連載恋愛小説-「まだ、ほどける途中で」⑧
続きです
(3313文字)
いつもなら不安になるはずなのに、今夜は拓也が留守で良かったと思いながら、マンションの鍵をゆっくり開ける。
帰宅して手を洗い、鏡を見上げた。
お化粧は崩れかけ、素の顔がそこにあった。
シャツのボタンを外し、鎖骨が見えるように襟元をずらす。
白い骨の輪郭にそっと手を添えた。
さっきまでの熱がまだ残っている気がして、私は首を振るようにして服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
それでも体の火照りは消えず、耳の後ろから肩へと指を滑らせるうちに、いつの間に口がうっすら開いていた。
彼の白い手が脳裏に浮かび、小指の側面にうっすら残った灰色が、私の曖昧な気持ちのように見えて、そのままいつの間にか眠っていた。
昨日の名残を引きずるように、静まり返った明け方に目が覚めた私は、カーテンを開け、白み始めた外を見た。
アトリエにあったのと同じ小さな皿をテーブルの上に置く。
緑の色がまだ、揺れているように見えた。
その上に置くはずのチョコレートは、もうなかった。
空の皿を見つめながら、手首をとられ、遺体になった女の子のことが頭をよぎる。
被害者の女の子の手は、何か良くないことをしたのだろうか。
私は自分の震える両手を胸に置く。
事件の犯人はまだ見つからない。その話をする人も少なくなってきて、街には日常の風景が戻りつつあるように見える。それでも多分、どこかは歪んだままで、私の中の歪みと同じだと思う。
空の皿はどこまでも私を吸い込み、底には暗いカカオが待っているようだった。
カチャ
えっ?
「ただいま」
「拓也……おかえり」
「起きてたの?」
「うん……目が覚めちゃって」
拓也は窓の灯りを見て、私が起きていることに気づき、少しだけ足を止めただろうか。目が合わなかった気がする。
ベッドに潜り込んだ拓也の背中は、知らない誰かの背中のようで、酸っぱい匂いにほのかな甘さが混じっている気がするのは、気のせいだろうか。
拓也に声をかけず仕事に向かう。
商店街のシャッターが開いていき、閉じ込められていた湿った生活の臭いが、アーケードの下へ滲み出てくる。何事もなかったように、朝が始まっていく。
私は仕事を終えてチョコレート専門店へ足早に向かった。
ずらりと並んだそれらを前にして、今日はどこの国に行こうかと、唇に指をあてながら思案する。
オレンジ色の紙に包まれたペルー産カカオのローチョコレートに、彼が出してくれたフルーティな香りを思い出し、私はそれを手に取った。
彼には「行かないかもしれない」と言った。
けれど私はたぶん行く。
アトリエへ向かうまでの二週間、私は毎日、ひとかけらのチョコレートを口にした。
私がアトリエに向かったその日、街はぬるい空気に沈んでいた。
タクシーの窓から見える風景は、山全体に午後の疲れがゆるりと広がっているようで、今日という日も、私という人間も……終わりに向かっているような気がする。葉の上に落ちる光と影が静かに入れ替わり、その向こうへ、小高い丘がゆっくりと近づいてくる。
「あっ、停めてください」
女の子が通う高校へと続く道を見て、私はタクシーを降りた。
その方へ歩きかけて、すぐにやめた。
確かめたかったのは場所ではなく、自分の感覚だったのかもしれない。
ただそこに、バス停があることだけは、確認した。
風が吹くたび、ざわざわと葉が揺れる。
葉の間から、幾つもの視線が私を見ている気がする。
斜めからの光が肌を照らし、じとつく汗がシャツに張り付く。
タクシーを降りたことを、少し後悔した。
道の両脇は濃い緑の葉の影が延々と続き、その先の開けた場所に、黒いワゴンとどこにでもあるような白いセダンが停まっていた。
右手には白い洋館が見えてくる。
近くで見ると白い壁がうっすら汚れていて、蒸し暑い今日も窓は閉じたままだ。
庭の草は好き勝手に伸び、葉の擦れる音だけが湿った空気に残っている。
二階のカーテンが、ほんの少し揺れた気がした。
私は幼い頃、お姫様の出てくる物語が好きだった。
ーーあの日までは。
あの日を境に、私はひっそりと生きるようになった気がする。
誰かに近づくと、傷つけてしまいそうで怖かった。
誰にも責められることはなかったのに。
丘の上に着いたとき、彼は店の外にいた。
「あっ」
彼は目元を緩めて微笑んでいた。
「いらっしゃい。赤い顔。タクシーで来なかったの?」
「途中でタクシーを降りたの。周りの景色をゆっくりと見たくて……でも、こんなんじゃ、絵は無理ですよね……一汗かいたみたいになっちゃった」私は困ったように、口元だけで笑った。
「座って」彼はそう言って、お水を私の前に置き、隣の椅子を引いた。目尻をやわらかく落とし、私のおでこの汗におしぼりをそっと当てる。咄嗟のことで私は何もできず、彼の顔を間近で見るだけだった。
赤茶けた前髪は落ち、茶色い眉毛と瞳は、やはり乾いたカカオニブのようだった。
「はい」そう言いながら、私にも新しいおしぼりを渡してくれた。
空調の効いた部屋なのに、また、耳から赤くなってくる。
「おいで」私の耳元で彼は囁き、前と同じように金色のドアノブに手をかけた。
今日の彼は私と同じような黒いシャツを着て、袖をくしゃくしゃと捲り上げている。
部屋の中の壁のモデルたちは、今日は知らない顔をして、私のことを気にもとめない。
私は少しほっとして、椅子に腰掛け、目を閉じ部屋の匂いを嗅いでみた。
乾いた鉛筆や木の匂い、床の埃っぽい匂いに、私は何故だか安心する。
きっとこれから何度もこの匂いを想いだすことになるだろうと、そんなことを、頭の片隅でぼんやり考えていた。
「今日は少し話そう」
紙の上をなぞる鉛筆を止めないまま、彼は言った。
私は少しずつ、答える。
「由香里さんはずっとこの辺りに住んでるの?」
「……結婚してから、坂の下で……修一さんは?」
「僕は子どもの頃、こっちへ来たんだ。由香里さん、結婚前は?」
「……それは言いたくない」
「言いたくないことは言わなくていいよ。ご両親は?」
「元気よ」
「僕の両親は、僕が小学生の頃、離婚したんだ」
彼は言葉を切り、目だけで私を測る。
そのうち、乾いた紙と芯が擦れる音だけになる。
ザリ……ザリ……
私は深く抉られている気がする。
彼がわずかに身を乗り出し、視線だけが私の輪郭を取っていく。
彼の目の前では、余計なものがひとつずつ、削ぎ落ちていく気がした。
私は首筋が熱くなり、自分の指でそのままなぞり、シャツを少しはだけさせ肩を出した。
火照った体が恥ずかしくなり、自分を抱きしめるようにして俯いた。
「……主人が……浮気をしているかもしれない」
私は何を言っているのだろう。
誰にも、言うつもりなんてなかったのに……
カリッ
彼の手が止まる。
サラ……サラ
彼は、私を浮き彫りにする手を止めない。
「私が……悪いの。たぶん……」
涙が一滴落ちて、私はびっくりした。
いつだって、涙は不意に溢れてくる。
トン、トン……スケッチブックを軽く叩く音。
「今日はここまでにしよう」
彼は私の背後へ回り、開いた肩に手を置いた。
「綺麗だね。いい絵が描けるよ」
彼ではない誰かのようなその手に甘えたくなり、私は急いでシャツを掻き寄せ立ち上がる。
「ごめんなさい。私、変なこと言って……」
「それでいいんだよ」
私の頭をぽんぽんと撫でながら、優しい目をして笑っている。
「コーヒー淹れるよ。どうぞ」
私はマンションに帰り、表向き、今までの日常を繰り返す。
日曜の夜、キッチンに立つ私の背後にふいに拓也が現れた。
「由香里」
驚いて私は振り向いた。
「何?」
「さっきから呼んでるのに、返事がないから……」
拓也が私の髪に触れながら、話を続ける。
「なんか、心ここにあらずだね」
「そう?そんなこと……あるね」と、私は苦笑いしながら続けた。
「さっきのアルコールの酔いが回ってきたみたい」
その夜、私は拓也の腕の中にいた。
「由香里、いいよ。とてもいい」
拓也の息はすぐそばなのに、声はどこか遠くで鳴っている気がする。
あの日の事件のことも、誰かの背中も、もう正しくは思い出せない。
青と緑の陶器が揺れている。
乾いた何かが、ゆっくりと割れていくような音。
私はそのまま闇の奥へーー
沈んでいった。
続く
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