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「拾った小石」⑨(#創作大賞2025#恋愛小説部門)


続きです         
                (1556文字)


彼が出て行った夜、私は泣かなかった。
私は本当に悲しい時、涙が出ない。

自分に対する嫌悪感を払拭するかのように、次の日から次々と積極的に予約を取り付け、仕事に没頭した。爪先にこそ、私の創造力を発揮し、お客様の笑顔と幸せの一部が宿っている。そのことが、私の何ものにも変え難い生き甲斐になっている。自宅に帰っても、彼がいた時にはサボっていたトレンドの情報収集を欠かさない。

彼が出て行って一年半程過ぎたある日のサロンで、いつも予約を頂く矢上様がいつものように、声をかけてきた。

「ねっ、麻美ちゃん。又、ホームパーティーするの。貴方も仕事ばかりしていないで、たまには息抜きにいらっしゃいよ。誘っても何だかんだ理由を付けて、ちっとも来てくれないんだから。あなたに紹介したい人もいるのよ。」

珍しく行く気になったのは、自分でもよくわからない。変わりたかったのかもしれない。

矢上様が山の上の自宅で度々開かれるホームパーティーに、声をかけて下さる度に、言い訳を考えるのが面倒で、チッと舌打ちをしたくなるような気分になっていた。

その日は春の心地良い風と柔らかな光に包まれ、タクシーの中で、えいとと出会った夜のことを思い出していた。えいとと出会った春は、春を春だとも感じず、生温かい暗い海の底に沈んでいた。この春の陽気さが苦手なんだと思い出し、来たことを少し後悔した。

やっと着いたその瀟洒な邸宅は、矢上様の雰囲気そのものだった。

「麻美ちゃーん。来てくれたのね。嬉しいわ。こっちよ。こっち。どうぞ。」

随分悩んだ手土産を、挨拶しながら渡すとすぐに、庭やテラスに通じるリビングに通された。大きな掃き出しの窓は開け放たれ、穏やかな風が通っていた。あちらこちらで幾つかの輪が出来ており、談笑している。

「栄子(えいこ)さん、お飲み物、こちらでよろしかったですか?」

私の背中の後ろを通り、矢上様に向けられたその声を聞いて、一瞬、私は心臓が止まったかと思った。目を見張った。驚きのあまり、あっと、声が出そうになり、慌てて口元を押さえた。

「あぁ、ありがとう、えいと。えいと、こちら、私がお世話になっているネイリストの伊藤麻美ちゃん。」

「......初めまして。僕、進藤えいとです。」

えいとが今まで見た事がないような洒落たスーツを着こなし、綺麗なお辞儀をする。

「はっ、初めまして。い、伊藤麻美です。」

「珍しいわねー。麻美ちゃんが、緊張しているの。いつも堂々としていて、緊張している姿なんか見たことないのよ。ふふふっ。」

矢上様に痛いところを突かれた気分だった。なぜ、えいとが、ここに居るのだろうか。矢上様の隣で微笑んでいるえいとはあの、えいとなのだろうか。矢上様の下の名前は栄子さん。えいとは矢上様の男になったの?

矢上様が一人で話しを進める。

「えいととはね、偶然出会ったの。綺麗な子でしょ。連れて帰ってみると、お料理は出来るし、マッサージは出来るし、ヘアーメイクもとっても上手なの。今日の私のヘアーメイクもそうなのよ。」

動悸がして息が出来ない。嫌な汗が出る。私が捨てた人。吐きそうで気分が悪い。ふらっとして倒れそうになる。血の気が引く。その場で崩れそうになり、えいとが支えてくれた。

「麻美ちゃん!大丈夫?」

矢上様が心配そうに顔を覗き込みながら、声をかけて下さった。

「ごめんなさい。矢上様。体調が良くなかったみたいで......折角なのですが、ここで失礼させて頂きたいと思います......」

「あらー残念ね。ここで少しお休みされたら?来たばかりなのに。」

「いえ。ご迷惑をお掛けすると思いますので。」

「そお?あまり無理しないでね。えいと、近くまで、送って差し上げて。」

「はい。栄子さん。」


続く


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