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連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑩

続きです          
              (3207文字)

私は誰にも話すことはないと生きてきたのに、
話してしまった……
何故、あの日の蓋を開けてしまったのだろう。
一度開けた蓋はいくら閉めようとしても、隙間から中身が染み出してくる。

太陽がじりじりとアスファルトを焦がし、額や背中に汗が滲む。逃げ場のない熱が私の胸の内に溜まり続け、理由もなく心だけが急かされていく。


あの日の彼の姿と、触れられた耳に残る手の優しさが忘れられない。
彼はまだ私に絵を渡さない……


私は思わずマンションの手前で踵を返す。
白く焼けた陽射しの向こうへ遠ざかるタクシーを追いかけるように、私は駆け出した。


タクシーの窓の向こうは、濃い緑が流れていく。
私はその奥へ奥へと吸い込まれ、もう戻れない場所へ向かっている気がした。


右手に見える洋館は、溶けそうな夏の光の中に沈んでいた。窓の奥は何かを隠すようにひっそりと静まり返っている。


アトリエに着くと、あの女の子がちょうど自転車に跨がるところだった。
彼女は私に気づくと足を止めた。

冷えた空気の名残を纏ったまま、黒目がちな瞳だけがまっすぐ私に向けられる。
「私、修さん好き……でも、もう来ない」

彼女の透き通った声は、ひんやりと私の耳を掠めていく。

「絵、三枚描いてもらった。あなたのはまだなんでしょ?」

私はそれには触れず「気をつけて帰って」と微笑んだ。もうこの子と会うことはないーー
何故だか、そんな気がした。


私はほんの少し落ち着いた。
その途端、汗ばんだ肌にまとわりつく自分の匂いが気になりだした。


大きく息を吐き、ゆっくりドアを押す。


カラン、カラン、カラン。

彼はすぐ側にいた。
何も言わず、目元をくしゃりと緩める。
私はいつもその顔を見ると力が抜けてしまう。
遠い昔どこかでみたような、私をほどいてしまう顔。

「来てくれたんだ……おいで」

ふわりと私を抱きしめた。

えっ。

「ご、ごめんなさい。私、とても汗をかいてる……」

私は慌てて彼を押しやった。


「いい絵が描けるよ」
彼の手が、熱を持った私の頬を撫でていった。



カチャリ。


彼は玄関の扉に、後ろ手に鍵をかけた。



金色のドアノブの向こうで、私は少しずつ剥がされていく。
たぶんそれを望んでここに来た。


ポトスの葉はこの前から少し伸びただろうか。

私は心の奥にずっと沈ませていたものを、初めて浮かび上がらせたあの日に戻っていくーー

しだいに彼の視線に我慢が出来なくなり、私は息が浅くなる。うなじに伝う細い汗を、思わず手の甲で拭いたくなった。


「いいんだよ……解放してあげて」

耳元で囁くような声が落ちる。

「……話して」
その声に導かれるように、私は目を閉じていく。
心の奥で錆びついた蓋が、ゆっくり軋みながら
開いていく。

「……小学生の頃住んでいた私の家は、土壁がところどころ剥がれ落ちているような古い家だった。私は白くてお城のような三階建てのまりちゃんの家をいつもうっとりと眺めていた。
髪はベロアのリボンで結び、真っ白な靴下が眩しくて、私はいつもお洒落なまりちゃんがとても羨ましかった。でも、まりちゃんはそんなこと、少しも気にしていない。
すべり山の上はいつも心地よい風が吹いていたの。その日もその風にあたり、おしゃべりをする予定だった。
いつもと変わらないはずだった。
なのに何故、その日ーー
まりちゃんはすべり山を登ってきたんだろう」

話しながら、背中を冷たい汗がゆっくり伝っていく。

ザリッ、ザリッ。

彼は私のどこを抉っているのだろう。
私は話を続ける。


「浮き上がったまりちゃんの黒い目は大きく見開いた。
恐怖に怯えたその目は私だけに向かってきた。
空を掴むみたいに前へ出したその手をとっさに掴んだーーと思った。
でも、離したのかもしれないーー
その時の記憶がないの。

私はまりちゃんがずっと羨ましかったから、本当は不意に押したんじゃないかーー」


ガッ。


彼の鉛筆が深く刺さる。


「気がついたらまりちゃんは山の下に落ちていて、私は怖くて大声で泣いていた。まりちゃんの母親が叫んでいる。救急車の音が近づいてきた。
ーー私はそれ以上思い出せないの」

シャッ……シャッ……

彼は私の何を消そうとしているのだろう。
私は目を閉じて、彼の指から漏れる音を感じながら話を続ける。

「怖い目にあった可哀想な子、気をつかわないといけない子……誰も私を責めないの。
みんな、腫れ物に触るみたいに私を扱った。
クラスメイトの心配そうな顔、私を避ける姿、側へ行くと不意に途切れる声。

でも、私は、私は……
私が死に追いやったんじゃないかと……」



「もっと、楽になっていいんだよ」
彼の言葉が鉛筆の先から静かに流れ込んでくる。


私は自分が許されたいのか、責めてほしいのか、壊れたいのか、壊されたいのかわからない。
ただ、彼の指から放たれる乾いた鉛筆の匂いに、私は何故だか無性に泣きたくなる。


彼がカタと鉛筆を置いた。

「楽にしてあげる」そう言いながら、彼は私のシャツのボタンをひとつひとつ外していく。
私の肩をはだけて優しく手を添えた。目尻をくしゃっと下げて、柔らかく私を見つめている。

私は右手で片方のキャミソールの紐をはらりと落とし、左手でもう片方の紐も同じように肩から滑らせた。

彼は何も言わず、私を慈しむように両腕を撫でてくれた。


「よく我慢したね。もういいんだよ」


彼は小窓から差し込む陽ざしを背に、私を優しく抱きしめた。茶色い部屋へ続くドアは開いたままで、絵画のモデルたちに覗き込まれているような気持ちになる。

彼は私をベッドに横たえ、隠していたものをひとつずつ剥がしていく。

私にゆっくり視線を這わせたあと、彼は静かに目を閉じた。
質感を確かめるように指先が静かに私をなぞっていく。私は堪えきれず、背を反らせた。


彼はスケッチブックを開き、鉛筆を滑らせる。
その先は、私を逃すまいとするみたいに止まらない。

カリカリ……スッ、スッ

「君はそんなことできない。手を掴もうとしたんだよ」

「なぜ、なぜそう思うの。何も知らないのに……」私はそう言いながら、彼の言葉に縋りつきたくなった。私はそのことがたまらなく恥ずかしくて、顔を両手で覆ってしまった。


「僕はね、僕に固執する母に、ずっと息が詰まりそうだった。母は精神を病んで今も入院している。誰かを疎ましく思う瞬間なんて、誰にだってある。
でも……あれは事故だったんだ」
彼の抑揚のない声が、胸の奥に小さく引っかかった。


「由香里さんの手は優しい……」
彼は柔らかな声で囁き、顔を覆っていた私の手をゆっくりほどいていく。

何かを言いかけたその時。


遠くで店の電話が鳴っている。
いつまで経っても鳴り止む気配がない。

「少し待ってて」と彼は私にタオルケットをかけて部屋を出た。


私はポトスの隣に置かれたハンカチの上のキーホルダーに、また目を止めた。
緑の葉の隙間から、この部屋には不釣り合いなピンク色のガラス玉が小さく光っている。



「母親が入院先で亡くなった……」



私は一瞬で現実に引き戻される。

「えっ……修一さん、すぐ、病院に行かないと」


私は慌てて服を抱き寄せた。

「由香里さんにいてほしい」

目と目が合った瞬間だった。
鞄の中で携帯が震えている。
知らない番号。
私の中の何かが反応した。

「ごめんなさい……電話に出るね」


電話の向こうは数回の呼び出し音の後、低い男の声だった。

「◯◯警察署の者ですがーー」

電話を切った私は平静を装おうとしてもうまく表情を作れなかった。

「ごめんなさい……主人が出先で火事に巻き込まれたみたい……行くね。修一さんも早く病院へ」

部屋から出ていこうとしたその時ーー
彼は私を後ろから抱きしめた。
ほんの短い間、その腕に私も手を重ねる。

背中に彼の震えが触れ、私の涙は彼の腕も濡らしている。
それでも行かないと。
手だけがほどけきれず、最後まで残った。
私は振り返らずその場を去った。


彼は私をなぞりながら、自分自身をなぞっていたのかもしれない。


彼もまた、孤独だった。



続く


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