連載恋愛小説-「秘密」⑳終
続きです
(4977文字)
和さん、あなたに初めて出会ったのは爽やかな初夏の頃でしたね。お父さんからお聞きしてずっと会うことを楽しみしつつ、私はほんの少し緊張していました。若葉と同じように匂いたつ和さんを初めて見た時、清々しい風が吹き抜けて、私の不安が一瞬にして消え去り居心地の良さだけが残りました。汚れがなく、人懐っこそうな目は輝いて、なんて可愛いらしい男の子だろうと思い、一目で私は和さんが大好きになりました。
和さんのお父さんに通された家はとても大きくて、私にはやはり相応しくないのでないかと思いましたが、それ以上に、こんな素敵なお家に住めるのかと、ときめきと喜びが勝り心が浮き立つのを抑えられませんでした。
私とお父さんが結婚して以降、家政婦のトキエさんはおいとまされていましたが、分からないことがあるとトキエさんに連絡しても良いようにして下さっていました。
また、和さんを産んだお母様にも精神的に随分助けられました。初めてお母様のお写真を拝見した時は、やっとお出会い出来ました。っと、とても嬉しかったことを覚えています。私は産みの母親の顔を知りません。以前にもお話ししたように、私は和さんのお母様を自分の母親のように思ったものです。お写真の中のお母様は少し微笑まれとてもお優しそうです。お母様は正直、ご迷惑だったことでしょう。お父さんが突然和さんの新しい母親になる人を連れてきて、その人にご自分を勝手に慕われるのですから。でも、私は毎日、お父さんのこと、和さんのこと、何でもお話ししました。悩んでどうしたら良いかわからない時も聞いていただきました。お母様は私にとって心の支えでした。お母様もまた、私がお話しすることで、寂しくないといいなと図々しくも思ったりもしていました。こうして私は和さんを取り巻く親切な人々に助けられ、あなたと安心して暮らすことが出来たのです。
お父さんは和さんの小さい頃は出張で留守が多かったですね。でも私は寂しくありませんでした。私を必要としてくれるあなたという存在があったからです。和さんはどうでしたか?寂しかったですか?私は悲しいことに寂しさをよく知っている人間です。和さんには寂しさという感情も大切にしながら、私という存在で少しでも紛らわせてくれるといいなと思っていました。矛盾しているようですが、どんな感情も悪いことではないと思います。それをどう自分の中で折り合いをつけていくか、願わくばより良い方向にいかせていければ良いなと私は思います。
お父さんと和さんは私にとって初めて出来た家族です。和さんとの日々は私にとって本当に楽しいものでした。和さん、あなたがいっちゃんと呼ぶことを私は良しとしました。もしかしたらそのことが、先々、男女の関係になっていく一片の私の責任かもしれません。結果的に私は育ての親として失格だったのでしょう。いえ、和さんは思慮深くとても立派な愛のある大人になられました。そのことに間違いはありません。私の問題です。
私が親として接することができていたのかは疑問ですが、初めて味わう家庭の味は何ものにも代え難い素晴らしいものでした。時として私は子どもに返り、子どもの頃に味わえなかったことを和さんの体験を通して自分自身が体験して楽しんでいたのかもしれません。
和さんの目はいつだって純粋で真っ直ぐに私を見つめてきました。
「いっちゃんは僕が守るよ。」っと言ってくれたあの時の美しい茜色の空を私は忘れることはありませんでした。あの時、私の心の中にポッと明るい温かな火が灯りました。私はいつだって、その時の明るい温かな火を取り出して愛でたものです。
和さん、あなたの少年時代、学生時代を、私は共に駆け抜けたと、とても懐かしく想い出します。
和さんは成長するに連れてお父さんと段々話さなくなりましたね。お父さんは相変わらず忙しくまだまだ人生の主役を張っていました。お父さんはいい意味で鈍感でいたのです。お父さんも自分が男だからわかるのでしょう。和さんに直接聞けばよいのに、いつも私を通して「和樹、最近はどう?」なんて聞くんですもの。
世間的には元気で明るいお父さんでしたが、繊細な部分は和さんとよく似ていたのかもしれません。もしかしたらお父さんは自分でもわからない心の奥底で、私と仲の良い和さんに妬いていたのかもしれません。決して疑うようなものではありませんが、ほんの少し、違和感をもっていたのかもしれないと思うと、私はお父さんに申し訳ないような気持ちにもなります。しかしながら、和さんが順調に大学生、社会人となっていく姿をとても喜んでいました。立派に育った和さんを、目を細めて見ていたお父さんは、紛れもなく真っ直ぐなお父さんでした。
私はお父さんを深く尊敬していました。でも少しずつ、粗相のないように、お父さんに相応しい女性でいようと思う気持ちが自分を縛り始めているのを感じました。私の過去はいつも灰色の影が忍び寄り、そう、いつか捨てられてしまうのではないかという不安を抱えながら生きてきたのです。お父さんを信頼し安全な場所にやってきて、もうとっくに記憶の奥に霞んだ感情だと思っていました。それなのに、たまに不安と緊張が私の目の前に横たわるのです。お父さんのせいではありません。全ては私の心の内の問題です。
お父さんの前ではいつの間にか笑顔でいることが自然で、それが例え仮の笑顔でも自分だと思うようになりました。和さんといる時は、緊張の糸が緩み、顔も和やらぎ、何故だかとても愉快でした。子どものあなたに私は捨てられることはないという安心感からでしょうか。二人でいると、とても愛おしいものを、積み木のように積み上げている時間のように感じるのでした。
和さんが私に恋をしてくれたのと同じように、私も和さんに同じようにもしかしたら恋をしてきたのかもしれないと、後々思うようになりました。
和さんがあまりに小さい頃に出会ったものですから、この愛情は親子の情であり、弟を思うように家族愛なのだと無理やり位置づけていたのかもしれません。
和さんが成長していくにつれ、いつも側にいたいと思っていましたが、それは母親の愛情だと思い込もうとしていました。和さんにお付き合いする人がいないと聞くと、心の奥で何故かほっとし、成人していく姿はとても眩しくて、和さんが時折見せる私への視線に一瞬ドキッとしたものです。和さんが何か話すたびに私の心は喜びに満ちました。でも、それだけで勿論十分でした。何故なら私は母親だから。母親の喜びを味わっているのだと思い込み、私は自分にもわからない厄介な気持ちを封じ込め、曖昧な和さんの気持ちには気付かないふりをして、しっかりと蓋をしてあっけらかんとした振る舞いをしてきました。
お父さんの死は否が応でも和さんと私を近づけました。お父さんがずっと長生きしていれば、私たちは今の関係にはなっていなかったかも知れません。和さんのお父さんに出会わなければ和さんに出会うこともなく、全ては運命だったのだと思います。生きている人間はどうやら自分の都合の良いように解釈をするようです。お父さんはそんなつもりで結婚したのではないと怒るかもしれません。けれど私はお父さんが、和さんと私を結びつけてくれたのだと、今では思い込むことにしました。和さんと共に生活する上で、二人でその日のことを語らい、食事をする時間はとても幸せな時間でした。
私が熱に浮かされていたあの夜、和さんは私にそっと口づけをしましたね。私は夢うつつの中、徐々に心の蓋が溶けていき、はっきりと自分の心が露わになるのを感じました。和さんにもっと触れてほしくなったのです。なんて、私ははしたなく、だらしのない女なのでしょう。私は厄介な感情を認めざるを得なくなり、受け入れたいと思うようになりました。私の我慢が足りないばかりに、周りの人を悲しませてしまったことは否めません。家族を知らずに育った私は誰よりも家族の結びつきを大切にしたかったはずなのに、藤城家を途絶えさせてしまうのです。藤城家を引き継がれて来られた方々は深く失望されていることでしょうね。
私は、母親になりきれなかったのだと思います。きっと、「いっちゃんでいいよ。」っと言ったあの時から、既に母親ではない道を選んでいたのです。
あなたが世間一般で禁忌と言われる道を選んでしまったのは、全ては私の責任だと思います。
私の愚かな行為っと言えば、和さんはきっと悲しむでしょうね。でも、私は自分が幸せを感じれば感じるほど、恐れと罪の深さを感じるのです。そして恥じるのですが、その思いを抱えたまま決して手は離したくはありませんでした。そうまでしても和さんとの結びつきを選んだのです。そしてそれはあまりにも甘美な世界で、この世の全ての幸せを独り占めしたような気持ちでした。
いつだって、いっちゃん、いっちゃんと、私を呼ぶあなたをどれだけ愛おしく思っていたか見せられるものなら、見せて差し上げたい。
こんなにも豊かで深い人生を歩めるとは思いもしませんでした。
和さんがいつも隣にいてくれて私を守ってくれていたからでしょうか。年をとることも怖くはありませんでした。
和さん、あなたと人生を一緒に歩めたことは、私にとってはこの上もなく幸せで、誰にも誇れるものではありませんが、和さんと私にとっては確かに誇りに思えるのです。あなたを深く深く愛し、愛された事実はもう何も恐れることはなく、後悔の色は一切ありません。あの世でお父様とお母様には顔向けは出来ないと思っていますが、亡くなられた方がいつまでも恨んで暮らされているなんてことがあれば亡くなられた方が浮かばれません。きっとお二人は、穏やかにお過ごしだろうと思うようになりました。お二人と同じ世界に行けるとも思っておりませんし、私は何処の世界に行ってもかまいません。ただ、あなたとのお別れする日が近づいてくることだけが、無性に寂しく、また、心配です。
あなたを残していくことは身を切られるような思いです。私も和さんも置いていかれる寂しさを知っています。今度は和さんだけが、悲しみを抱えたまま、生きていくことになるのでしょう。
「いっちゃんは僕が守るよ。」
本当に本当にありがとう。
和さん、あなたはずっと約束を守ってくれました。
深い愛を知った今、もう不安が頭をもたげることもありません。
私はあなたをいつまでも待っています。
だからもう大丈夫です。
心配しないで下さい。
今度は私が和さんを守ります。
生きて、生きて、生き抜いてください。
私に会えるまで生き抜いてください。
そうでないと同じ場所で出会えません。
私の一番大切な、愛した人
和さんへ
逸子より
とても楽しい人生でした。
僕はノートに顔を埋め号泣した。
ノートはみるみる涙の海で文字が滲み海と一体化する。
うぉーーっ うぉーーっ うぉーーっ
感情の波が僕に襲いかかり、うねりとなって魂が叫ぶ。
いっちゃんのいないこの世を生きていくなんて。
うわぁーーーうわぁーーー
嫌だぁーーっとノートを宙に放ったその時、ノートに挟んであった紙の袋から僕が何十年も毎年いっちゃんに送ってきた赤いリボンがはらはらと舞い降りて、一つ一つ結びつけられたリボンが僕をまるで繋ぎ止めるように大きな輪になり包み込む。
数年分だけがほどけたまま、僕の上に雪のように降ってきた。
僕の赤い血で染まるはずだった白いシーツは、赤い糸のように静かに広がっていく。
僕は赤いリボンに絡めとられ、連れていって欲しいと願いながら、泣いて泣いて泣きじゃくり、そのまま丸まって眠ってしまった。
カーテンの隙間から差し込む淡い金色の朝日に目を覚まし、視線の先に静かに佇む骨壷を見る。
僕の胸元の赤い糸が金色の光の中、ひらりと浮かび上がった気がした。
骨壷の隣の紫陽花の蕾がそっとほどけ、涙が枯れた僕を見守るように、ふっと微笑みかけていた。
僕は胸のポケットに忍ばせていたかみそりを、ベッドの下に...そっと落とした。
生き抜いて、必ず会いにいくよ。
ありがとう。
いっちゃん......
僕の一番大切な、愛した人
おわり
本作はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。
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