拓也は私を背後から抱きしめてきた。
「やめて」と言って、私が体をよじった瞬間、拓也の手の力がふっと抜けた。 
拓也は最初から何もなかったようにソファに戻り、携帯に目を落とす。
嫌いじゃないのに、触れてほしくなかった。


拓也と住むマンションと、商店街を通り抜けた先にある職場が、今の私の居場所になっている。地元を離れて住むようになってから、ほとんど知り合いがいなくなった。私はそれを密かに望んでいた。


週が明けて仕事の帰り、いつも通り前を通り過ぎるはずだったのに、足が止まった。
私はチョコレート専門店の前に立っている。

扉を開けると、ちりりん、と鈴の音が静かに響く。店内は外から見るよりも案外奥が深い。私は一歩足を進める。木で出来た床の軋む音が妙に申し訳ないような気持ちにさせる。 
少し暗めの店内に入った瞬間、空気の温度が変わり、外の世界と遮断される。甘さの少ない酸味を含んだ香りが静かに漂っている。
入り口付近には、小さく砕かれたカカオの粒が無造作に瓶に入っている。カカオニブと書かれているそれは、量り売りのようだ。
発酵したカカオの匂いと彼のあの時の佇まいがどこか似ている気がして、苦味の奥に説明のつかない甘さを感じ、私はその乾いた闇のようなカカオの粒に吸い寄せられ、覗き込む。

彼はこれを掬ったことがあるのだろうか。

目を上げると幾つか瓶が並んでいる。私は生成りの紙に黒いインクで書かれた短い説明書を読んでいく。どうやらここは、発酵カカオ豆で出来たチョコレート専門店のようだ。

壁面に設られた木の棚には、今まで見たことがない板チョコレートが並んでいる。異国の空気をそのまま閉じ込めたような紙に包まれたそれらは、全て輸入品のようだ。イタリア、ベルギー、エクアドル……遠い国の名前が目に飛び込んでくる。

有機ローチョコレート、有機カカオペースト、有機ココナッツシュガー…
有機、有機、有機……
カカオ100%……
美容と健康に良い……
凄い。こんなの見たことがなかった。魅力的な言葉の羅列に私はうっとりとする。

私は千円札で買える、ベルギー産カカオ85%の青と黒のツートンの包装の板チョコレート一枚手に取り、レジに向かった。今日は店主の姿は見当たらない。ロングの髪を一つにまとめたアルバイトの女性がにっこり微笑み、小さな透明の袋に入ったチョコレートの欠片も一つ、一緒に手渡してくれた。

それはまるで宝石のようで、私の心は一瞬だけ、ときほぐされた。


続く


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